「酔いどれギャラリー」から転載。
いわば安倍政権批判のこの文章が産経新聞に載ったのが面白い。もしかして、マスコミ全体で安部批判は解禁されつつあるのだろうか。
なお、移民によるデメリットについては私も西尾氏(以前は呼び捨てだったが、西尾氏の安倍批判以降は同じ陣営のようなものだwww)に同感である。私個人だけなら日本がこの先メキシコか中東諸国みたいに荒廃してもかまわないが、今の政治状況に責任のまったくない未成年者、子供、幼児たちの生きる社会がスラム化するのはできれば阻止したいことだ。つまり、野次馬氏の言うように、安倍一派(経団連と官僚・マスコミ人も含む)を皇居前の松の木に吊るすべしwww
(以下引用)
◆https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2379
西尾幹二の インターネット日録
平成30年12月13日 産經新聞正論欄より
◎「移民国家 宣言」に 呆然とする
人口減少という 国民的不安を口実にして、
世界各国の移民導入のおぞましい失敗例 を見て見ぬふりをし、
12月8日未明に あっという間に国会で可決成立された
出入国管理法の改正(事実上の 移民国家宣言)を 私は横目に見て、
あまりに急だったな、とため息をもらした。
言論人としては 手の打ちようがない素早さだった。
☆新たな民族対立に 耐えられるか
私が外国人単純労働力の導入に 慎重論を唱え出したのは
1987年からだった。
拙著 『労働鎖国のすすめ』(89年)は 版元を替えて4度改版された。
初版本の当時は 発展途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ、
というような甘い暢気(のんき)な感傷語を
堂々たる一流の知識人が 口にしていた。
この流れに反対して、ある県庁の役人が 地方議会で
私の本を盾にして闘った、と私に言ったことがある。
「先生のこの本を こうして持ってね、表紙を見せながら、
牛馬ではなく 人間を入れるんですよ。 入ったが最後、
その人の一生の面倒を 日本国家がみるんですよ。
外国人を今雇った企業が利益を得ても、
健康保険、年金、住宅費、子供の教育費、ときに増加する犯罪への対応は
みんな自治体に降りかかってくる。私は 絶対反対だ」
この人の証言は、単純労働力の開放をしない とした
わが国の基本政策 の堅持に、私の本が それなりに役割を果たしていた
ことを物語っていて、私に勇気を与えた。
私は 発言以来、不当な誹謗(ひぼう)や中傷に さらされていた
からである。
外国人は 自分の欲望に忠実で、先進国に入ってくるや否や
徹底的にそれを利用し、そこで出世し、成功を収めようとする。
何代かけても である。
当然、日本人社会とぶつかるが、そのために徒党を組むので、
外国人同士-例えば 中国人とベトナム人との間- の争いが、
日本社会に 別の新たな民族問題を引き起こす。
その争いに 日本の警察は恐らく無力である。
日本国民は 被害者でありながら、国際的には一貫して
加害者に位置づけられ、自由に自己弁明 できない。
一般に 移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが
一番厄介な点で、すでにして
日本のマスメディアの 独特な「沈黙」は 始まっている
☆大ざっぱな 文化楽天論 が支配
今回の改正法は 国会提出に際し、上限の人数を決めていないとか、
すべて官僚による丸投げ風の準備不足 が目立ったが、
2008年に 自民党が移民1千万人受け入れ案 という
ものすごく楽天的なプログラムを提出して、
世間をあっと驚かせたことがある
(「人材開国! 日本型移民政策の提言」同年6月12日付)。
中心は中川秀直氏で、主なメンバーは 杉浦正健、中村博彦、森喜朗、
町村信孝などの諸氏であった。
外国人を 労働力として何が何でも迎え入れたい
という目的がまずあった。
これが昔から変わらない根本動機だが、ものの言い方が 変わってきた。
昔のように先進国の責務 というようなヒューマニズム論ではなく、
人口減少の不安を 前面に打ち出し、
全ての異質の宗教を包容できる 日本の伝統文化の強さ、
懐の広さ を強調するようになった。
日本は「和」を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を 古代から受け継いでいるから
多民族との「共生社会」を形成することは容易である、
というようなことを言い出し
今回の改正案に党内が賛同している背景とは、
こうした 大ざっぱな文化楽天論が共有されている せいではないか
と私は考える。
☆歴史の興亡を 忘れてはならない
しかし歴史の現実からは、こういうことは言えない。
日本文化は確かに寛容だが、何でも受け入れるふりをして、
結果的に入れないものは まったく入れない
という 外光遮断型でもある。
対決型の異文明 に出合うと 凹型に反応し、一見受け入れたかにみえるが、
相手を括弧にくくって、国内に囲い込んで置き去りにしていく だけである。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、それに韓国儒教などの原理主義は
日本に 絶対に入らない。
中国の儒教も 実は入っていない。
「多民族 共生社会」や「多文化 社会」は
世界でも実現したためしのない空論で、
元からあった 各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を 引き起こす。
日本は 少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、
彼らが 日本文化を拒否していることには
どう手を打ったらよいというのか。
イスラム教徒のモスクは 既に数多く建てられ、中国人街区が出現し、
朝鮮学校では天皇陛下侮辱の教育が 行われている。
われわれはそれに今耐えている。 寛容は限界に達している。
34万人の受け入れ案は あっという間に340万人になるのが
欧州各国の先例である。
四季めぐる美しい日本列島に「住民」がいなくなることはない。
むしろ人口は 増加の一途をたどるだろう。
けれども 日本人が減ってくる。 日本語と日本文化が 消えていく。
寛容と和の民族性は 内ぶところに 硬い異物が入れられると
弱いのである。
世界には 繁栄した民族が 政策の間違いで消滅した例は 無数にある。
それが 歴史の興亡である。 (にしお かんじ)
いわば安倍政権批判のこの文章が産経新聞に載ったのが面白い。もしかして、マスコミ全体で安部批判は解禁されつつあるのだろうか。
なお、移民によるデメリットについては私も西尾氏(以前は呼び捨てだったが、西尾氏の安倍批判以降は同じ陣営のようなものだwww)に同感である。私個人だけなら日本がこの先メキシコか中東諸国みたいに荒廃してもかまわないが、今の政治状況に責任のまったくない未成年者、子供、幼児たちの生きる社会がスラム化するのはできれば阻止したいことだ。つまり、野次馬氏の言うように、安倍一派(経団連と官僚・マスコミ人も含む)を皇居前の松の木に吊るすべしwww
(以下引用)
◆https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2379
西尾幹二の インターネット日録
平成30年12月13日 産經新聞正論欄より
◎「移民国家 宣言」に 呆然とする
人口減少という 国民的不安を口実にして、
世界各国の移民導入のおぞましい失敗例 を見て見ぬふりをし、
12月8日未明に あっという間に国会で可決成立された
出入国管理法の改正(事実上の 移民国家宣言)を 私は横目に見て、
あまりに急だったな、とため息をもらした。
言論人としては 手の打ちようがない素早さだった。
☆新たな民族対立に 耐えられるか
私が外国人単純労働力の導入に 慎重論を唱え出したのは
1987年からだった。
拙著 『労働鎖国のすすめ』(89年)は 版元を替えて4度改版された。
初版本の当時は 発展途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ、
というような甘い暢気(のんき)な感傷語を
堂々たる一流の知識人が 口にしていた。
この流れに反対して、ある県庁の役人が 地方議会で
私の本を盾にして闘った、と私に言ったことがある。
「先生のこの本を こうして持ってね、表紙を見せながら、
牛馬ではなく 人間を入れるんですよ。 入ったが最後、
その人の一生の面倒を 日本国家がみるんですよ。
外国人を今雇った企業が利益を得ても、
健康保険、年金、住宅費、子供の教育費、ときに増加する犯罪への対応は
みんな自治体に降りかかってくる。私は 絶対反対だ」
この人の証言は、単純労働力の開放をしない とした
わが国の基本政策 の堅持に、私の本が それなりに役割を果たしていた
ことを物語っていて、私に勇気を与えた。
私は 発言以来、不当な誹謗(ひぼう)や中傷に さらされていた
からである。
外国人は 自分の欲望に忠実で、先進国に入ってくるや否や
徹底的にそれを利用し、そこで出世し、成功を収めようとする。
何代かけても である。
当然、日本人社会とぶつかるが、そのために徒党を組むので、
外国人同士-例えば 中国人とベトナム人との間- の争いが、
日本社会に 別の新たな民族問題を引き起こす。
その争いに 日本の警察は恐らく無力である。
日本国民は 被害者でありながら、国際的には一貫して
加害者に位置づけられ、自由に自己弁明 できない。
一般に 移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが
一番厄介な点で、すでにして
日本のマスメディアの 独特な「沈黙」は 始まっている
☆大ざっぱな 文化楽天論 が支配
今回の改正法は 国会提出に際し、上限の人数を決めていないとか、
すべて官僚による丸投げ風の準備不足 が目立ったが、
2008年に 自民党が移民1千万人受け入れ案 という
ものすごく楽天的なプログラムを提出して、
世間をあっと驚かせたことがある
(「人材開国! 日本型移民政策の提言」同年6月12日付)。
中心は中川秀直氏で、主なメンバーは 杉浦正健、中村博彦、森喜朗、
町村信孝などの諸氏であった。
外国人を 労働力として何が何でも迎え入れたい
という目的がまずあった。
これが昔から変わらない根本動機だが、ものの言い方が 変わってきた。
昔のように先進国の責務 というようなヒューマニズム論ではなく、
人口減少の不安を 前面に打ち出し、
全ての異質の宗教を包容できる 日本の伝統文化の強さ、
懐の広さ を強調するようになった。
日本は「和」を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を 古代から受け継いでいるから
多民族との「共生社会」を形成することは容易である、
というようなことを言い出し
今回の改正案に党内が賛同している背景とは、
こうした 大ざっぱな文化楽天論が共有されている せいではないか
と私は考える。
☆歴史の興亡を 忘れてはならない
しかし歴史の現実からは、こういうことは言えない。
日本文化は確かに寛容だが、何でも受け入れるふりをして、
結果的に入れないものは まったく入れない
という 外光遮断型でもある。
対決型の異文明 に出合うと 凹型に反応し、一見受け入れたかにみえるが、
相手を括弧にくくって、国内に囲い込んで置き去りにしていく だけである。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、それに韓国儒教などの原理主義は
日本に 絶対に入らない。
中国の儒教も 実は入っていない。
「多民族 共生社会」や「多文化 社会」は
世界でも実現したためしのない空論で、
元からあった 各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を 引き起こす。
日本は 少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、
彼らが 日本文化を拒否していることには
どう手を打ったらよいというのか。
イスラム教徒のモスクは 既に数多く建てられ、中国人街区が出現し、
朝鮮学校では天皇陛下侮辱の教育が 行われている。
われわれはそれに今耐えている。 寛容は限界に達している。
34万人の受け入れ案は あっという間に340万人になるのが
欧州各国の先例である。
四季めぐる美しい日本列島に「住民」がいなくなることはない。
むしろ人口は 増加の一途をたどるだろう。
けれども 日本人が減ってくる。 日本語と日本文化が 消えていく。
寛容と和の民族性は 内ぶところに 硬い異物が入れられると
弱いのである。
世界には 繁栄した民族が 政策の間違いで消滅した例は 無数にある。
それが 歴史の興亡である。 (にしお かんじ)
PR
コメント