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徽宗皇帝のブログ

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資本主義と「発達障害」
「シロクマの屑籠」から転載。
私が「発達障害」という言葉に不快感と懸念を持つのは、それが「障害」である、つまり精神科の対象となる存在である、とされていること、そして、「発達」の到達点が単なる社交能力や「人と人の間を上手く泳ぎ回る能力」だというのが現実ではないか、と思うからである。昔ながらの寡黙な職人や研究者はみな「障害者」扱いになるのである。

(以下引用)長い記事なので後半のみ。

生産性・効率性・利潤・リスク回避に仕える「発達障害はサポートされるべき」

 
ほんらい、「発達障害はサポートされるべき」とは、医療や福祉や学校がサポートするに留めてはならないもの、だったはずだ。にも関わらず、実際には医療や福祉にサポートをまかせっきりとして、そのサポートによって定型発達*3に近づいた人を、近づいた割合に応じて職場や現場に迎える、そんな仕草が世間でまかり通っている。それはどうしてなのか。
 
このことに関して、私は「発達障害はサポートされるべき」という命題と並び立つ世間の命題を思い出さずにいられない。
 
つまり、21世紀の職場や現場は「生産性や効率性に優れていなければならず、利潤をあげられなければならず、リスクを回避しなければならない」。政治学者のウェンディ・ブラウンが『いかにして民主主義は失われていくのか』で記したように、人々の意識が資本主義に染まった現代社会では、この命題は企業活動に限定されず、個人生活や行政のありかたにも適用される。
 

 


人も国家も現代の企業をモデルとして解釈され、人も国家も自分たちの現在の資本的価値を最大化し、未来の価値を増大させるようにふるまう。そして人も国家も企業精神、自己投資および/あるいは投資の誘致といった実践をつうじて、そうしたことを行うのである。
(中略)
いかなる体制も別の道を追求しようとすれば財政危機に直面し、信用格付けや通貨、国債の格付けを落とされ、よくても正統性を失い、極端な場合は破産したり消滅したりする。同じように、いかなる個人も方向転換して他のものを追求しようとすると、貧困に陥ったり、よくて威信や信用の喪失、極端な場合には生存までも脅かされたりする。
『いかにして民主主義は失われていくのか』より


 
「生産性や効率性に優れていなければならず、利潤をあげられなければならず、リスクを回避しなければならない」という命題が国から個人にまで浸透した社会では、それに逆らって生きるのはとても難しい。のみならず、この命題が医療や福祉にも浸透しているとすれば、「発達障害はサポートされるべき」とは資本主義の命題に拮抗するものというより、資本主義の命題に仕えるもの、資本主義の命題を支えるものたり得るのではないだろうか。
 


(発達障害はサポートされるべきという)通念や習慣の変化は、発達障害という診断が受け入れられる下地となっている現代社会そのものにとって都合の良いものでもある。というのも、発達障害という現代社会に適応しにくい特徴のある人々に医療や福祉がサポートを提供するのが当たり前になり、さらに障害程度に応じて(たとえば障害者雇用や障害年金の適用といったかたちで)社会のなかへの再配置がきちんと行われるなら、サポートされる個々人の生産性が高まるだけでなく、この新しい社会が個々人に要求する秩序のハードルや能力やクオリティのハードルを下げなければならない、道義的必要性もなくなるからだ。
医療や福祉が正しく発達障害をサポートしてくれる限りにおいて、この高度に進歩した社会は、ますます子どもに行儀の良さや聞き分けの良さを期待できるし、ますます就労者に効率的で持続的な仕事ぶりを期待できるし、ますます私たちにコミュニケーション能力の高さを要求することができる。
 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より


「発達障害はサポートされるべき」という意識が広まり、障害程度に応じたサポートが行われることによって、社会は、生産性を獲得した発達障害の人々を受け取る。だがそれだけでなく、この社会がこのままで構わない正当性をも獲得する。ますます誰もが行儀良くあるべきで、誰もが効率的で持続的に働けるべきで、誰もがコミュニケーション能力が高くあるべき、この資本主義の命題が具現化したような社会は、医療や福祉によるサポートによって経済的にも道義的にも支持されている──少なくともそういう側面を否定することは難しいのではないか──。
 
医療関係者や福祉関係者の思惑とはまったく違ったかたちで「発達障害はサポートされるべき」という言葉が独り歩きし、どこかで資本主義の命題に仕えるシステムの一環に組み込まれているとしたら、その点には注意が必要だと私は思う。
 
このような状況のなかでは、たとえば匿名ダイアリーの筆者のような人は、善意による「発達障害はサポートされるべき」という思いと、資本主義の命題に忠実な「発達障害はサポートされるべき」の板挟みに遭うことだろう。職場や現場で発達障害の人と対峙している人は、しばしば、そうしたふたつの「発達障害はサポートされるべき」の合間で様々なことを考えさせられるだろう。もちろん、考えることをやめてしまうよりは余程良いとは言える。ただ、発達障害という言葉が世間に浸透したからといって、当事者や関係者の悩みがなくなったわけでも、良いことづくめだったわけでもないことは、折に触れて思い出しておくべきだ。
 
私は、発達障害という言葉がここまで広がったからこそ、この言葉の受け取りかたは世間に揉まれてしばしば変質し、ときに、体よく利用されていると感じる。とりわけ、この言葉が資本主義の命題に組み込まれながら用いられることに警戒感をおぼえる。その果てに「発達障害はサポートされるべき」が「発達障害はサポートされなければならない」に変わっていくような未来は見たくない……のだが、誰もが健康であるべき・誰もが清潔であるべき・誰もが生産性の高い経済的に自立した個人であるべき社会とは、そういうものなのかもしれない。

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