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徽宗皇帝のブログ

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文章と品性
「混沌堂主人雑記」に「逝きし世の面影」の宗純氏のブログ記事の自己コメント(宗純氏のコメント)が転載されていて、そのコメントタイトルに驚いたのだが、コメント内容に、コメントタイトルとの関連内容がまったく書かれていないので調べてみると、宗純氏のブログへの誰かの投稿コメントの中にある文だった。その両者を載せておく。宗純氏のコメントの元になった部分を赤字にしておく。
わざわざ宗純氏が自分のコメントタイトルに使ったということは、宗純氏も現在の日本国憲法ができそこない憲法だという考えなのだろう。とすると、宗純氏は「改憲論者」である、と見るしかないが、それでいいのだろうか。
そして、憲法に「戦争の終わらせ方」を入れるべきだという考えなのだろうか。さて、その「終わらせ方」を教えてほしいものである。「その時の国家元首が敗戦を受け入れること」か、「その国家全体が滅亡状態になること」しか、戦争の終わらせ方はないはずで、そんなのは古今東西、すべての戦争で起こったことで、わざわざ憲法に書き入れる必要があるのだろうか。そして、それを書き入れてない憲法は「できそこない憲法」になるのだろうか。それを書き入れたら戦争は起こらなくなるのだろうか。
なお、「現田石」という意味不明のペンネーム(ハンドルネーム)は、「現代史」の下手な洒落だろう。そして、「松川事件とルイ16世」というコメントタイトルは、コメント内容とはまったく無関係な、愚劣なタイトルだが、例のパリ視察議員の「松川るい」のことだろう。まさに、「文は人なり」を実証するコメントである。軽薄な文章は軽薄な人間が書くのは当たり前である。(私も冗談は好きだが、重要な問題では真面目に書いているつもりだ。)

(以下引用)



「おのれの戦争の終結ができない、できそこない戦争放棄の憲法」 (宗純)2023-08-19 15:42:58今とは大違いで、
日ソ共同宣言(1956年)の当時では第二次世界大戦の後始末が終わっていないことを政府もマスコミや有識者、一般市民も、日本人の全員が知っていた。

ところが、いつの間にやら有耶無耶に。
これは、日本人的な人の噂も七十五日、過ぎてしまえば皆美しいで、78年後の今頃になっても不都合な事実を「覚えている」(今も一貫して主張し続けている)方が奇人変人扱いなのです。
まあしかし、自分の後始末が自分で出来ないようでは人間としては終わりです。
小さな幼児では無く、一人前の大人なら、自分の尻は自分で拭く必要があるが、悲しいかな我が日本国の場合はアメリカの許可が無いと、自分の意思では尻が拭けないのですから情けない。アメリカにとっては日本は何時まで経っても三歳児か、要介護度5の寝たきり。他人に下の世話をしてもらう高齢者扱いなのですよ。

これは自分自身の話ですが、最近は便所の後で、自分の尻を拭こうと手を伸ばしたが、なぜか届かない。手が短くなるはずがないので、体の柔軟性がなくなってるのですよ。歳は取りたくないものです。ところが、
今の日本の状態とは痴呆症で完璧に忘れていて自分の尻を拭けないか、ウンコをしたこと自体を忘れているか、体が硬くて拭けない状態に近いのですから、もう間違いなく寿命が近い。

ただし、1950年代のアメリカが日ソ両国の講和条約を妨害した原因は簡単で、実は朝鮮戦争が終わっていなかったとの怖すぎる事実を日本人が考えていなかったこと。
今の様に朝鮮戦争が終わっていないままなら、日本は永久に自分で自分の尻が拭けない状態が今後も続くでしょう。世界で初めての米朝首脳会談開催を実現した(朝鮮戦争を終わらそうとした)ドナルド・トランプの失脚は不可避だったとの怖すぎるオチ
松川事件とルイ16世 (現田石)2023-08-19 10:49:04タイトルはただのごろ合わせです。「対ロ平和(講和)条約未締結の日本の不幸」とはあまり関係はありません。
「日ロ平和(講和)条約締結」について日本語世界では久しぶりにへりくつと圧倒的に扱われる理屈を現田石がこねてみます。
私は「全面講和」とか「吉田茂」などの言葉を見聞きして育った残り少ない世代なのです。1945年秋に日本が降伏文書調印を行い、その後「日本国憲法」に「戦争放棄」を盛ったからといって「かつて始めたり始まったりした戦争」が自動的におわるわけではないことぐらい知っている。
「日本国憲法」に「かつて始めたり始まったりした戦争の終わらせ方」まで書き込むべきだったし、今からでも書き込まないと現行の日本国憲法は「おのれの戦争の終結ができないできそこない戦争放棄の憲法」であると言えましょう。

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