最近、インターネットを眺める作業に億劫さを感じる。
定期的に投与しているクスリの副作用で、体調は一定の周期ごとに変化している。
それらの体調の変化が、病気の症状そのものではなくて、薬剤の副反応であることは、おおむね理解している。であるから、対処のしようについても、だいたいのところはわかっている。
であるから、身体的な負担はともかく、不安は持っていない。
「この時期になればこういう反応があらわれて、それらの症状は、これこれの期間のうちには減衰する。うまく消えてくれないようなら、これこれのクスリをこういう用法用量で飲めば良い」
てなことで、やりくりしているのがこの3年ほどの状況だ。
でもって、病気の進行や状態とは別に、日常の中に設定されたスケジュールのいちいちをめんどうくさく感じるようになる。
インターネットもそのひとつだ。
テレビをあまり見なくなって以来、パソコンのモニター画面を通じてインターネットを眺める時間が増えた。
面白いのは、インターネットが提供してくれる情報の多くが、文字情報であることだ。
まるで昭和に立ち戻ったみたいだ。
人々は、様々な物事や出来事をいったん文章として整形することで、情報を発信している。そして、それらを受け取る側の人間たちも、「文章を読む」という昔ながらの約束事を通じて情報を咀嚼している。してみると、文字という媒体はわれわれが考えている以上に、普遍的であるのかもしれない。
テレビ経由で流れてくる動画は、正直にこちらの時間を奪う。90分の映画をマトモに見るためにはどうしても90分の時間がかかる。半分の時間で見る方法がないわけではないが、倍速再生や、途中をすっ飛す早送りは、作品を破壊してしまう。事実、そうやって視聴したコンテンツは記憶に残らない。
その点、文字は要約できる。書き手の側が要約の労をほどこしていなくても、読み手が読む段階でダイジェストできる。つまり文章というのは、要約のメディアなのだ。だからこそ、文字ベースの情報は、どこにいても短時間で摂取可能だし、時間が許すのであれば、じっくりと考えながら読む読み方もできる。
今世紀にはいってからインターネット上の情報の多くが、最終的に文字情報に帰着しているのは、先祖がえりのようでもあるが、たぶん効率から来る必然でもあるのだろう。われわれの脳は、いろいろなことをいったん文字に直してから把握する「くせ」を持っている。
さて、めんどうくさいインターネットに生半可な気持ちで関わっていると、思わぬトラブルを引き起こしてしまう。
今回は、『みんな政治でバカになる』という書籍に関連して私が発信したいくつかのツイートが炎上した。
自分が炎上を招く書き方をしていることは承知していたのだが、毎度のことながら、タイピングの勢いを自制することはかなわなかった。この点は反省している。各方面に失礼な言辞を弄した責任は、ひとえに私の側にある。この場を借りておわびを申し上げておきたい。
ツイートを発信した時点で、私は件の書籍を読んでいなかった。
というのも、当人の自覚としては、自分が本の内容を批評したり、本文中にある文言をとりあげて逐語的な批判をあびせたりしているとは考えていなかったからだ。
私は、自分の観察範囲にとどいたふたつの情報に反応していただけだ。
ひとつは、Web媒体経由で閲覧した『みんな政治でバカになる』というその書籍のタイトルであり、もうひとつは、《インテリ気取りで「受け売りの知識」を披露…私たちはみんな「亜インテリ」なのかもしれない》と題された、著者・綿野恵太氏ご本人による、解説記事だ。
リンクを張った記事の中で、綿野氏は、「バカの二乗」という言葉を使っている。
意味するところは、われわれ人間が本性として持っている「認知バイアス」としてのバカさと、「環境」として直面している政治的無知によるバカさがかけ合わさった状態ということらしい。われら人間は、おしなべて「バカにバカを重ねたバカの権化」として政治に向き合っているようなのだ。
綿野氏は、その浅薄にして愚かな「バカの二乗」である「政治ファン」に対して、昭和を代表する政治学者である丸山真男が提示した「亜インテリ」なる用語をあてはめるところから論を展開している。
ちなみに「亜インテリ」についてはこんな解説がほどこされている。
《丸山眞男によれば、「亜インテリ」とは「いっぱしインテリのつもり」だが、「耳学問」なのであやふやな知識しか持たない*6。政治や経済に「オピニオン」を持つが、知識や生活レベルは「大衆」とあまり変わらない。むしろ、「大衆」とさほど変わらないからこそ、「心理的にヨリよく大衆をキャッチ出来る」。「町内会」や「青年団」といったコミュニティに積極的に参加して「国民の声」をつくり出す人々である。》 ―以上2ページ目の記述より―
このあたりの文言に私は脊髄反射のリアクションを打ち返したわけだ。
それらのオダジマ発の口汚いツイート群を、ここでいちいち引用することはしない。ご興味のある向きは、私のツイッターのプロフィールで過去記事をさかのぼるか、Twilogから検索するなどして、読んでみてください。生きて行く上での参考にはならないだろうが、場合によっては反面教師になる。
リンクを張った記事の中で綿野氏が言っていることのうちのいくつかには、心当たりがある。
「たいした専門知識もない素人が、わかってもいない分野でごたいそうな断言を振り回したあげくに恥をかく」
経験は、私自身、何度か経てきている。
というよりも、事情に通じていない素人は、専門的な知見を持っていないがゆえに、かえってうっかりと半端な断言を持ち出してしまうものなのだ。
一年ほど前だったか、浄瑠璃について聞きっかじりの印象と独断の決めつけで並べ立てたゴタクについて、とある専門家からやんわりとご指摘を受けたことがある。
内容は、私の生意気をとがめるというよりは
「もうすこし広い目で見れば、浄瑠璃にはより豊かな世界がありますよ」
という忠告のようなお話だった。
結果、私は自らの短見を深く恥じ入ることになった。
確かに、浄瑠璃には江戸時代からこっちの庶民を魅了していた長い歴史がある。そこのところの全体像を無視して、たまたま知っていたいくつかの作品の中に転がっているワンフレーズをサカナに話を展開しにかかったのは、私のミスというよりは、バカな空回りそのものだった。
もっとも、こういう失態は、よくある話で、サッカーでも落語でも私はほとんど同じ形式の過ちを犯している。
弁解をすればだが、
「ろくな専門知識も持っていない素人が、その場の直感で小生意気な断定をやらかして世界を切り取ったつもりになる」
ことは、コラムニストの生業でもある。
であるからこれまで、コラムを書き飛ばす中で、似たようなミスをたくさん犯してきたし、並べ立ててきた半端な断言の中には、二度と振り返りたくない恥辱が山ほどある。
しかし、浄瑠璃の例でも落語の墓穴でも、私は、そんなに後悔していない。というのも、ド素人(ないしは半可通)の私が振り回した断言を、親切な先人や立場の違う碩学の人々がやんわりとたしなめてくれた経験を通じて、私自身、ずいぶん賢くなった気がしているからだ。
であるから、私は、
「もののわからない素人は黙っていろ」
「専門的な知識を持っていない人間は議論に参加するな」
「知ったかぶりをしたところで恥をかくだけだぞ」
というふうに聞こえる言説には本能的な反発を感じる。
特に政治について、非専門家を排除することは、百害あって一利なしだと思っている。
この9月の末から、ある大学で後期の講義をひとコマ担当している。
9月の最初の授業は、ちょうど自民党の総裁選が実施されたタイミングで、岸田文雄新総裁が誕生したところだったので、オンライン授業に出席した三十数人ほどの学生たちを対象に、こんなアンケートをとってみた。
《 問 岸田新総裁の誕生を歓迎しますか
1.はい
2.いいえ
3.どちらともいえない
4.総選挙の結果を見るまでなんともいえない》
結果は、ダウンロードし忘れたので正確に記憶していないのだが
《1と2がそれぞれ2人ずつ。
3が15人ほど
4が10人ほど
残りは無回答》
この結果から私が読み取ったのは、学生たちが、「政治的」と解釈され得るメッセージを極力発信しないように気を配っているということだった。
気持ちはわかる。
右であれ、左であれ、政治的に偏向した人間であると見なされることや、政治的なイシューに熱心に関わっている人間だと思われることで、有利に展開する話はひとつもない。彼らは、
「自分は政治には冷淡な人間で、アクチュアルな次元で起こっている政治的な事件にはほとんど関心がない。というのもどこからどう見ても自分はニュートラルな人間で、政治的な理由で誰かを排除したり、政治の話題でほかの人間と論争したりするような事態は、自分に関しては金輪際起こらない。このことをぜひ理解してほしい」
というメッセージを絶えず発信している。
というのもどこかの誰かが「政治的」であるということは、ほとんど「独善的」で「党派的」で「一面的」な人間であることを意味してもいれば、その彼なり彼女なりが、「断定的」で「他人の話を聞かない」「自分の感情に陶酔している」「非常につきあいにくい」人物であることを示唆しているからだ。
とすれば、現代の若い世代の圧倒的多数を占める「政治的無関心層」の正体は、実のところ「政治忌避層」で、もっと言えば「他人に政治的だと思われたくない人々」なのであろう。
私自身も同じだ。マンションの住民総会や、PTAの集まりの中では、絶対に政治の話はしないし、「政治的に聞こえかねない話」(たとえば「オスプレイって、あれ、ちょっとカッコいいよね」みたいな話題)にも決して返事をしない。多少とも政治の話で笑えるのは、同級生に限られる。理由はよくわからないが、同年の利害関係を伴わない知人が相手なら、思っていることをそのまま口に出すことができる。たとえ相手が三十歳を過ぎてからネトウヨ化している困った同級生であっても、だ。
こういう世相の中で
「みんな政治でバカになる」
というメッセージを発信するのはどうなのだろう。
とりあえずの冷笑で政治的課題をスキップしている人たちに、お墨付きを与えることにならないだろうか。
「そうだとも、政治の話をしてるヤツなんか全員バカばっかりだよ」
と。
さて、私がツイッター上にいくつかの罵倒を並べると、当然のことながら、いくつかの反応が寄せられてきた。
大筋において
「読んでもいない本についてこういう無礼な書き方をするのはどうだろうか」
「内容も把握していないのに、決めつけでやっつけたつもりになっている書き込みにはがっかりしました」
といった感じのお言葉だ。
なるほど。
おっしゃる通りだ。
私は自分が強い口調で非難した当の書籍を読んでいない。
入手もしていなければ、公開されている(らしい)「まえがき」にすら目を通していない。この状態では、「未読者による当てずっぽうの批判」「目についた言葉に反応しただけの恣意的な決めつけ」と批判されるのも仕方あるまい。
そんなわけなので、昨晩、『みんな政治でバカになる』の電子書籍版をクリックして、早速、真夜中から明け方にかけて読了した。
現在の心境を率直に申し上げるなら、まんまとしてやられた感じだ。
綿野氏は、「まえがき」の冒頭を、こう書き始めている。以下引用する。
《本書のタイトルは「みんな政治でバカになる」である。「バカなんて許せない!」とイラッとした人も多いかもしれない。しかし、ちょっと待って欲しい。本は読まれなければ、意味がない。人間は「理性」よりもまず「感情」が反応することがわかっている。「バカ」という乱暴な物言いで、あなたの「道徳感情」に訴えかけて、本書を手に取ってもらったわけである。
綿野恵太. みんな政治でバカになる(Japanese Edition)(Kindle の位置No.13-16). Kindle 版. 》
なるほど。
本文を通じて、繰り返し述べられていることなのだが、どうやら著者は、大衆なり亜インテリなりの「道徳感情」(結果として読者になる人々が抱いているそれも含めて)にあまり良い感情を持っていない。事実、先に引用した「まえがき」のすぐ後の部分で彼は、こう断言している。
《ところで、「許せない!」という「道徳感情」は政治に大きな影響を与えることがわかっている。「思想」や「利益」以上に「道徳」に基づいて私たちは政治を判断するようなのだ。しかも、「道徳感情」は私たちに「バカ」な言動を引き起こさせる原因でもある。
綿野恵太. みんな政治でバカになる (Japanese Edition)(Kindle の位置No.16-19). Kindle 版. 》
綿野氏による「道徳感情」の定義を「感情」に分類した私の書き方は、あるいは、綿野氏を「イラッとさせる」かもしれない。彼は、自分を「感情」や「道徳」みたいな粗雑で不定形でともすると不潔になりがちな心理的バイアスを足場に判断を下したり、文章を書いたりすることを決してしない人間だと思っているかもしれないからだ。
さきほど、私が「してやられた」と書いたのは、事実として、私が狙い通りに本を読まされた読者のひとりだからだ。綿野氏は、「まえがき」の冒頭部分で、想定読者に自著を読ませるに至る作戦をしたり顔で語っている。
《「道徳感情」に訴えかけて、本書を手に取ってもらったわけである。》
てな調子で、だ。
しかも、綿野氏は、結果として書籍を手にすることになる読者に敬意を抱いているのでもない。
彼は、本書の中で、「道徳感情」という言葉を、ほとんど「劣情」と同じニュアンスの言葉として何度も使用している。
なんというのか、「バカのくせに自分を上等だと思いたがっている大衆は、『道徳感情』みたいな『心情的ポルノ』に押し流されやすいわけだよね(笑)」という感じだろうか。
ともあれ、読者は、著者に「道徳感情」なるものを刺激されて、それが原因で書籍を手に取ることになったわけなのだが、むろんのこと、著者は、読者を
「つねに道徳的に振る舞うことを意識している立派な人なのですね」
と思って敬意を抱いているのではない。
「あなたたち読者は、著者である私が、あなたたちの弱点であるところの道徳感情に訴えかける作戦を採用すると、イラッとしたりして、結果としてまんまと本を買っちゃう人たちなのですよね」
てな調子で半笑いで呼びかけている。
まるで、釣り見出しではないか。
結果として本書を読了することになった私の感想なり批評なりについては、この先、別の媒体や別の機会を通じて書くことがあるかもしれない。
この原稿の主題は、最初に戻っている。つまり、
「内容はともかくとして、いまこの時に出版する書籍の題名として、これってアリなのか?」
ということであり
「タイトルのつけ方が卑怯であるのかどうかという問題を超えて、このタイトルが世の中に拡散せずにおかないメッセージの凶悪さについて、少しでも考えたことがあるのだろうか」
ということでもある。
本書にも繰り返し書かれている通り、政治的な言説の大半は、確かにろくなものではない。
特にツイッター上に飛び交っている政治ネタは、型通りに偏向してもいれば、党派的に凝り固まってもいて、とてもではないが、マトモには相手にしていられないものばかりだと申し上げて良いだろう。
私のアカウントに寄せられるオピニオンにしても、そのほとんどは個体識別不能な「亜インテリ」の言い草だ。この点で、本書が繰り広げている分析は当たっている。ネトウヨがネトウヨとして振る舞うようになったなりゆきも、「オルタナレフト」と呼ばれることになる人々の発生機序もよくわかる。そういう意味で、本書の中で引用されているお話や、紹介されている知見も含めて、「政治」がまっとうな議論の対象として機能しなくなっている現状について、綿野氏の主張と私の観察の間に大きな違いはない。
ただし、政治を話題にする人々の多数派が型にハマった硬直的な人々であり、ツイッター上を行ったり来たりしている政治的言説のほとんどすべてが、前にどこかで見聞きしたことのある片言隻句のコピペにすぎないのだとしても、私は、人々が政治について語ることが無意味だとは思わない。まして「バカ」だと断言することは決してしたくない。
ネット上に蔓延している政治的な言葉がどうにもならない袋小路の中で無限回転運動を引き起こしているからこそ、むしろ「素人」の「素朴」な「言葉」が力を持つ。
こういう例は枚挙にいとまがない。
様々な分野の特に政治的ではない人々が、時に、時事問題に感想を述べることがある。
「この法案って、ここのところがおかしいよね」
「閣僚の男女比って、こんなに口うるさく指摘されていても何十年も変わっていないのだな」
「で、選択的夫婦別姓制度が導入されたとして、具体的に困るのは誰なんだろうか」
こうした言葉は、必ずしも政治的なわけではないし、「活動家」や「運動員」が特定の政治的な狙いを持って拡散している情報ではない。
でも、素朴な政治への言葉であるからこそ、それらの言葉には、真実がこもっていて、それゆえにこそ、ほんの少しずつでも世界を変える力を持っている。
もっとも、素朴な感慨とて、扱われ方次第では政治的な発言と見なされるだろうし、よってたかっての攻撃のターゲットにもなるだろう。
しかし、だからこそ、思ったことは口に出しておいた方が良い。
一般人の政治的な発言が非常に偏向した利用のされ方をしている現状が回避しにくいのだとしても、つまるところ政治は、言葉の延長線上にあるものだ。
であるからして、政治に関する専門知識があるだとかないだとかの話とはまったく無関係に、ある事象について一般人が抱いた感慨をまっすぐに言葉にすることの重要性は消えない。
その意味で
「みんな政治でバカになる」
というタイトルは、非専門家を政治から遠ざけ、投票におもむく人々の気持ちをくじき、一般人の政治への気後れに拍車をかける最悪なものだと思っている。
タイトル、見出し、ヘッドラインというのは、実にどうしてバカにならない。
その点に多少とも気づいているのであれば、たとえ釣りタイトルであれ、書籍のタイトルとしてこんな愚かなフレーズを選んで良い道理はないのである。
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