"メモ日記より「政治・社会的随想」"カテゴリーの記事一覧
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#282 文化大革命
毛沢東の文化大革命は、現在では単なる権力闘争だったと見られているようだが、本当は彼の「永久革命宣言」だったのだろう。つまり、革命によって旧来の社会体制は崩壊し、新たな社会主義国家としてスタートした中国だったが、やがて革命の指導者の多くは、権力と利権漁りに明け暮れるようになった。その成り行きに業を煮やした毛沢東が、革命はまだ終わっていない! と打ち出したのが文化大革命だったわけだ。その基本理念は、「生産者こそが最高の地位にあるべきだ」ということであり、生産者以外の仕事の人々は批判され、農村に追放された。中には、「ブルジョワ思想」のために悲惨な処罰を受けた人々もいた。
確かに、これは行き過ぎた「革命」であっただろうが、しかし、必ずしも間違っていたとは私は思わない。毛沢東は「精神の革命」を目指したのである。資本主義経済が発展してくると、働かない人間こそが儲ける風潮が出てくる。彼はそれを警戒したのだろう。
文化大革命の過ちは、「狂気の自己増殖」にあった。戦前や戦時中の日本では過度の天皇崇拝が様々な悲劇と喜劇を生んだが、文化大革命も、紅衛兵という愚かな子供たちが革命の中心になったために『蝿の王』的な狂気へとエスカレートしていったのである。
理念が正しくても、方法が間違えば、悲惨な結果を生むということの、これは一例である。PR -
#279 神の創造と利用
旧約聖書の中の様々な矛盾は、「人間が神を創造し、利用した」と考えれば簡単に理解できる。たとえば、モーゼがシナイ山で神から十戒を受けたというのは、その直前にユダヤの民がエジプトを出てきたことへの不満を募らせていたことを考えれば、モーゼがシナイ山に籠もって、十戒その他の律法を「創作した」のだと推測できる。また、創世記の中で父親による祝福や呪いが、神と同じ力を持っていることや、ユダヤの律法の中で親への服従と畏敬が絶対的なものとされていることなどは、家族内での父親の権威付けに神が利用されたことを示している。前にも書いた「顕教と密教」の話のとおり、組織や集団の上に立つ人間は、神が人間を創ったのではなく、人間が神を作ったことを秘伝として知っていたのである。だから、ローマ帝国がキリスト教を公認し、やがては国教化したのも、それが人民支配に有効だったからである。
旧約聖書を読めば、人間が神をいかに利用してきたかがはっきりとわかる。つまり、集団の指導者の指示が成功した時は、それが神の意志にかなっていたからだということになり、失敗した時には、集団内部に不信仰な人間がいたとか、不信仰なふるまいがあったからだと言えば、集団指導者の責任は問われなくなるのである。これは、何かに似ていないか? そう、日本の旧社会での天皇の利用の仕方にそっくりである。上の人間の出す命令は天皇の意思とされ、その失敗の責任は、天皇の意思が正しく伝わっていないせいだ、ということになる。いつの時代にも、神的存在を利用することは政治の基本だったのだ。 -
#267 医療費問題について
政府というものの存在意義は、国民の生活を守り、豊かにしていくことである。すなわち、福利厚生が政府の活動の中核でなければならない。しかし、福利厚生ほど軽視されている部門はない。とりあえず、諸外国には、日本のように資源の無い国を奪う理由は無いから、国防問題はそれほど重要ではない。(その証拠に日本は、「元寇」を除いては、自ら他国を侵略しない限り、他国から攻められたことはない。)国防問題は、兵器購入への支出に伴うリベートを狙う、一部の人間にとってのみ重要なのである。
では、日本政府が国民の福祉に役立っているかというと、その反対であり、政府など存在しないほうが国民は幸せになれるのではないかとさえ思われる。たとえば医療崩壊の問題にしても、政府が一切口出ししなければ、問題はすぐに解決するのではないだろうか。
医療費を高騰させている高額医療は、保険制度を廃止すれば、すべて自己負担になり、誰も受けなくなる。そうすれば医療機器メーカーに踊らされて購入していた高額医療機器を買う病院は無くなる。無意味な延命治療も無くなるだろう。つまり、全額自己負担となれば、高額医療は常識の範囲に収まり、医療費は健全なレベルに収まるのである。優れた治療には金がかかるというのは錯覚だろう。本当にいい医者は、不要な治療はしない。ならば、金がそれほどかかるはずはないのである。医療に金がかかるのは、国家的システムの結果にすぎない、というのが私の推測である。(1月2日)
注:この稿もその前の稿も、今後の稿も、書かれた日付と掲載日付は一致しない。 -
#266 お祭り騒ぎの若者たち
「長いナイフの夜」事件でヒトラーが逮捕・殺害した一人が突撃隊長レームであるが、この突撃隊はいわばヒトラーの私兵集団である。つまり、ナチスに反対し、批判する人々をテロで脅し、押しつぶすのが彼らの役割であった。ヒトラーがただの浮浪者から権力の頂点に上るまでは、彼らの働きが絶大だった。
ナチスとは「国家社会主義」という全体主義思想の集団であるが、ナチスという怪物を作り上げた原動力である突撃隊に、なぜ多くの若者が参加したかというと、ナチスが彼らにパンと遊び(生きがい)を与えたからである。第一次大戦での敗戦で困難な生活を強いられた若者たちにとって、突撃隊は一つの職場であり、しかも敵との戦いという生きがいを与えてくれる楽しい職場であった。仲間との集団生活も、スポーツの合宿のようなものであり、「アカ」や「ユダ公」をやっつけるのは楽しいスポーツであったのである。レームは、チームスポーツの監督のような存在であり、いわば彼らの「親父」であった。
正しい歴史的認識も無く、社会の病因を正しく認識する力も無い若者は、邪悪な人間に容易に利用される。彼らは「資本主義は自分たちに何も提供してくれないと確信しながら、しかもマルクス主義を不倶戴天の敵と見なす、階級のはざまに陥った人々」(ノルベルト・フライ)である。これは、現在の日本における右翼あるいはネット右翼の若者とそっくりではないか。資本主義の悪に痛めつけられながら、その根源の敵に立ち向かおうとせず、共産主義という架空の敵のみを敵とするという、「突撃隊」の若者たち!(1月2日) -
#265 6月30日事件
6月30日事件とは、ヒトラーが自らの野心の障害となる党内右派と左派を同時除去(テロで殺害)した事件であるが、この事件は権力掌握を狙う人間のお手本となる事件で、慧眼な三島由紀夫は、この事件に魅せられ、「我が友ヒトラー」という戯曲にこの事件を描いている。(この事件は「長いナイフの夜」事件という魅力的な名前も持っている。)なぜこれが権力掌握のお手本であるのかというと、権力掌握には二つの段階があり、大抵の人間はその第一段階から第二段階へのジャンプができずに滅びていくからである。権力掌握の第一段階とは、社会(もしくは過去の権力)との闘争である。この段階は困難そのものだが、宣伝活動と暴力手段を有効に利用すれば、不可能ではない。ヒトラーの場合は、ユダヤ人と共産主義者を国家の敵として、ベルサイユ体制下の苦境にあえぐドイツ国民を味方にしたのが前者で、その暴力的側面で利用したのが突撃隊である。しかし、過去の権力との闘争が一段落つくと、今度は自らのグループの内部矛盾が噴出し、危機が訪れる。つまり、党内右派と左派の両者が邪魔な存在となるのである。この時に、この両者を同時除去したのがヒトラーの天才であったとは、三島由紀夫が指摘する通りである。これを一つ一つ実行していたら、残った一方に反撃の時間を与えただろうが、同時に撃滅されたために反撃ができなかったのである。その後はヒトラーへの批判はまったく存在しなくなり、(これは体制批判が不可能になったということだが)ヒトラーへの支持を問う国民投票で彼は89.9パーセントの支持を得るのである。(1月2日) -
#262 歴史に学ぶ
学校で学ぶ歴史のつまらなさにくらべ、さまざまな歴史の古典がいかに面白いものかを知らないまま、一生を過ごす人が多いのは可哀想なことである。そう言ったからといって、この私が歴史の古典をそれほど読んでいるわけではないが、少し齧った程度でも、それは十分に分かるのである。
歴史を読むことは、また有益でもある。いわゆる歴史に学ぶという奴だが、それがなぜ可能かというと、文化がいかに進もうが、時代が変わろうが、人間性そのものは変わらないからである。たとえば、ツキジデス(トゥキュディデス)の『戦史』の中で、アテネのデロス同盟支配について、あるアテネ人が、「強者が弱者を従えるのは世の常である。力によって獲得できるものが現れた時、正義を考えて控える者があるはずがない」と言ったというが、これこそ、政治における永遠の真理だろう。また、同じ『戦史』の中の有名なメロス島会談では、強者と弱者の間には、対等な交渉などありえない、という事実が、「民主主義の原点」であるアテネ側使者の口からはっきり述べられる。ついでながら、このメロス会談は、政治的交渉、および弁論術の教科書となるべき見事な文章である。たとえば、その冒頭、アテネ側使者はこう言う。「立て続けに話されると、巧みな口辞に欺かれ、事の理非を糺す間も無いままに、一度限りの我等の言辞に騙される恐れがあるだろうから、一つの論には一つの弁で答える。また、口上に不都合な点があれば、ただちに遮って、理非を糺してよい」これは、あらゆる議論の土台とするべき手続きだろう。(12月24日) -
#247 撒き餌と回収
餌を撒いて魚をおびき寄せ、釣り上げるのが撒き餌だが、このシステムは実は人間社会での商売や政治のスタンダードでもある。しかも、たいていの場合には、釣られた者は、自分がそういうやり方で釣られたことに気付かず、釣った相手に感謝していることすら、よくあるのである。日本のODA(政府開発援助)もその一つで、発展途上国に開発援助をするというそのうわべは美しいが、実はその援助金は日本の商社や企業に還流し、相手国の高官たちや日本の政治家・役人が資金の一部を貰って潤う以外には、日本企業が潤うのがその主たる目的なのである。これは、西欧諸国のやり方を日本が見習ったものだ。
西欧諸国が後進国を支配してきたやり方が、この撒き餌方式である。つまり、一見、相手国の文化発展に援助するように見せながら、彼らを自分たちの文化の底辺に取り込み、やがて自分たちとの「支配~被支配」の関係が無くては生存できないような状況に追い込んでいくのである。先進国が未開発の国でまず行うのは何か。それは、ダムを作り、水力発電設備を作って、その国の生活を電化していくことである。電化を「文明化」と言ってもいい。これは相手国にとっては恩恵である。……そうだろうか? 文明生活は、ある意味では麻薬のようなものだ。一度その味を知ると、それ無しではやっていけなくなる。彼らは贅沢な生活のために必死で働き、こうして資本主義の最下層の歯車となって働くようになる。それから「回収」が始まるのである。教訓「タダほど高いものはない」。(2007年10月5日)
注:これも古い文章だが、近代論として現在も通用する。 -
#246 病院の倒産
時事的問題を論じてみる。昨今、病院の倒産が激増し、今後も増えていくと見られているが、その意味を考えてみよう。医療費改革に伴う診療報酬の減少が病院経営を直撃したのがこれらの倒産の原因だが、しかし、その根本原因は、過剰な病院数にあるのではないか。公立病院では、年期のいった医師は(おそらく、高給その他の理由で)独立を促され、しぶしぶ自ら開業することが多いという。年月がたてば、私立病院の数は不要に多くなる道理である。しかし、病人の多くは、医師の数が多く、設備の充実した公立病院での診察を望むため、こうした私立病院に行く患者は少ない。したがって、こうした私立病院はやがて経営不振となり、倒産する。これが病院倒産の構図だろうが、現在は公立病院も赤字経営で倒産の危機にあるところが多いという。今や病院経営自体が儲からない時代だ。
公立病院での勤務がハードで、しかもその給料が安いため、公立病院をやめて独立する医師が多く、医師不足に悩む公立病院も多い。そうして独立して開業した医師が、今度は自分の病院の倒産に直面するわけだ。こうした悪循環を止めるためには、公立病院での医師の待遇の改善が急務となる。医師の数は十分にあるのに、医師不足であるというナンセンスが、病院倒産という事態なのである。医師の待遇を改善するには、診療費のアップは避けられない。だが、病院に行く患者の大半は、風邪や怪我などの安直な病気であるから、無用な診療過程を廃止し、高額機器の利用をやめれば、診療費を妥当なレベルに抑えることも可能ではないかと思うのである。 (2007年9月27日)
注:上記の通り、この文章は2007年に書いたものだが、現在2010年時点でもまだ事態は変わっていないので、そのまま掲載する。 -
#244 学校では教えないこと
我々は普段、あまり物事に疑問を持たないものである。学校で学ぶことも、ただ教えられた事柄をそのまま暗記するだけで、その内容に疑問を持つことはほとんどない。いちいち疑問を持っていたら多くの学科を勉強する時間が無くなるというせいもある。その中で、根本的な事柄に疑問を持った少数の人間が、偉大な科学者などになるのだが、これは教育制度に反逆しない限りはまともな精神的成長はできないということでもある。
我々がいかに疑問を持たないかの一例を挙げよう。元帝国が世界の大半を征服、支配したことを我々は知っている。ローマ帝国以上の版図を持っていたのである。では、それがなぜ可能だったのか、考えたことがある人はほとんどいないだろう。そもそも、他国を侵略・征服するには戦いが必要だ。戦えば、必ず自軍の戦力も消耗する。もともとモンゴルという小さな民族であるから、最初の兵力が大きかったわけでもない。一度の戦いで戦力の三割程度が損耗するなら、三回も戦えば、その軍隊は滅亡するだろう。それが、なぜ無数の戦いが可能だったのか。これは宮崎市定の『中国史』に書いてあったことだが、これを読んで、眼からうろこが落ちるような思いがした。元帝国の世界制覇の秘密は、戦って征服した相手国の軍隊を、次の戦争の先鋒として用いるという方法だったのである。これによって、本来のモンゴル軍の戦力を温存し、次々に征服していくことが可能になったのである。つまり、将棋のように、取った駒を使ったのである。こうした「物事の理」は歴史のような文系学問にもあり、そこがもっとも面白いところではないだろうか。 -
#242 政府の役目
現代の科学力によって、この世から飢餓を無くすことは簡単である。生産された農産物を、穀物は粉にし、野菜はフリーズドライにして保存が利くようにし、飢餓地帯に送ればいい。インスタントラーメンのもっとも安いものは、1食分の原価が20円程度だろう。それにフリーズドライの野菜や肉を加えても一食分を50円以内でまかなえるはずだ。一日150円の費用で、飢餓から救われる人間が沢山いるのである。
現在の世の中は、農作物や漁獲が多すぎた場合、それを廃棄処分にしている。それを政府の費用で買い上げて、飢餓地帯の救済に当てればいいのである。政府にはそんな金は無い、と言うかもしれないが、税金の一部をそのように使うことに賛成する国民は多いだろう。世の中のあらゆる無駄な出費を無くし、その代わりに人道的な行為への出費を増やせばいいだけのことである。この日本の中でさえも、失業によって飢餓に直面している人は多いはずだ。レストランの残飯や、コンビニの廃棄弁当を手に入れれば、それで生きていくことも可能かもしれないが、そこまでみじめな思いをさせなくても、食費だけなら失業者に政府が給付してもいいではないか。いや、金での支給だと不心得者に悪用される怖れもあるから、現物支給がいいだろう。住居にしても、屋根と壁があるだけの簡便な住居なら安価で供与できるはずだ。そうした福祉を充実させることこそが政治の使命であって、金持ちの財産をいっそう増やすためにあるような政権では大半の国民にとっては有害無益であろう。