マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-77fc2b.html
<転載開始>


スティーブン・サヒウニー
2024年8月21日
Strategic Culture Foundation

 イスラム教徒多数派とヒンズー教徒少数派の平和共存を維持してきた長年の指導者を追放した革命は、バングラデシュ社会に新たな一章を開いた。

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 バングラデシュ元首相シェイク・ハシナは、アメリカに対する衝撃的告発を行った。8月12日、インドに亡命中のハシナはエコノミック・タイムズ紙にこう語った。「もし私がセント・マーチン島の主権を放棄し、アメリカにベンガル湾の支配権を掌握させていれば私は権力の座に居続けられるただろう。私は国民に懇願する。『どうか過激派に操られないで下さい』」

 公務員採用枠割当制度に怒った学生による数週間にわたる暴力的街頭抗議活動の後、8月5日にハシナ首相は辞任した。1971年にインド軍の介入の支援を受けてパキスタンと戦い、独立を勝ち取った自由の戦士の子孫に対する30%の割り当てを最高裁が復活させた後、抗議活動は2024年6月に始まった。学生は、自分たちが不公平な制度に直面しており、先祖の血筋ではなく、学歴で仕事を得る機会が限られていると感じていた。

 7月15日、ダッカ大学の学生たちが抗議活動を行い、定員制度改革を訴えていたところ、突然、棒やこん棒を持った集団に襲われた。同様の襲撃が他の場所でも始まり、与党アワミ連盟と関係のある集団によるものだという噂が広まった。
 暴動を起こした集団は外国に雇われた傭兵だったと考える者もいる。残忍な弾圧に遭った街頭デモ参加者の報道は、2011年3月のシリア蜂起時の欧米メディアのようだった。だが、デモ参加者が武装していたことや、暴動初日、シリア警察60人が殺害されたことをメディアは報じなかった。バングラデシュの場合、これが草の根の蜂起だったのか、それとも外部の利害関係者が巧妙に仕組んだ事件だったのかが問題となる。

 7月18日までに32人の死亡が報告され、7月19日には75人の死亡が報告された。インターネットは遮断され、10日足らずで300人以上が死亡し、数千人が負傷した。

 バングラデシュの蜂起を「Z世代革命」と呼ぶ人もいれば「モンスーン革命」と呼ぶ人もいる。しかし、学生デモ参加者に対する当初の暴力的攻撃の原因について、専門家の間ではまだ意見が一致していない。

 ハシナは1月7日の選挙で4期連続の勝利を収めたが、選挙を「自由でも公正でもない」とアメリカ国務省は評した。76歳の現職大統領に祝意を伝えるため地域大国のインドと中国は駆けつけた。

 2009年以来、イスラム過激派の脅威に直面しながらも、ハシナ大統領は同国の平和を維持してきた。一部学生活動家によると、バングラデシュのヒンズー教徒を標的にするのは、学生運動のメッセージや意図ではなかったという。

 ジャマート・エ・イスラミはバングラデシュの53年の歴史で、議会過半数を獲得したことは一度もないが、野党のバングラデシュ民族主義党(BNP)と頻繁に同盟を組んできた。ジャマートとして知られる同党は、ハシナ首相が仕事割当制反対デモ中の死者について野党2党を非難した8月1日に活動禁止となった。

 選挙が行われるまで暫定政府の主席顧問の職を著名経済学者でノーベル賞受賞者ムハマド・ユヌスが引き受けた。秩序回復を第一課題として取り組むと彼は述べた。

 セント・マーチン島はベンガル湾北東部にある僅か3平方キロの島で、中国とのバランスを取るため、東南アジアでの存在感を高めようとしている米軍の焦点となっている。

 5月28日、外国軍事基地建設の許可をハシナ首相が拒否した決定を中国は称賛し、これはバングラデシュ国民の強い国民精神と独立への決意の反映だと称賛した。

 国名は挙げずに、外国がバングラデシュ領内に空軍基地を建設するのを認めれば、1月7日選挙で易々と再選できると提案されたとハシナ首相は述べていた。

 「もしある国がバングラデシュに空軍基地を建設するのを私が許可していれば、私には何の問題もなかったはずだ」とハシナ首相はデイリー・スター紙に語った。

 かつて東パキスタンで、1947年にイギリス領インドがヒンズー教徒が多数派のインドとイスラム教徒が多数派のパキスタンに分割された際、バングラデシュはパキスタンの一部となった。バングラデシュは独立戦争に勝利し、1971年に建国された。1975年8月15日、軍事クーデターが起きて、ハシナ首相の父シェイク・ムジブル・レーマンと家族のほとんどが暗殺された。

 アメリカ国務省は、CIAの支援を受けて、外国への政治介入を長年行っている。例としては、「政権転覆」を目的とした2003年のイラク侵攻、「アラブの春」における2011年のリビア政府転覆攻撃、シリアでのアルカイダ・テロリスト「自由の戦士」支援、エジプトでの選挙操作によるムスリム同胞団メンバーの大統領就任などが挙げられる。エジプト選挙操作の罪で、アメリカ人のリラ・ジャアファルは5年の懲役刑を受けたが、刑期を努める前に、ヒラリー・クリントンがカイロの米国大使館から避難させ、彼女は現在ホワイトハウスに事務所を持つ平和部隊の長官を務めている。

 海外での狙いを実現するため、宗派間問題や争いをアメリカは頻繁に利用する。バングラデシュのイスラム教徒がハシナ首相を追い出した後、インドの主要テレビ局が、ヒンズー教寺院や企業攻撃の報道をした。

 イスラム教徒が多数を占めるバングラデシュ最大の宗教的少数派ヒンズー教徒は、同国の人口約1億7000万人の約8%を占める。ヒンズー教徒は、伝統的にハシナ首相の政党アワミ連盟を支持しており、学生暴動団と対立している。

 少数派の権利団体であるバングラデシュ・ヒンドゥー・仏教徒・キリスト教統一評議会によると、ハシナ首相失脚後の一週間で、ヒンズー教徒やその他の宗教的少数派に対する攻撃が全国で少なくとも200件あった。

 警察も犠牲者を出し、抗議行動参加者も武装していたことが証明された。ハシナ首相がインドに亡命した後、警察は一週間にわたるストライキを実施した。

 バングラデシュがハシナ政権後の時代を進む上で、包括性と多様性が重要な原則だと考えているとダッカに拠点を置くバングラデシュ平和安全保障研究所は述べた。まさにこの「包括性」と「多様性」という言葉は、現在ワシントンDCに拠点を置く政治・安全保障団体で使われている「流行語」だ。

 バングラデシュと地域大国との関係をうまくバランスさせたとハシナ首相は評価されている。インドとは特別な関係を築いたが、中国との経済・防衛関係も強化した。

 2023年3月、ハシナ首相はベンガル湾沖のバングラデシュ・コックスバザール基地に12億1000万ドルかけて中国が建造した潜水艦を就航させた。

 5月28日、外国空軍基地の設置をハシナ首相が認めなかったことを中国は称賛した。「ハシナ首相の演説に中国は注目している。それはバングラデシュ国民の独立心と外部からの圧力を恐れない国民精神を反映している」と中国外務省の毛寧報道官は述べた。

 一部の国は自国の利己的権益を追求し、他国の選挙に公然と操作し、内政に乱暴に干渉し、地域の安全と安定を損ない、覇権主義と横暴な本性を露呈していると毛報道官は述べた。

 バングラデシュの様々なプロジェクトに、中国は250億ドル以上投資しており、これは南アジア地域では、パキスタンに次いで二番目に多い金額だ。パキスタンもバングラデシュとの防衛関係を着実に強化しており、戦闘機の他、戦車やフリゲート艦やミサイル艇など多くの軍事装備を供給している。

 互いの国の民主主義の後退を長年間無視して、インドのナレンドラ・モディ首相とハシナ首相は緊密な関係を築いており、インド企業が大きな契約を交わすなど二国間貿易が増加している。

 1月、Xへの投稿で「また選挙が成功裏に行われたことに対して、私はバングラデシュ国民に祝意を表す。我々はバングラデシュとの永続的で国民中心のパートナーシップを更に強化することに尽力する」とモディ首相は述べた。

 インドの主要メディアは、しばしばモディ首相のヒンズー教国家主義政権の代弁者として機能しており、バングラデシュのイスラム主義政党に注目している。「ジャマート・エ・イスラミとは何か? シェイク・ハシナ政権を倒したパキスタン支援の政党」とある見出しは、モディ首相のインド人民党(BJP)幹部の言葉を引用して「ジャマートがバングラデシュで政権を握るかもしれない」と報じた。

 一部批評家には、ハシナ首相の選挙勝利をインドが「密かに」支援したと主張する者もいる一方、バングラデシュの選挙に対するアメリカや欧州の批判を和らげるため、インドは自らの影響力を利用したと主張する者もいる。

 モディのヒンドゥー民族主義政党であるBJPは2014年に政権を握ったが、世俗主義に背を向けながらヒンドゥー・ラーシュトラ(ヒンドゥー国家)を掲げるモディの姿勢は、インドの外交政策の中核原則を損ねている。

 2019年、反イスラム的だと批判された物議を醸す国籍法をモディ政権は可決した。BJPの強硬な反移民言説で、強硬派党員がイスラム教徒「侵入者」を頻繁に非難しており、西ベンガル州の選挙集会でバングラデシュ人移民を「シロアリ」と呼んだことで、インドのアミット・シャー内務大臣は悪名高い。

 イスラム教徒の多数派とヒンズー教徒の少数派の平和共存を維持してきた長年の指導者を追放した革命は、バングラデシュ社会に新たな一章を開いた。これはイスラム政党ジャマートが社会を支配する不安定な時期となるのだろうか? バングラデシュの世俗主義の歴史は忘れ去られるのだろうか? 最後の疑問は、一体何時、セント・マーチン島に新米軍基地が開設されるのかということだろう。

記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2024/08/21/us-military-base-in-bangladesh-at-the-heart-of-revolution/