まさに幕府自らにより「慶応維新」というべき変革を成しとげたのである。のちに無理やり戊辰戦争を引き起こし強引に新政府をつくった「明治維新」とは明らかに違う無血革命であった。
この日は、龍馬にとっては「新国家」樹立に向けて出発の日となった。「薩長史観」により、このことはうやむやにされてきたきらいがあるが、150年目を迎えた今、はっきり認識すべきであろう。
新国家設立に向けた龍馬の動き
坂本龍馬は、翌月の11月10日に、福井藩の重役で京都に滞在中であった中根雪江(ゆきえ)に宛てた手紙を書いていた。それは同藩士の三岡八郎(由利公正・きみまさ)を早く新政府に出仕させてもらいたい、というものである。そこには財政に詳しい三岡が必要で、1日先になれば「新国家の御家計(財政)の成立が1日先になる」と出仕をせかせる内容である。
ここに「新国家」とあるのは、大政奉還されたのが10月14日であるから、1カ月の間に新しい国家をつくるための動きがあったということになる。それは大政奉還によって朝廷を中心とする新政府の樹立が目指されていて、そのために財政に詳しい三岡が必要な人物であると龍馬は認識していたのである。
しかも龍馬は、先だつ10月16日に「新官制議定書」を起草している。関白という最高地位に三条実美(さねとみ)を据え、内大臣という政府の中枢には徳川慶喜を記している。また議奏(ぎそう)という天皇を支える重職には、皇族と公家を除くと松平春嶽、山内容堂、徳川慶勝(よしかつ)、伊達宗城(むねなり)、島津忠義(ただよし)、毛利広封(ひろあつ)、鍋島閑叟(かんそう)といった有力大名が名前を連ねている。参議には、岩倉具視らの公家のほかに、薩摩、長州、土佐、熊本、福井各藩の実力者が上げられている。
さらに11月5日には、「新政府綱領八策」を起草している。これは、二院制議会の設置など新国家構想を示した「船中八策」を要約したものである。
このことから考えられるのは、やはり幕府による平和的な政権移譲によって「慶応維新」が行われて、“全員参加型”の新国家成立がされようとしており、龍馬はそれを推進していたことを示している。
これが実現していれば、慶喜を中心に全国の有力諸侯が参加した連合政権となったであろう。日本中の実力者たちが参加した“オールスター”ともいうべき新政府は、薩長藩閥に牛耳られた明治政府より優れた政体になった可能性もある。
「慶応維新」に困ったのが、薩摩と長州である。討幕が勅許され、「我らは朝廷軍で、幕府は朝敵だ」と意気込んだが、慶喜が政権を返したので、振り上げた拳をどう下ろしたらよいかわからない。
そもそも、大政奉還の前日の13日に出された「討幕の密勅」は偽造されたものであり、そのことは文章に明らかに示されている。その原本には、天皇の署名となる名前の「睦仁」という直筆はなく、天皇の認めた印の「可」の文字もなく、名を連ねた3人の公家の花押もない。文章も居丈高で威圧に満ちて、慶喜を糾弾し、誅殺せよと品位もなく叫んでいるだけなのである。
薩長史観ではうやむやにされてきたが、どうみても「偽勅(ぎちょく)」である。
これにより、薩長はなにがなんでも武力討幕をしようとしたのであるが、「大政奉還」により肩透かしをくらったわけである。
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