「障害者とは高齢化社会のフロントランナーである」という雨宮氏の言葉はいい指摘だと思う。
(以下引用)
そしてこの日の会見でひとつ、気付かされたことがある。それは記者との質疑応答の場でのこと。いくつかの質問をまとめて木村さんにぶつけた記者に、彼女はゆっくりと言ったのだ。
「私、メモとることができないので、ひとつずつ答える形でいいですか?」
ハッとした。バリアフリーとかよりずっと以前に、こういうことなんだ、と思った。全身がほとんど動かない彼女は、ペンなどでメモをとっておくことができないので質問をいくつもされても記憶できない。だからひとつずつ質問をする。いくら「合理的配慮」と言われても、こういった一つひとつのことは言ってもらわなければわからない。そして障害は、障害者ごとに一人ひとり違う。メモがとれる人もいれば、話すことができない人もいる。100人いれば100通りのニーズがあるのだ。
太郎氏は、木村氏について「究極、国会に存在してるだけでいい」と言った。
その通りだと思う。国会の本会議場で投票する際には、一人ひとり階段に登って投票しなければならない。そんな時、車椅子の彼女はどうするのか。「一人では水も飲めない」という彼女の介助者は、果たして本会議場に入れるのか。想像してみるだけで、あらゆる場所が「健常者向け」にのみ、設計されていることを突きつけられる。「障害者差別解消法」はできたけれど、それをより進め、よりよいものにして、みんなが住み良い、生きやすい社会にしていくことができるのは、やはり障害がある人なのだ。その人たちが政策立案に関わることなのだ。今は元気な人でも、いつか病み、老いる。人間、老いればなんらかの障害を持つ。障害者は、だからこそ高齢化社会を生きるモデルを作るフロントランナーなのである。
と、れいわ新選組のことばかり書いていたら「偏ってる」とか言われそうだが、私自身、この6年間、ブレーンの一人として山本太郎氏を「育ててきた」という思いがある(上から目線で申し訳ないが)。そしてそんなふうに思っている人は、本当にたくさんいる。レクチャーをはじめ、多くの専門家を紹介したり、質問の原案を作ったり、「こういうことをしてくれ」と持ちかけたり、自分の、周りの困りごとを訴えたり。木村英子さんだってその一人だ。多くの障害者施策について太郎氏に教え、そして「力を貸してくれ」と頼んできた。そんなふうに「みんなで育てた議員」こそが山本太郎氏だと思うのだ。そしてこれこそが、ひとつの民主主義の実践ではないだろうか。
山本太郎氏について、私は常々言っていることがある。
それは「世界を変えるのは、いつの時代も”空気を読まないバカ”である」ということだ。
そして今、太郎氏以上に空気を読まない、空気なんか読んでいられない候補者が集まった。もう、今までの政治の知識とか政局云々とかこれまでの方程式とかそういうものがまったく役に立たない前人未到のチャレンジが始まった。
とりあえず、私はこのビックウェーブに乗る。面白いから。だって太郎氏とこの6年間かかわってきたのも、ただひとつ、「面白い」からだ。それが二次被害的に「世の中をマシにする」ことに役立ったら、これほど嬉しいことはない。政治にかかわったり社会を変えようとすることは、苦行ではなく「楽しい」ことなのだ。それがもっと、広まればいい。そしてみんながもっと、投票だけでなく、選挙にかかわっていけばいいと思うのだ。
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