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徽宗皇帝のブログ

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今の大人も若者も「現代史」を知らない
「櫻井ジャーナル」記事で、すべて新聞などに報道されている事実だが、おそらく日本国民のほとんどはこれらの事実を知らない。特に若い世代は知識ゼロだろう。というのは、こうした事実はある頃(おそらくソ連消滅以降)から、「陰謀論」の名で無視されるような手法がマスコミで使われてきたからだ。世界のマスコミがユダ金(DS)の所有物であることすら知らない日本人も多いだろう。そして、学校教科書でも、社会科では現代史はほとんど扱わない。書かれていても、「時間の都合で(笑)」授業では触れないし、大学入試にも出さないことになっている。当然、それは意図的な隠蔽である。

(以下引用)
2023.10.02
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 ウクライナで2014年から始まった内戦でキエフのクーデター体制が敗北したことは明らかだ。つまりアメリカ/NATO軍がロシア軍に負けたわけだが、その事実をアメリカの有力メディアも否定できなくなっている。



 そのクーデターはアメリカのバラク・オバマ政権が2013年11月からネオ・ナチを使って開始、14年2月にはウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ大統領を排除することに成功したのだが、ヤヌコビッチの支持基盤だった東部と南部の住民はクーデター体制を拒否、東部では内戦が始まる。



 クーデター体制には世界中からネオ・ナチが集まったが、その背後にはアメリカ/NATOがいた。武器弾薬を提供、軍事訓練を実施、軍事情報を提供、昨年夏頃からは作戦を指揮していたとも言われている。



 ヨーロッパでアメリアやイギリスが最も恐れてきたのはドイツとロシアが手を組むこと。ロシアの十月革命で成立したボルシェビキ体制はドイツと友好的な関係にあったが、それはナチスの台頭で壊れた。そのナチスに資金を提供していたのはシティとウォール街、つまり米英の巨大金融資本だ。その一員であるウィンストン・チャーチルを「最初のネオコン」と呼ぶ人もいる。



 ウクライナはドイツとロシアの中間にある。ドイツを中心とするEUはロシアからパイプラインで天然ガスや石油を輸送していたが、その多くがウクライナを通過している。そのウクライナを抑えてエネルギー資源の輸送をコントロールできれば、EUとロシアの接近を阻止できる。



 ウクライナ自体も資源国で、穀倉地帯もある。すでに穀物生産はカーギルなど西側の巨大企業が支配、金融は「闇の銀行」と呼ばれるブラックロックが動かしている。西側から供給される兵器や「復興資金」の使い道についてアドバイスしているのもブラックロックだという。



 ウクライナはロシアへ軍事侵攻するための通り道でもある。オバマ政権がクーデターを実行した目的のひとつは侵攻の通り道を抑えることにあった。その際、反応が鈍かったロシアのウラジミル・プーチン大統領が批判された理由もそこにある。



 そのオバマ政権でクーデターを指揮していたチームの中心は副大統領だったジョー・バイデン、国務次官補だったビクトリア・ヌランド、副大統領の国家安全保障担当補佐官を務めていたジェイク・サリバンだったと言われている。その周辺にはネオコン人脈がいた。



 ウクライナでロシアに敗れたアメリカは東アジアで軍事的な緊張を高めている。その東アジアにおけるアメリカの軍事戦略で最も重要な役割を果たしている国は日本にほかならない。



 アメリカのJCS(統合参謀本部)が1949年に出した研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと書かれている。1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」を作成している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)











 こうしたアメリカの戦略に合わせ、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、暴力的な土地接収が始まる。1955年の段階で「沖縄本島の面積の約13%が軍用地」になっていた。



 1955年から57年にかけてライマン・レムニッツァーが琉球民政長官を務めているが、その間、56年6月に「プライス勧告」が公表された。この勧告の中で沖縄は制約なき核兵器基地として、アメリカの極東戦略の拠点として、そして日本やフィリピンの親米政権が倒れたときのよりどころとして位置づけられている。なお、レムニッツァーはドワイト・アイゼンハワー時代の1960年にJCSの議長に就任する。



 この勧告が伝えられると沖縄の住民は激怒、「島ぐるみ闘争」が始まるのだが、それに対して民政府は琉球政府の比嘉秀平主席の更迭を含む事態収拾策を画策している。そうした混乱の中、1956年10月25日に比嘉長官は55歳の若さで急死した。(中野好夫、新崎盛暉著『沖縄戦後史』岩波書店、1976年)



 ​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、JCSのライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイなど好戦派は1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だった​という。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを発射するしかない。そこでソ連はキューバへ中距離ミサイルを運び込んだ。



 アメリカの軍事戦略上、日本は重要な位置にあるわけだが、その関係を中曽根康弘は的確に表現している。



 1982年11月に内閣総理大臣となった中曽根は翌年の1月にアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙の編集者や記者たちと朝食をとるが、その際に彼はソ連のバックファイア爆撃機の侵入を防ぐため、日本は「不沈空母」になるべきだと言ったと報道された。



 中曽根はそれをすぐに否定するが、発言が録音されていたことが判明すると、「不沈空母」ではなく、ロシア機を阻止する「大きな空母」だと主張を変えた。このふたつの表現に本質的な差はない。日本列島はアメリカ軍がロシア軍を攻撃するための軍事拠点だと中曽根は認めたのである。



 ワシントン・ポスト紙は「大きな空母」発言以外に、「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」と主張し、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語っている。こうした発言はソ連を刺激した。



 それから間もない1983年4月から5月にかけてアメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大規模な艦隊演習「フリーテックス83」を実施。この演習には3空母、つまりエンタープライズ、ミッドウェー、コーラル・シーを中心とする機動部隊群が参加した。



 演習では空母を飛び立った艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返したとされている。米ソ両軍は一触即発の状態になったのだが、この演習を日本のマスコミは無視した。(田中賀朗著『大韓航空007便事件の真相』三一書房、1997年)



 そした中、大韓航空007便はソ連の領空を侵犯、しかも重要な軍事基地の上空を飛行したのだが、NATO軍はその年の11月、ヨーロッパで大規模な演習「エイブル・アーチャー83」を予定していた。これを軍事侵攻のカモフラージュだと判断したソ連政府は核攻撃に備える準備をはじめるように指令を出し、アメリカのソ連大使館では重要文書の焼却が始まったと言われている。



 NATOが軍事演習を計画していた1983年11月、レーガン政権は戦術弾道ミサイルのパーシングIIを西ドイツへ配備、作業は85年の終わりまで続いた。



 ソ連は1991年12月に消滅するが、その当時、アメリカの国務省や国防総省はネオコンに支配されていた。ネオコンのポール・ウィルフォウィッツで国防次官(当時)は1992年2月にアメリカの国防総省はDPG草案という形で世界制覇プラン、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」を作成した。その時の国防長官はディック・チェイニーだ。



 旧ソ連圏を乗っ取るだけでなく、EUや東アジアを潜在的なライバルと認識、ドイツや日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に組み入れ、新たなライバルの出現を防ぐともしている。



 このドクトリンに日本を従わせるため、1995年2月にジョセイフ・ナイは「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表したが、それと前後して奇怪な出来事が相次いだことは本ブログで繰り返し書いてきた。



 日本がアメリカの軍事戦略において、中国やロシアを攻撃するための重要な拠点であるという事実は現在も同じだ。


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