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徽宗皇帝のブログ

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マルキシズム批判(1)
私が疑問なのは、日本共産党にとってマルクス思想(資本論その他の著述)は「不磨の大典」で、聖典なのかどうか、ということで、もしそうであるならば、共産党は「日本マルクス党」と名前を変えるべきだろう。
それとも、マルキシズムに限らず、「共産主義」全体を党の思想とするなら、種々の共産主義思想の中でどの部分を受容し、どの部分を否定するのか、それを一般国民に分かりやすく説明すべきだろう。単に「共産党」では、正体不明の政党のままで、国民の支持は得られまい。
私の感触では、上記の前者(共産党=マルクス党)であるように思える。
そこで、私自身、マルキシズムについて無知なので、この際、その考察をしてみたい。
昔なら、「『資本論』を全部読んでこい。議論はその後だ」とされただろうが、今は幸いウィキペディアというものがある。もしもその記述が誤りだと言うなら、議論はそこから再度始めればいいだろう。

ブログ容量の問題があるので、先にウィキペディアの中で、要点と思われる部分だけ転載しておく。後で、その中からさらに議論のポイントとなる部分を摘出してみる。

(以下引用)

マルクス、エンゲルスの思想[編集]

共産主義[編集]


マルクスとエンゲルスは、1847年に設立された共産主義者同盟の綱領の起草を委託され、1848年に『共産党宣言』を書いた。そこでは、人類の歴史は、自由民と奴隷、領主と農奴、資本家と労働者などの、隠然または公然の階級闘争の歴史であるとされ、近代社会はブルジョワジープロレタリアートにますます分裂しつつあるとした。プロレタリアートは、自分の労働力を売って生活するしかない多くの人びとである。プロレタリアートがブルジョワジーから政治権力を奪取し、生産手段などの資本を社会全体の財産に変えることによって、社会の発展がすすむにつれて、階級対立も、諸階級の存在も、階級支配のための政治権力も消滅し、一人一人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となるような協同社会がおとずれるとした[4]


マルクスは1864年に設立された国際労働者協会の創立宣言を書いた。1871年フランスパリ・コミューンが成立すると、国際労働者協会総評議会の全協会員への呼びかけとして『フランスの内乱英語版』を書き、パリ・コミューンを「本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」と称賛した。エンゲルスは1891年に発行されたこの著作のドイツ語第三版の序文で、パリ・コミューンをプロレタリアート独裁の実例とした。


ドイツの労働者政党の綱領草案に対する批判として1875年に書かれた『ゴータ綱領批判』において、マルクスは共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る英語版」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。また、資本主義社会から社会主義社会への過渡期における国家をプロレタリアート独裁とした。


唯物論的歴史観(唯物史観、史的弁証法)[編集]


マルクスはヘーゲル左派として出発し、1840年代に起こったヘーゲル左派の内部論争の過程で、ヘーゲル弁証法哲学やフォイエルバッハの唯物論を受け継ぎつつ、ヘーゲルの観念論やフォイエルバッハの不徹底さを批判し、唯物論的歴史観(唯物史観)を形成した。これは、法律や国家、文化などの基礎にあるのは経済(生産と流通)だとする見方であり、以後彼は経済学の研究に集中することになった。1859年発行の『経済学批判』の序文において、彼は唯物論的歴史観を次のように説明した。


  1. 生産力の発展段階に対応する生産関係の総体が社会の土台である。
  2. この土台の上に法律的・政治的上部構造が立つ。土台が上部構造を制約する。
  3. 生産力が発展すると、ある段階で古い生産関係は発展の桎梏(しっこく)に変わる。そのとき社会革命の時期が始まり、上部構造が変革される。
  4. 生産関係の歴史的段階にはアジア的、古代的、封建的、近代ブルジョワ的生産関係がある。
  5. 近代ブルジョワ的生産関係は最後の敵対的生産関係である。発展する生産力は敵対を解決する諸条件をつくりだす。それゆえ、資本主義社会をもって人間社会の前史は終わる。[5]

以上が唯物史観の要約である。

















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