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徽宗皇帝のブログ

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大阪の人間はヤンキーが大好き?
「世に倦む日々」記事の後半である。
大阪での維新の「完全試合」は、副島のように「比例部分での不正選挙だ」という意見に私もかなり同感で、その可能性は高いと思うが、大阪という土地で維新が根強い人気を持っているのも確かだろう。だが、その人気は大阪ローカルな性質のものであり、日本全体で支持される類のものではない。まさに「大阪民国」という、奇矯な性格の土地柄の産物だろう。
そういう性格を見事に下の記事は分析している。

(以下引用)



維新勝利の分析と試論 – なぜ大阪は新自由主義への逆戻りを選んだのか_c0315619_14164915.png以上、雑談と前置きが長くなったが、私の試論と見解は次のとおりだ。小泉構造改革が出現したとき、それに対して最も熱心にコミットし、ほとんど信仰的に帰依する支持者になったのは、都市のサラリーマンではなく、危機感に満ちた中小自営業者であった。都市のサラリーマンというのは、政治的には基本的に無党派層であり、経済的には、ホモエコノミクスと言っても会社からお給料をもらい、退職金と厚生年金をもらう身である。いわば無意識・無頓着のまま時代の流れに身を任せていればいい存在だ。新自由主義が台頭すればそれを受け入れ、脱新自由主義の風が吹けばそっちに靡きという、イデオロギーに根を張らない風見鶏の生き方である。だが、中小自営業者の場合は、思想へのコミットと生活生存とが直結している。中小自営業者は、20年前、構造改革(新自由主義政策)に賭けたのだ。バブル崩壊後の金融危機と大不況が続く中で、救世主として登場した「改革」思想に強く共鳴し、熱心な新自由主義の信徒に改宗したのである。現在、その多くは、特に過疎県の自営業者は、アベノミクスに裏切られたシャッター街の老人となり、自己の20年間の誤りに気づき始めている。


維新勝利の分析と試論 – なぜ大阪は新自由主義への逆戻りを選んだのか_c0315619_13583545.pngだが、大阪は特殊で、未だそうではない。偏見と受け取られることを恐れず敢言すれば、大阪はもともと自助努力・自己責任の気風が根強い土地柄なのだ。小経営の思想的風土の地盤があり、新自由主義との整合性・親和性が高い属性をネイティブに持っている。普通の理性ある市民が、本人の主観では合理的に判断しているはずなのに、実は客観的には非合理的な思考回路に逆転し、社会を建設的ではなく破壊的な方向に導く政策に執心するという現象がある。最近の例では、米国のティーパーティ運動の論理と心理がその典型だろう。大阪の人々というのは、その伝統と歴史の蓄積と前提もあって、こと経済や経営の問題なら、自分たちの方が東京や地方よりも上であるという潜在的な優越意識を持っている。実際、ビジネスやコマースの現場に接すれば、大阪の方が東京よりもスマートでナイスだと思う瞬間に多々出くわす経験があり、実感でその優越心の根拠を確認させられるものだ。上京した大阪の人間は、東京の小売店のサービスに常に不具合と粗野性と低劣度を、そして非経済性(価格が高すぎる)を感じていることだろう。その大阪の大地は、嘗ては新自由主義とは無縁で真逆の空間であった。


維新勝利の分析と試論 – なぜ大阪は新自由主義への逆戻りを選んだのか_c0315619_14114510.png新自由主義以前、維新支配以前の大阪の政治を、若い世代はご存じだろうか。そこは日本の他の地域とは異質で別格の公国だった。そこの政治的支配勢力は、実は公明党と共産党であり、自民党と社会党の二大政党の影響力の全くない独特のエリアだった。永田町の勢力図とは無関係の、まさに中世の自由自治都市・堺を彷彿させるような商人・小営業の政治的土壌だった。公明党と共産党が治める国、それが大阪であり、NHKの即日の開票報道 - 例の、ふた万ふた千、、と数を読み上げる - を見ながら、何とも奇異で個性的な印象を持ったものだ。だから、大阪の維新というのは、田﨑史郎が解説するように自民党そのものであり、決して自民と維新の二大政党制・政権交代システムが大阪で実現して定着しているわけではない。昔から、自民党は大阪で根を張ってないのであり、極論すれば傍流の少数政党にすぎないのだ。他の土地とは違うのである。そこには、中央官僚政府の政策には素直に従わない、独自路線で何でもやるという気風があり、つまり、「わたしらは自前でやらしてもらいまっさ」という、中央直属を排する独立主義の意識が強かった(現在も)。要するに、大阪の小営業たちは未だに小泉構造改革を信奉したままなのだ。


維新勝利の分析と試論 – なぜ大阪は新自由主義への逆戻りを選んだのか_c0315619_14140680.pngその宗教の信者なのであり、マインドコントロールから解放されてないのだ。そして、ここが重要なポイントだが、その新自由主義は関西弁の言語で語られるのである。大阪ナショナリズムと思想的にセットになっている。大阪ナショナリズムは、東京に対するルサンチマンが精神的基礎になっていて、ネオリベへのコミットの中身は、大阪ナショナリズムと内側でブレンドしている。それゆえ、私も、田﨑史郎と意見が同じで、維新は全国に勢力を拡延して政権政党に成長するのは難しいと予想する。露骨な新自由主義の政策思想でも、関西弁というオブラートに包まれれば大阪人の心情にはたやすく浸透する。しかし、関西弁の政治を全国で押し通すわけにはいかない。関西弁の政治トークはNHKの視聴者には異端である。標準語に置き換えて説明すれば、イメージに描かれるのは竹中平蔵の顔だ。そのような政策思想が、全国で、特にアベノミクスで疲弊した地方県の人々に積極的に響き届くはずがない。自民党と維新と、同じ政党が二つも要らないのだ。大阪には維新があるから自民党がない。維新が大阪で崩れない現実を見ながら、小営業とイデオロギーとの関係の深さに思いが至る。20年前に新自由主義に転向し、その信仰を固く守っている事実を思い知る。


小営業はフローな根無し草として生きられる存在ではなく、必ず、自身の経営と生存を賭けたところの、地面に根を張って立つ思想(=宗教)へのコミットが必要なのだ。小営業者は信仰者でもあるのである。宗教を真摯に持っている。それは簡単に崩れない。信仰がナショナリズム(地域愛)と接着していればなおさらである。客観的に、残念なことに、大阪は日本の政治の反動の拠点となっている。

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