オミクロン株の急速な感染拡大を受けて、国土交通省は、日本への到着便を運航する国内外すべての航空会社に対して、到着便の搭乗予約の新規受け付けを停止するよう要請した……という記事を最初に読んだのは、12月にはいってすぐの12月1日だった。


 私は、
「これは大混乱になるぞ」
 という予感を抱いた。同時に、幾人かの知人の顔を思い浮かべていた。


 もっとも、10年前なら外国に赴任している同級生がそこそこいたのだが、さすがにこのトシになってみると、ほぼ全員が帰国している。
 ただ、留学中のお子さんをかかえている知人は少なくない。近隣の国々を頻繁に行き来している知り合いもいるといえばいる。
 そういう人たちはさぞや困惑していることだろう。


 ……と思う間もなく、翌12月2日には、岸田文雄首相が国際線予約停止要請を撤回した旨のニュースが流れてきた。


 これにもびっくりした。
 うちの国の政府がこれほど機敏な対応を示した事例を、この10年ほど、経験していなかったからだ。


 その撤回の素早さを称賛していない人たちもいる。
 もしかしたら、今回の経緯を、現政権の
「軽率さ」
 や
「方針のブレ」
 と見て、失望している人の方が、総数としては多いのかもしれない。


 突然の予約中止要請は国交省の独断だったとする記事がある。要請したのは国交省で撤回したのは岸田首相であれば、それぞれの号令をかけた主体は異なる。とはいえ、いったん打ち出した国策を、たったの数日で引っ込めたのであるから、各方面から非難の声が集まるのは当然だろう。


「ガバナンスの欠如」
「指揮系統の混乱」
「定見の無さ」


 などなど、ツッコミどころはいくらでもある。


 今後、誰が航空機の予約停止要請を発案し、その要請を、どんな立場の人間がどういう経路で告知したのかについては、しかるべきスジの人間が取材して、明らかにせねばならないだろう。でないと、決断の意味と責任が明示されないまま忘れられてしまうことになる。


 個人的に私は、このたび国交省が打ち出した予約停止要請の大号令を、いともあっさりと撤回した岸田首相の朝令暮改っぷりを高く評価している。


 見直したと申し上げても良い。


 というのも、私は、岸田氏を、首相に就任する以前から、日和見を繰り返すばかりの、優柔不断な政治家であるというふうに評価していたからだ。周囲の状況を慎重に観察することそのものは、リーダーにとって大切な心がけなのだろうが、岸田さんタイプの政治家は、時に、その慎重さと賢明さがわざわいして、決断の機会を逸してしまう。この点を私は憂慮していた。


 高校生だった頃、田中角栄という政治家が「決断と実行」というスローガンを掲げて騒がしく登場した。私は、当時の空気をありありと思い出すことができる。


 その田中角栄氏の浪花節じみた喋り方と、どことなく芝居がかった身のこなしに、なんとなくうさんくさいものを感じていたものなのだが、なにより当時の私は、「決断と実行」というキャッチフレーズに反発を感じていた。


「政治家にはむしろ沈思黙考がふさわしいのではないか」
 などと、オトナぶったことを考えていたからだ。


 しかしながら、田中角栄氏の登場以降に起こったこと(すなわち彼自身の栄光と転落、ならびに、日本という国が経験した躍進と沈滞)をひととおり見渡した上で判断するに、私は、角栄氏が掲げていた「決断と実行」は、悪くなかったと思うに至っている。


 というのも、われら日本人が犯す致命的な失敗は、不決断と不実行によってもたらされているケースが圧倒的に多いように思えるからだ。私たちは、余計なことをして墓穴を掘るよりは、為すべきことに手をつけぬままにむなしく瓦解していくことの多い民族なのである。


 サッカーを見ているとこのことがよくわかる。


 ダメな監督は決断が遅い。


 そして、ダメな監督が打ち出す手遅れの指示は、事態をさらに悪化させる。


 これまで、サッカーについて文章を書くにあたって、私は
 「不決断は誤った決断よりも悪い」
 というサッカー格言を何回か引用している。


 ある時は、イングランドのサポーターの間に古くから伝わる教訓として、またある時はアルゼンチンの伝説的な名選手が口走った述懐として、だ。


 が、それらはウソだった。
 実のところ、この格言は私が捏造したものだ。


 あやふやな原稿をもっともらしく演出する作業の中で、ありもしない格言を引用してみせたわけで、レトリックとしては反則かもしれない。


 とはいえ、この格言を、私は、結果として上出来だったと考えている。


 サッカーに限った話ではない。
 なにかにつけて様子見ばかりを繰り返していて、最初の一歩目を踏み出せずにいることの多い私たちの国の民は、
「不決断は誤った決断よりも悪い」
 という、このニセの格言を肝に銘じておくべきだと思う。


 このたび、国(国交省)は前例のない素早いタイミングで決断を公にして、その決断に付随する誤った要請をこれまた前代未聞のスピーディーな判断で撤回した。


 私は、それぞれの決断の内容そのものよりも、その決断に至った速度を評価すべきだと考えている。


 「はじめからバカな要請なんか出さずにいれば、あわててそれを取り消すドタバタを演じなくても済んだのではないか?」


 というのは、まったくもってその通りなのだが、いったん大々的に国交省が国際線予約停止要請を出してみせた後に岸田さんがそれを取り消したことで、結果として、国民に向けてオミクロン株に備えることの大切さをアピールしつつ、なおかつ混乱を最小限に抑えるという、望外の結果を達成している。これは、ほめて差し上げて良いことではなかろうか。


 私が思うに、岸田さんの前任者である菅義偉氏と、その前の政権担当者だった安倍晋三氏は、いずれも決断の遅い政治家だった。というよりも、自分自身のアタマで考えたり決断したり実行したりすることを滅多にしないリーダーだった。


 それ以上に、いったん打ち出した施策を決して改めない頑固な政治家でもあった。


 典型的なのは、いわゆる「アベノマスク」をめぐる一連の経緯だ。
 布製のマスクというアイディアそのものは、賛否はあるにしても、一概に否定できるものではない。


 じっさい、「アベノマスク」の配布が検討されていたのは、一般国民がマスク不足でパニックに陥っていた時期でもあれば、不織布マスクの取引価格が暴騰し、それで不当な利益の享受をたくらむ業者が出没していた時期でもある。


 そうした状況を勘案するなら、洗うことで再利用が可能な布マスクを広く国民のもとに届けるプランは、決して素っ頓狂なばかりのものではない。


 ただし、マスクの価格や流通量や配布方法については、市場の実態とウイルス感染の様子を観察しながら、その都度見直すことができたはずだとも言える。


 後知恵と言われればその通りかもしれないのだが、全国民一律にガーゼのマスクを配布しなければパニックがおさまらなかったのかというと、必ずしもそうではなかったはずだ。
 事実、不織布のマスクはほどなく市場にもたらされた。
 価格も徐々に安定した。
 不織布マスクの価格低下を「アベノマスク」のおかげだとする意見があることは知っている。まったく無関係ではないのだろう。
 とはいえ、あの洗うと縮んでしまう頼りないガーゼのマスクを、空前の規模で配布し続ける意義については、いささか疑問を抱かざるを得ない。


 配布する意味がなかったとは言わないが、撤退するタイミングがいくつかあったことは指摘せねばならない。


 12月3日の東京新聞によれば、「アベノマスク」を含む布製マスクは、いまなお8000万枚以上が保管されているのだそうだ。ちなみに保管のための費用は、これまでで約6億円に達したと見られている。


 端的に申し上げて、バカな話だと思う。
 政治家が政策を誤ることはめずらしい話ではない。
 当初は適切な方針であるように見えた政策であっても、状況が変われば愚策になる。
 それゆえリーダーは常に微調整を繰り返さねばならない。


 サッカーも同じだ。


 常に正しい戦術が存在するわけではない。
 というよりも、すべての戦術はあらかじめミスをはらんでいる。
 敵チームにリードを許しているのか、それとも自分たちが有利にゲームを進めているのかで、選ぶべき戦術は180度変わる。故障者が出れば、それだけで力関係のバランスは事前の立案と違ってくる。メンバー構成も、時間帯によって考え直さなければならない。
 戦術の変更は、ハーフタイムにその旨の指示を出すか、でなければ選手交代のタイミングでメンバーにメッセージを託す形でおこなわれる。


 ちなみに、監督が、試合の途中で戦術の変更を明らかにすることは、その一方で、変更前に採用していた戦術の間違いを認めることを意味してもいる。


 この
「間違いを認める」
 ということができない監督が、少なくない。特に、日本人の監督は、一貫性を重んじると言えば聞こえは良いのだが、じっさいのところメンツにこだわってばかりで、君子豹変なり朝令暮改なりができない。


 極端な言い方をすれば、監督が「次の手」を打つことは、そのまま「現状」の間違いを認めることを含んでいる。
 であるから、ミスを認めたがらないマッチョな監督は、次の手を打てない。


 実にバカな話だ。そんな腐れマッチョなリーダーが試合前に立案したスターティングメンバーに拘泥していたり、システムの配置を頑迷に守ろうとすることで試合を台無しにするケースを、いくつ見たことだろうか。


 面白いのは、試合後半に投入した選手がチームに決勝点をもたらしたようなケースだ。すると、翌日の新聞の紙面には
 「監督の交代策が見事に機能した」
 結果であるとする論評と、
 「はじめからスターティングメンバーであの選手を起用していれば、こんなに苦戦せずに済んだものを」
 という見方の二通りの記事が並んだりする。


 いずれも、一面の真理を突いている。


 たしかなのは、どちらの見方を取るにせよ、監督という職業が、千変万化する状況の中、常に最善の決断を迫られていることだ。


 そういう意味で言えば、サッカーチームの監督にとって、15分前に下した決断は、すでにして誤りを含んでいるのであって、であるとすれば、彼は不断に自分の誤りを認め続けなければならないことになる。


 私は、国交省が軽率な要請を出し、その要請について岸田さんが素早く撤回を表明したことを、ポジティブに評価したいと考えている。


 この評価は、前任者たる菅政権ならびに安倍政権が「アベノマスク」に関する施策の見直しと再評価を怠っていたのみならず、現在に至ってなお、あの布マスクを保管するために予算を投入し続けている点と対照的だ。


「過(あやま)ちては改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」
 という言葉が『論語』にあるのだそうだが、孔子さまを引っ張り出してくるまでもなく、サッカーであれ政治であれ、正解は常にミスを認めてそれを正していく過程の中にある。子供でも知っていることだ。


 その意味で、岸田首相には期待している。
 ぜひとも森友・加計問題をめぐる行政文書改ざんの再捜査と、「桜を見る会」関連の再捜査に力を尽くしていただきたい。


 岸田さんが担っている役割は、自らの判断ミスや失策を認めるだけでは足りない。むしろ、安倍・菅の時代から引き継がれている害悪を明るい場所に引きずり出して、それらを断罪する役割の方が大きい。


 少なくとも私はそう考えている。


 岸田さんの前任者たちは「ただのミス」であったものを、失策を認めたくないばかりに、巨大な火薬庫に育ててしまった。メンツにこだわって判断ミスを改めなかった大本営の姿勢が、結果として隊の全滅を招いた先の大戦末期の軍事作戦と同じで、ミスを認めないリーダーは、時に、重大な破局をもたらすものなのだ。


 行政文書の改ざんは、ただのミスではない。
 行政の根本を揺るがす緊急事態だ。


 事実を隠蔽し、記録を廃棄し、文書を改ざんするに至った経緯は、歴とした犯罪でもある。
 2017年の2月、安倍総理(当時)は、国会答弁の中で
 「私や妻が関係していたら総理大臣も国会議員も辞める」
 と発言した。
 この言葉で、総理は、引っ込みがつかなくなった。


 国会という場所でマッチョな大見得を切ったことで、問われている疑惑を、進退を懸けた大事件に格上げし、自ら退路を断ったわけだ。


 あんなセリフを吐かなければ、あるいは、資金処理のチェック不足であるとか、身内びいきであるとか、脇の甘さといった程度の話で処理できていたのだろうし、秘書のクビを飛ばす程度のことで済んでいたかもしれない。


 安倍さんの場合、いまさらミスを認めても手遅れだ。
 ミスを認めるのなら、タイミングは早ければ早いほど良い。


 認めない場合、永遠にミスをし続けることになる。


 

 これを本当のミスと呼ぶ。


 たしか、孔子さまも同じことを言っていたと思う。


(文・イラスト/小田嶋 隆)