(以下引用)
「阿修羅」記事から、論理展開という面で興味を引いた文章を例にして「文章を読む」ということについて考えてみる。はやりの言葉で言えば、「メディア・リテラシー」の問題だが、これは社会において他人の発言をどう聞き、どう読むかという問題でもある。そのポイントは
① その発言にはどのような根拠があるか。
② その発言は論理的か。
の2点だ。
以下に挙げる例文は、死刑廃止論者のものらしいが、死刑という制度の是非については存続論者、廃止論者ともそれぞれに理屈があるから、逆に今さらその根拠を言うまでもない、と思うのか、どちらの発言も舌足らずになるか非論理的になりがちである。どのあたりがそうかを分析してみたい。念のために言えば、私は「産経新聞」は最悪の右翼新聞だと思っているが、死刑制度については存続論者に近い。だからこそ、この論者の意見に「違和感を覚える」のである。
(以下引用)
死刑のバーチャル化 (河信基の深読み)
http://www.asyura2.com/10/senkyo91/msg/810.html
投稿者 新世紀人 日時 2010 年 8 月 05 日 01:29:43: uj2zhYZWUUp16
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/41744780.html
死刑のバーチャル化
2010/7/30(金) 午後 3:38
産経新聞の主張「1年ぶりの死刑 法執行は粛々とすべきだ」に違和感を覚える人は少なくあるまい。
人の死を「当然のことが当然になされたにすぎない」と傲然と伝える行間から、人権意識の荒廃が臭ってくる。人権派を「人権屋」と敵視するこの新聞ならではだが、閉塞的な社会状況に乗って拡散するから要注意である。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100730/plc1007300325001-n1.htm
死刑を支持する人は、原始的な報復感情が強い。歴史的には封建時代以前の公開処刑場で見られたもので、残虐なほど観衆は狂喜した。
人権意識とは反対方向の感情であり、死刑を支持する人が多いと言うことは、社会の未発達もしくは劣化を物語る。
死刑支持者にはしばしば、特有の屈折した理屈がみられる。被害者の人権はどうなる、死刑廃止論は被害者の人権軽視、というのがそれである。
これは論理のすり替えか開き直りである。差別意識も刷り込まれている。
人権には、王と平民の区別も、加害者と被害者の区別もない。衡平性、バランスの問題があるだけである。
2年目を迎えた裁判員裁判では死刑の判断も迫られるが、万が一にも死刑宣告が乱発されるようになれば、社会には殺伐たる雰囲気が満ちるだろう。
人間が人間を殺す死刑は、本質的に共食いと似ている。箱の中の蜘蛛の群れが最後に一匹になるように、国家権力による暴力である死刑が横行する社会は、統制と恐怖が支配し、怒りと憎しみに愛や寛容は隅に追いやられ、道徳は地に墜ち、急速に衰退に向かおう。
憂慮されるのは、死刑がバーチャル化し、安易に実務的に宣告され、執行されることである。
近代は公開処刑は非人間的として禁止されたが、一般人から死刑への実感を奪ってしまったことも否定できない。実感なき死刑制度の矛盾である。
(以下略)
では、上記の文章について検討してみる。丸数字は原文の引用で、その後が私の検討部分だ。
① 死刑を支持する人は、原始的な報復感情が強い。
・どういう根拠でそれが言えるのか。それとも、これはア・プリオリな「真実」か?
・報復感情が「原始的」なものなら、人間性が向上すれば報復感情は無くなるのか? あなたが、あなたの家族を殺されたとして、文明人であるあなたは「原始的な報復感情」を持たないのか?
② (報復感情は)人権意識とは反対方向の感情であり、死刑を支持する人が多いと言うことは、社会の未発達もしくは劣化を物語る。
・死刑制度の存続はなぜ未発達な社会の証明になるのか? いわゆる「先進国」では死刑制度が廃止になっている国が多いから、ということか? その「先進国」の非道義性は20世紀から今世紀にかけてますます顕著になってきたのではなかったか? それとも論者の考える発達した社会とは西欧諸国以外の国なのか?
③ 死刑支持者にはしばしば、特有の屈折した理屈がみられる。被害者の人権はどうなる、死刑廃止論は被害者の人権軽視、というのがそれである。
これは論理のすり替えか開き直りである。差別意識も刷り込まれている。
・どこが「屈折した理屈」なのか? なぜ「論理のすりかえ」になるのか?
どこが「開き直り」なのか? どこが「差別意識」なのか? すべて断定のみであり、読み手を説得する「論理」が存在していない。
④ 人権には、王と平民の区別も、加害者と被害者の区別もない。衡平性、バランスの問題があるだけである。
・はたして人権には「加害者の人権も被害者の人権も区別はない」のだろうか?加害者は他人の人権を無視して凶悪な行為を行ったという時点で、被害者と同等の人権は失ったと見ることはおかしいのだろうか。
・人権における「王と平民の区別」と「加害者と被害者の区別」は同列に論じられるものか?
⑤ 人間が人間を殺す死刑は、本質的に共食いと似ている。
・見かけが似ていることは何事をも実証しない。虫の共食いは自らの生存のためであり、ある意味では死刑制度以上に許容されるべきものである。論者は「共食い=悪」というステロタイプの図式で語っているだけだ。
⑥ 国家権力による暴力である死刑が横行する社会は、統制と恐怖が支配し、怒りと憎しみに愛や寛容は隅に追いやられ、道徳は地に墜ち、急速に衰退に向かおう。
・これも何らの検証も論証もない、ただの推測である。よく知られた事実だが、「少年法」によって少年の凶悪犯罪に死刑は適用されないため、悪どい連中は「人を殺すなら今のうちだぜ」と言い合っているという。(別に私が直接聞いたわけではないから、何の論拠にもならないが)また、犯罪加害者やその家族が犯罪被害者に対し何等反省の気持ちを持っていないことが多いということは犯罪者矯正施設関係者から聞かれることだ。(これは知人からの証言と、ノンフィクションのルポルタージュなどの知見からの結論だ。)
・そもそも法があってすら残酷な犯罪の頻出する世の中で、厳罰主義をやめたなら、今より「道徳的な」社会になるという、その根拠はどこにあるのか。
⑦ 憂慮されるのは、死刑がバーチャル化し、安易に実務的に宣告され、執行されることである。
近代は公開処刑は非人間的として禁止されたが、一般人から死刑への実感を奪ってしまったことも否定できない。実感なき死刑制度の矛盾である。
・「バーチャル化」とは、何を意味するか、説明がない。おそらく、非現実的な、フィクショナルなものとして国民に捉えられるという意味だろう。公開処刑が無くなったために、人々が死刑に対し、「本当に人が死ぬ」という実感を失い、安易に死刑に賛成している、という趣旨だろう。しかし、死刑は国民の賛成で決定しているわけではない。
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