下半身に人格は無い、と昔から言われているが、広河隆一という人物の公的活動の立派さとプライベートな生活の下劣さが両立していたのが興味深い。(精神分析の対象として面白そうである。つまり、表ではいい事をやっているから私生活は何をしても許される、という思想が存在するのかどうかだ。)まあ、このスキャンダル(下記引用文末尾にある)で、「反広河陣営」つまり、親ユダヤ、親原発派は大喜びだろう。なお、性的問題だけでなく、会社運営でも滅茶苦茶な人権侵害とパワハラを繰り返していたようだ。「DAYS JAPAN」は完全なブラック企業だったわけであり、ブラック企業経営者がサイコパスでないことは滅多にない。
しかし、「人をもって言を廃せず」であり、彼の公的活動や彼の公的発言の正当性がこの醜聞で意義を無くすわけではないのはもちろんである。
(以下、ウィキペディアより転載)
広河隆一
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広河 隆一
生誕
1943年9月5日(75歳)
中華民国天津市
国籍
日本
別名
廣河隆一
教育
早稲田大学教育学部
職業
フォトジャーナリスト、戦場カメラマン、政治活動家
活動期間
1967 to present
配偶者
ルティ・ジョスコビッツ
広河 隆一(ひろかわ りゅういち、1943年9月5日 - )は、日本のフォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家。フォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANの元編集長、同誌発行の株式会社デイズジャパンの前代表取締役および前取締役。有限会社広河隆一事務所代表[1]。日本中東学会、日本写真家協会、日本写真協会、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)、各会員[2]。パレスチナの子供の里親運動顧問[3]、チェルノブイリ子ども基金・元代表[2][4]。認定NPO法人沖縄・球美の里元名誉理事長[5]。
目次
1
経歴
2
関連人物
3
受賞歴
4
著書・編著
4.1
共編著
4.2
翻訳
5
映画作品
6
脚注
7
関連項目
8
外部リンク
経歴[編集]
中華民国の天津市で出生、2歳の時に引き揚げ[6]、小学校入学以前から大阪府羽曳野市恵我之荘に居住した[7]。東京都世田谷区在住[8]。
1956年旧:高鷲町立小学校(現:羽曳野市立高鷲小学校)卒業、1959年羽曳野市立高鷲中学校卒業、1962年大阪府立生野高等学校卒業[7]、1963年早稲田大学教育学部に入学し[9][10]、1967年早稲田大学教育学部卒業。 なお、広河は大学在学中に和敬塾の南寮と称する男子寮に入寮し[11]、入学当初は早大山の会で活動を行っていたが二回生の時に「カメラルポルタージュ研究会」と称するドキュメンタリークラブを立ち上げた[12]。 また、広河はブント系の学生運動を行っていたと主張する者もいる[13]が、ノンセクト・ラディカルとして学生運動を行っていたと主張する者もいる。 やがて広河は、映画会社から就職の内定を受けていたにもかかわらず内定を辞退し、卒業後の1967年にイスラエルに渡航、農業ボランティアのかたわらヘブライ語の学習に精をだす[12]。
広河は渡航当初、コミューン的な生産、生活形態をすすめる共産主義的なキブツに対し憧れを抱いていた。広河がイスラエルへ渡航してから2週間後、1967年6月に第三次中東戦争が勃発、イスラエルがその戦争に大勝利を収める。広河が滞在していたキブツ・ダリヤにおいて「ダーリヤト・アッ=ラウハー(دالية الرَّوْحا)」又は「ダーリヤト・アッ=ラウハーア(دالية الرَّوْحاء)」というパレスチナ人の村落の廃墟を発見したことなどにより、イスラエルによるパレスチナ人に対する過酷な人権侵害を知るようになり、親パレスチナ的な態度をとるようになった[14]。イスラエルにおいては「マツペン」という反シオニスト的な政治団体で活動を行っていた。エルサレムで反シオニズム写真展を開催した後、1970年、帰国。以後、中東諸国を中心に取材活動を行う。
1982年、レバノンの西ベイルートにおけるファランジストというマロン派キリスト教徒主体のレバノン右派民兵によるパレスチナ難民の虐殺、サブラー・シャーティーラーの虐殺を含めた第一次レバノン戦争に関する取材を行い、よみうり写真大賞を受賞[15]。翌83年、同写真でIOJ国際報道写真展大賞・金賞受賞[6]。
日本帰国後に戦場カメラマンとしてイスラエルや原発に対して批判的なスタンスをとりはじめる。一時は立教大学において非常勤講師を務めた[要出典]。講談社の「DAYS JAPAN」に、イスラエルのビジネスマン、アイゼンベルに関する記事や、ダイヤモンドシンジケートの取材、チェルノブイリの現状、731部隊などに関する記事を掲載。また日本テレビ、NHKなどでチェルノブイリや中東に関する報道番組を多数制作発表する。
また報道に徹するだけでなく各地で救援活動を行っている。「チェルノブイリ子ども基金」代表(設立時)、パレスチナの子どもの里親運動顧問(設立時は代表を務めた)、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)世話人代表等を歴任。全国各地で講演を行っている。
2002年7月、日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)設立、世話人代表(~2004年9月)、のち退会[16]。
2003年12月、廃刊になっていたDAYS JAPANを再創刊すべく株式会社デイズジャパンを設立。代表取締役社長を務める。
2004年3月、フォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」を再創刊する。編集長を務める(2004年4月号から2014年9月号まで)。
2007年7月、広河隆一は第21回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から立候補した川田龍平を応援した[17][18]。
2008年、パレスチナ難民発生から60年の歴史を記録した劇場映画「パレスチナ1948NAKBA」(日・英・仏・アラビア語版)、DVDボックス(30巻、日英版)を「1コマサポーターズ」の支援で制作。
2011年、広河隆一は『戦場カメラマンという仕事』という書籍に寄稿している[19]。
イスラエル、シオニストを批判する立場で、パレスチナ問題を取材し続けている。チェルノブイリ事故以来は25年以上に渡って取材し、原発に反対する活動を行っている。福島第一原発事故の後は、主に日本の原発や放射能に関する諸問題を取材するかたわら、福島の子どもが放射能に汚染にされているとして救援活動を行って、福島の子ども保養プロジェクト「NPO法人 沖縄・球美の里」名誉理事長になった[20]。2012年7月5日、かつて代表を務めた「チェルノブイリ子ども基金」から、福島県の子どもたちを福島第一原子力発電所事故の影響の少ない沖縄県の久米島において保養させるプロジェクト「NPO法人沖縄・球美の里」を発足させた[21]。
2014年8月、DAYS JAPAN2014年9月号をもって編集長を丸井春に交代した。
2015年12月、広河隆一の戦場カメラマンや政治活動家としてのこれまでの足跡や生き方などを描いた「広河隆一 人間の戦場」と称するドキュメンタリー映画がリリースされ、広河はこの映画に出演した[22]。
2018年12月、週刊文春にて複数の女性から性行為などの強要を告発された[23]。広河は「写真を教えてあげる」などの名目で女性をホテルに呼び出して行為に及んでおり、女性達は広河が報道関係者との人脈が広く、また同編集部内でささいなことで激昂し、理不尽にスタッフを怒鳴ったり罵倒したりするなど気性の激しさを見せたことから、「(広河さんの)機嫌を損ねたら報道の業界で生きていけない」という心理状態に立たされ、抵抗することが出来なかったとした[24]。これを受けて広河は女性達に謝罪し、協議の末株式会社デイズジャパンの代表取締役および取締役、認定NPO法人沖縄・球美の里の名誉理事長を解任されたと明かした[25]。
関連人物[編集]
土井敏邦 - 中東ジャーナリスト。土井は広島大学においてパレスチナ問題に関する卒業論文を執筆し[26]、大学卒業後に広河が編集長であったPLO駐日代表部による中東関連に関する「フィラスティン・びらーでぃ」[27]という月刊誌の記者として参加した。土井を中東ジャーナリストとして成長させるきっかけをもたらした[28]。
志葉玲 - 志葉は帝京大学在学中からイスラエルや原発に批判的な広河を尊敬し、帝京大学卒業後かつて広河が行ったようにイスラエルのキブツに滞在し、キブツにおいて英会話を学習し、その後フリーのジャーナリストとして活動を行っている。広河と共に志葉は山本太郎、増山麗奈、小出裕章、オリバー・ストーンと日本で反原発活動を行っている[29]。しかし、上記のスキャンダルでは広河について「関係者の話を聞く限り文春の報道は事実」「(広河氏には)関係者への謝罪等、相応の責任をとっていただきたい」としている[30]。
しかし、「人をもって言を廃せず」であり、彼の公的活動や彼の公的発言の正当性がこの醜聞で意義を無くすわけではないのはもちろんである。
(以下、ウィキペディアより転載)
広河隆一
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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
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広河 隆一
生誕
1943年9月5日(75歳)
中華民国天津市
国籍
日本
別名
廣河隆一
教育
早稲田大学教育学部
職業
フォトジャーナリスト、戦場カメラマン、政治活動家
活動期間
1967 to present
配偶者
ルティ・ジョスコビッツ
広河 隆一(ひろかわ りゅういち、1943年9月5日 - )は、日本のフォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家。フォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANの元編集長、同誌発行の株式会社デイズジャパンの前代表取締役および前取締役。有限会社広河隆一事務所代表[1]。日本中東学会、日本写真家協会、日本写真協会、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)、各会員[2]。パレスチナの子供の里親運動顧問[3]、チェルノブイリ子ども基金・元代表[2][4]。認定NPO法人沖縄・球美の里元名誉理事長[5]。
目次
1
経歴
2
関連人物
3
受賞歴
4
著書・編著
4.1
共編著
4.2
翻訳
5
映画作品
6
脚注
7
関連項目
8
外部リンク
経歴[編集]
中華民国の天津市で出生、2歳の時に引き揚げ[6]、小学校入学以前から大阪府羽曳野市恵我之荘に居住した[7]。東京都世田谷区在住[8]。
1956年旧:高鷲町立小学校(現:羽曳野市立高鷲小学校)卒業、1959年羽曳野市立高鷲中学校卒業、1962年大阪府立生野高等学校卒業[7]、1963年早稲田大学教育学部に入学し[9][10]、1967年早稲田大学教育学部卒業。 なお、広河は大学在学中に和敬塾の南寮と称する男子寮に入寮し[11]、入学当初は早大山の会で活動を行っていたが二回生の時に「カメラルポルタージュ研究会」と称するドキュメンタリークラブを立ち上げた[12]。 また、広河はブント系の学生運動を行っていたと主張する者もいる[13]が、ノンセクト・ラディカルとして学生運動を行っていたと主張する者もいる。 やがて広河は、映画会社から就職の内定を受けていたにもかかわらず内定を辞退し、卒業後の1967年にイスラエルに渡航、農業ボランティアのかたわらヘブライ語の学習に精をだす[12]。
広河は渡航当初、コミューン的な生産、生活形態をすすめる共産主義的なキブツに対し憧れを抱いていた。広河がイスラエルへ渡航してから2週間後、1967年6月に第三次中東戦争が勃発、イスラエルがその戦争に大勝利を収める。広河が滞在していたキブツ・ダリヤにおいて「ダーリヤト・アッ=ラウハー(دالية الرَّوْحا)」又は「ダーリヤト・アッ=ラウハーア(دالية الرَّوْحاء)」というパレスチナ人の村落の廃墟を発見したことなどにより、イスラエルによるパレスチナ人に対する過酷な人権侵害を知るようになり、親パレスチナ的な態度をとるようになった[14]。イスラエルにおいては「マツペン」という反シオニスト的な政治団体で活動を行っていた。エルサレムで反シオニズム写真展を開催した後、1970年、帰国。以後、中東諸国を中心に取材活動を行う。
1982年、レバノンの西ベイルートにおけるファランジストというマロン派キリスト教徒主体のレバノン右派民兵によるパレスチナ難民の虐殺、サブラー・シャーティーラーの虐殺を含めた第一次レバノン戦争に関する取材を行い、よみうり写真大賞を受賞[15]。翌83年、同写真でIOJ国際報道写真展大賞・金賞受賞[6]。
日本帰国後に戦場カメラマンとしてイスラエルや原発に対して批判的なスタンスをとりはじめる。一時は立教大学において非常勤講師を務めた[要出典]。講談社の「DAYS JAPAN」に、イスラエルのビジネスマン、アイゼンベルに関する記事や、ダイヤモンドシンジケートの取材、チェルノブイリの現状、731部隊などに関する記事を掲載。また日本テレビ、NHKなどでチェルノブイリや中東に関する報道番組を多数制作発表する。
また報道に徹するだけでなく各地で救援活動を行っている。「チェルノブイリ子ども基金」代表(設立時)、パレスチナの子どもの里親運動顧問(設立時は代表を務めた)、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)世話人代表等を歴任。全国各地で講演を行っている。
2002年7月、日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)設立、世話人代表(~2004年9月)、のち退会[16]。
2003年12月、廃刊になっていたDAYS JAPANを再創刊すべく株式会社デイズジャパンを設立。代表取締役社長を務める。
2004年3月、フォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」を再創刊する。編集長を務める(2004年4月号から2014年9月号まで)。
2007年7月、広河隆一は第21回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から立候補した川田龍平を応援した[17][18]。
2008年、パレスチナ難民発生から60年の歴史を記録した劇場映画「パレスチナ1948NAKBA」(日・英・仏・アラビア語版)、DVDボックス(30巻、日英版)を「1コマサポーターズ」の支援で制作。
2011年、広河隆一は『戦場カメラマンという仕事』という書籍に寄稿している[19]。
イスラエル、シオニストを批判する立場で、パレスチナ問題を取材し続けている。チェルノブイリ事故以来は25年以上に渡って取材し、原発に反対する活動を行っている。福島第一原発事故の後は、主に日本の原発や放射能に関する諸問題を取材するかたわら、福島の子どもが放射能に汚染にされているとして救援活動を行って、福島の子ども保養プロジェクト「NPO法人 沖縄・球美の里」名誉理事長になった[20]。2012年7月5日、かつて代表を務めた「チェルノブイリ子ども基金」から、福島県の子どもたちを福島第一原子力発電所事故の影響の少ない沖縄県の久米島において保養させるプロジェクト「NPO法人沖縄・球美の里」を発足させた[21]。
2014年8月、DAYS JAPAN2014年9月号をもって編集長を丸井春に交代した。
2015年12月、広河隆一の戦場カメラマンや政治活動家としてのこれまでの足跡や生き方などを描いた「広河隆一 人間の戦場」と称するドキュメンタリー映画がリリースされ、広河はこの映画に出演した[22]。
2018年12月、週刊文春にて複数の女性から性行為などの強要を告発された[23]。広河は「写真を教えてあげる」などの名目で女性をホテルに呼び出して行為に及んでおり、女性達は広河が報道関係者との人脈が広く、また同編集部内でささいなことで激昂し、理不尽にスタッフを怒鳴ったり罵倒したりするなど気性の激しさを見せたことから、「(広河さんの)機嫌を損ねたら報道の業界で生きていけない」という心理状態に立たされ、抵抗することが出来なかったとした[24]。これを受けて広河は女性達に謝罪し、協議の末株式会社デイズジャパンの代表取締役および取締役、認定NPO法人沖縄・球美の里の名誉理事長を解任されたと明かした[25]。
関連人物[編集]
土井敏邦 - 中東ジャーナリスト。土井は広島大学においてパレスチナ問題に関する卒業論文を執筆し[26]、大学卒業後に広河が編集長であったPLO駐日代表部による中東関連に関する「フィラスティン・びらーでぃ」[27]という月刊誌の記者として参加した。土井を中東ジャーナリストとして成長させるきっかけをもたらした[28]。
志葉玲 - 志葉は帝京大学在学中からイスラエルや原発に批判的な広河を尊敬し、帝京大学卒業後かつて広河が行ったようにイスラエルのキブツに滞在し、キブツにおいて英会話を学習し、その後フリーのジャーナリストとして活動を行っている。広河と共に志葉は山本太郎、増山麗奈、小出裕章、オリバー・ストーンと日本で反原発活動を行っている[29]。しかし、上記のスキャンダルでは広河について「関係者の話を聞く限り文春の報道は事実」「(広河氏には)関係者への謝罪等、相応の責任をとっていただきたい」としている[30]。
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