"メモ日記より「政治・社会的随想」"カテゴリーの記事一覧
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#238 2500年前のグローバリスト
モラルの根本はすべてのものを大切にすることであるが、これを二千年以上も前に言った人がいる。それは墨子である。彼の説の根幹は「兼愛」と「非攻」であり、「兼愛」とは無差別の愛、博愛のことである。つまり、自分の親だから、子供だから愛するというのではなく、誰でも無差別に愛せよ、というのである。この思想は「孝」という親への愛と奉仕を基本とする儒教からは異端の説とされた。だが、家族や友人など、自分に属するものだけを愛することがしばしば他の集団との不和と排除に結びつくことを考えれば、「兼愛」は絶対平和への必要条件であることがわかる。そして、墨子のもう一つの中心思想、「非攻」とは、こちらからは絶対に攻撃はしないという絶対平和主義である。つまり、原理的に考えれば、二つの集団のどちらからも攻撃を始めなければ、戦争は起こらないということだ。この「兼愛」と「非攻」は、絶対平和をもたらす思想としては、非常に根源的な思想であったが、当時の人々(特に為政者)にはあまり歓迎されなかった。しかし、現在の思想界においても、絶対平和への道筋としてこれ以上のものを提出できるかと言えば、それは疑問である。あまりに理想主義的だ、非現実的だという批判が、「戦争を利益とする人々」から当然起こるだろうが、墨子の思想は根本原理としては正しいはずだ。彼は生まれるのが2000年あるいは3000年早すぎたのかもしれない。儒教集団にとっては、国家そのものも含めて彼等の狭いサークルしか頭になかったのに対し、墨子はいわばグローバルな視野を持っていたとも言えるだろう。PR -
#236 新十戒(2)
実は、モラルの根本となる思想はただ一つに集約される。それは、「すべてのものを大切にせよ」ということだ。つまり、人間、動物、環境、資源すべてを大切にせよ、ということだ。大切にする、とは、愛情を以って接することである。これが実行されれば、すべての悪は地上から除かれる。だが、生存競争はそれを許さないために、社会生活をより良くするには、個々のモラルが必要になる。その試案が「新十戒」である。
第一レベル、小学校低学年レベルでは、彼ら子供でも生活で直面するもっとも基本的な生活ルールとして3点、①相互の愛情と信頼のルール、②暴力的行為・他者抑圧的行為の禁止、③欲望の抑制を挙げた。
第二レベル、小学中学年レベルでは、積極的善行として、社会や集団の人間関係を向上させる三つのルール、④弱者保護、⑤相互扶助、⑥信義の履行を挙げた。
第三レベル、小学高学年レベルでは、人間社会を超えて、この地球に生きる者として守るべき二つのルール、⑦自然と動物の保護、⑧資源の適正利用を挙げた。これは、現代の人間なら、モラルとして考えるべきである。たとえば、自分の金で買ったものだから、それを無駄遣いしてもいい、というのは誤りである。彼がその無駄遣いをすることで、後世の人間が使える資源が減少する。これは、一つの犯罪的行為なのである。
第四レベルは、この資本主義、あるいは経済的自由主義の社会の基本思想、「金がすべて」という思想を抑制するルールである。これは法律や社会制度の改革よりは、モラルとして心に刷り込んだほうがいい。⑨犯罪的利得の禁止、⑩経済的弱者保護の2点である。 -
#235 新十戒(1)
これまで、モラルについて何度か書いてきたが、では、何をモラルの中味とするかについては書かなかった。いや、考えもしなかったというのが本当だ。これは、日本のメディアに溢れる現代の道徳の退廃を憂える発言も同様である。では、それはモラルの中味は自明だということを意味するのか? そうではない。ただ、中味を真剣に考えたことがないというだけだ。たとえば、子供に「嘘をつくな」と教えることは、それを本気で実行した場合、その子供の一生に不利益を与えることは確実である。ならば、もっとも基本的なモラルと思われる「嘘をつくな」は、危険なモラルであることになる。「人を殺すな」も、戦場での殺人や、国家による殺人、すなわち死刑の存在を考えれば、そのままではモラルとして成り立たない。つまり、我々は改めて現代に妥当するモラルを考えねばならないのである。その試案をここに書く。モーゼの十戒に倣って「新十戒」としよう。これは、小学校低学年から教える順番にレベル1からレベル4まである。まず低学年レベル。「①自分を愛する人を悲しませるな。」「②自分より弱い者をいじめるな。」「③自分の欲望のために他人に害を与えるな。」次に、中学年レベル。「④弱い人間は助けよ。」「⑤困っている人は助けよ。」「⑥約束は守れ。」次に高学年レベル。「⑦自然や動物に優しくあれ。」「⑧資源を大切にせよ。」最後に、中学生レベル。「⑨不当な利得を得てはならない。」「⑩富める者は施しをせよ。」なぜこの4段階かについては、別記する。 -
#233 義と利(福祉は不正義か)
モラルを子供に教える場合に困ることの第一は、「何が正しいことなのか」という子供の質問に、どう答えるかであり、もう一つは、「正しいことは当人にとって不利益である場合が多いのに、なぜ正しい行為をしなくてはならないのか」という質問にどう答えるかである。第二の疑問は、正しさについての知識や合意が前提となるのだが、大体の場合においては、何が正しい行為かは直感的にわかるものである。ただ、それを口で言うことは難しいから、道徳教育はその出発点でつまずくことになる。ロールズという学者が正義について論じたことをうろ覚えで書くが、正義の原則は「その問題の利害関係に無関係な第三者として判断する場合に選ぶ行動」が正しい行動だということなのである。つまり、不正義とは、身びいきのことなのである。そして正義とは公正であることなのだ。公正とは、その解決策が特定の人間の利益に傾かず、集団や共同体全体の利益となることである。では、たとえば福祉、すなわち弱者への手厚い保護は不正義なのか。いや、そうではない。弱者への保護があることによって、我々は、自分がその位置に陥った時にも生きていけるという安心感が得られるのだ。そのような安心立命の精神状態が些細な福祉の出費で得られるなら、安いものである。しかも、それはたとえば企業の宣伝広告費にかける厖大な金や、政府の軍事予算と比べて、はるかに少ない金額なのだ。税金の使い道として、福祉予算以上に有益なものはないが、しかし、政府が常に削減するのは福祉予算なのである。 -
#228 富者の権利
私は、政治の課題は三つに絞ることができると思っている。それを一つにまとめれば、「飢餓・戦争・貧困の撲滅」である。「飢餓」の原因は貧困とは限らない。我々は大海の真ん中で渇きに苦しむこともあるのだ。そして、飢餓を無くす方法もおそらくは分かる。それは、中国の政治で言う、「平準法」と「均輸法」である。つまり、物が豊富な時期に安く買い入れて備蓄し、物が不足した時に民間に放出することと、物の豊富な地域から物の不足した地域に物を移動して救うことである。つまり、物資の時間的調整と、空間的調整だ。政治とは、調整である。前に述べた言葉で言えば、分配のシステムである。そして、その分配の大原則は、強者による独占を阻止して、富者(これは強者でもある)から貧者(弱者)へ分け与えることである。これはべつに共産主義や社会主義だけに特有の思想ではなく、東洋古来の政治思想の原則は、「仁政」すなわち、民を憐れむことであったのだ。だからこそ、仁政を行った為政者は尊ばれ、悪政を行った為政者は後々まで批判されたのである。確かに、政治の力学の上ではマキァベリ的権謀術数や厳格な法治思想も必要だろう。しかし、それによって政治の原則が見失われてはならない。宮崎市定の「中国史」の中に、「何れの世においても法律は富者の権利を擁護するに厚く、貧民の困苦を顧みようとしない。そこで平和が永続するうちに自然に貧富の懸隔が甚しくなってくる。」という言葉がある。戦後30年で一億総中流社会を実現した日本が、バブル景気に踊った後、小泉政権を経て格差社会に至った現実とまさしく一致しているのではないだろうか。 -
#226 顕教と密教
これは竹熊健太郎の言葉からヒントを得たものだが、顕教と密教というキーワードは、世界を解釈するためのメスになりそうだ。ここで言う顕教とは、表に出た教義、世間向けの建て前であり、密教とは、中枢にいる者たちのみが知っていることという意味である。大事なのは、「中枢にいる者たちは、表向けの教義をまったく信じていない」ということだ。彼らにとっては、顕教は世間の馬鹿たちを支配し操縦するための手段でしかない。これは宗教だけの話ではないが、宗教においても、その中心にいる人々は、その教義をまったく信じていないというのは、ありえる事だ。バチカンの内部にいる人々はキリスト教を信じておらず、仏教界の中枢にいる人々は仏教をまったく信じていない、という想像である。これは、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の有名な「大審問官」の章で描いた想像でもある。この大審問官は、キリスト教の中心にいながら、「キリスト」は不要だ、と言い切るのである。ただし、彼の場合は、地上の不幸を救うためにキリスト教を自分たち流に変更して世界を精神的に支配するのだ、という信念を持っている。だが、多くの世界での密教は、それほど殊勝なものではない。たとえば、芸能界の内部にいる人間は、アイドルやタレントはただの商品だと思っている。これが密教だ。しかし、無邪気な青少年は、アイドルやタレントを理想化し、その商品を買いまくる。アイドル(偶像)を理想化する戦略が顕教である。マスコミはそれに奉仕する。つまり、馬鹿は顕教に踊らされ、賢い連中はそれをせせら笑っているという構図である。これはどの世界でも同じだろう。 -
#219 哲学とは何か
人類の文化は、物質文化の点では発展し続けているが、精神文化の点では2000年前から少しも進歩してはいない。人類の精神文化は、釈迦、ソクラテス、孔子、キリストの時代でピークに達しているのである。べつにその4人の教義が正しいとは思わないが、その思考レベルの深さにおいて、そしてその意義深さにおいて、彼らに匹敵する精神的巨人が今後出てくるとは思わない。あらゆる倫理も宗教も、彼らの思想のバリエーションにしかならないだろう。つまり、哲学は既に終わった学問なのである。それを今でもやっている人間がいること自体、信じがたいことである。哲学者の中に骨のある人間がいるなら、なぜ人類全体に幸福をもたらす究極の思想を考えようとしないのか。あるいは、世界から永遠に戦争や犯罪を廃絶する根拠となる究極の倫理理論をなぜ考えないのか。それを考えようともせず、現象がどうのこうのなどとくだらない些末事で知的アクロバットをするのが哲学なら、これほど虚しい仕事は無い。たとえば、有名な言葉だが、この世から戦争を無くす確実な方法は、戦争を焚き付ける人間、開戦に賛成する政治家とその家族を最前線に送ることだ、という言葉がある。あるいは、チャップリンの「殺人狂時代」の「一人を殺せば犯罪者だが、多数の人間を殺せば英雄だ」という言葉。こうした言葉は、それを知った人間に戦争がなぜ起こるか、戦争がなぜ狂気であるのかを教える。世の中のくだらない哲学書の数々よりも世の中にとって有意義な言葉である。これが哲学なのである。 -
#218 二人の「隆」
現代のジャーナリスト、あるいはノンフィクションライターの中に二人の巨人がいて、どちらも「隆」という名前である。その一人はもちろん立花隆だが、もう一人は彼に比べると社会的な知名度は低い。ロスチャイルドやロックフェラー、モルガンなど、世界的財閥の悪行を白日のもとに暴き出してきた広瀬隆である。この二人のポジションは対照的だ。片や立花隆はマスコミの大御所として不動の名声を得ているのに対し、広瀬隆の方は、陰謀論者の代表のように思われ、影が薄い。しかし、これは支配層にとって前者は安全な存在であり、後者は危険な存在であることを意味している。立花隆がこれまで戦いの対象としてきたのは、「農協」「共産党」「田中角栄」であり、日本を遠隔操作している米国から見て、すべて不要な、むしろ邪魔な存在である。農協が攻撃された時代は、農産物を日本に売り込むことが米国にとって必要な時だった。共産党は資本主義にとって、恒常的に弱体化させておく必要のある存在である。田中角栄は、米国支配の政治から一歩を踏み出して、日本独自の外交とエネルギー政策を行おうとしており、米国にとっては政治的に抹殺する必要があった。ロッキード事件が米国の謀略であったことは、もはやほとんど歴史的事実と言って良い。つまり、「巨悪に挑んできた勇敢なる騎士」立花隆のイメージは、幻想である。私は彼の文章は好きだから、こう言うことは悲しいのだが、彼の仕事はすべてあまりに米国の日本支配に都合の良い仕事であったのだ。一方、広瀬隆へのマスコミの黙殺は、彼の仕事こそが真実であることを示している。20年後にはそれが証明されるだろう。 -
#216 「進化」した世の中
進化論という思想は、生物学的にも妥当かどうか疑わしい思想だが、「自然淘汰説」自体は当然の考えだろう。つまり、「適者生存」である。だが、それは優れたものが生き残るという意味にはけっしてならない。単純な話だが、善人と悪人が戦った場合、善人には悪が為しえないのだから、あらゆる手段が可能な悪人に勝つはずがないのである。だから、自然淘汰の結果、より優れた存在が勝ち残るわけではけっしてない。こうした「進化論」への誤解があらゆる「進歩」や「変革」への礼賛となり、人々を休みなく働かせることになる。江戸時代には、平均的な町人は、ほとんどの仕事は午前で終わり、後はのんびりと風呂に行ったり遊んだりして暮らしていたという。それも当然の話であり、現代の我々の仕事の大半は無用の仕事であるのに、それを無意味に細かく差別化し、競争しあって忙しくしているだけなのだから。もちろん、それらの仕事の多くは「生活の快適」のための仕事であるから、それを有用と言うなら、話は別だ。江戸時代には電気もガスも自動車も無く、テレビもビデオも無いから、それら「便利な物」についての仕事が一切不要になり、その結果、人々はのんびりと過ごすことになったというだけのことだ。では、どちらが幸福か。おそらく現代の人間は、テレビもビデオも電車も自動車も無い生活は耐えがたいと思うだろう。はたしてそうだろうか。私は、おそらく、それらの存在しない世界に行ったとしても、一月もあれば慣れると思う。そして、前のせわしない世界を一種の地獄だったと思うだろう。 -
#211 選挙制度への提言
日本の政治の問題点は、選ぶに足る政治家がほとんど存在しないことである。選挙における棄権率の高さもそこに原因がある。「誰に投票したって、結局は同じさ」、ということだ。しかし、永遠にその状態を続けるわけにもいかないだろう。それを解決する方法は二つある。一つは、選ぶ側の姿勢として、もしも現在の政治に不満があるならば、必ず新人に投票することである。与党であれ、野党であれ、現職の政治家が現在の政治に責任がある点では変わりない。だから、彼らには絶対に投票してはいけないのである。新人がいい政治家であるという保障はないが、少なくとも一回の機会は与えて、それで判断すれば良い。現職者は、その機会を生かせなかった人間なのである。日本人は、現在の政治に不満を持ちながら、選挙では与党に投票するという不思議な民族だが、それでは現在の政治に満足しているという意見の表明にしかならない。もしも、罪の軽重を言えば、野党の方が罪は軽い。もう一つの方法は、選ばれる側の問題だが、選挙における供託金の制度を廃止し、誰でも選挙に立候補できるようにすることである。現在の供託金制度は現職者やそれに類似した連中の既得権益保護のシステムであり、その為に政治改革に意欲のある、若い、貧しい政治家が締め出されている。たとえ「又吉イエス」やかつての東郷健や赤尾敏のような「色物」だろうが、政治に意欲のある人間には機会を与えてやることが、政治の出発点だろう。