ただ、問題の本当の問題点は通俗道徳にあるのではなく、どのような社会も或る程度固定されると階級社会になり、労働階級は「働く機械」とされる、ということだろう。その点(社会の階級性が問題だという点)では、読んだことはないが、マルクスの思想が正鵠を射ているのではないか。「通俗道徳批判」論は、はっきり言って問題の些末的部分を誇大化していると思う。
(以下引用)赤字化は筆者(徽宗)による強調。まさに日本でも欧米でも事情は同じだろう。
もううんざり! 競争社会から降り始めた現代のディオゲネスたち
生産性という病(1)第1回は、寝そべり主義、#最後の世代、ゴブリンモード、大量離職、サイレントテロなど、生産性のロジックを基盤とした苛烈な競争社会に対して静かなる抵抗を始めた、「現代のディオゲネスたち」を追う。
(毎月1日頃更新)
寝そべることで見えてくる世界の真実
ふたつの記事からはじめたい。
ひとつ目は、『ダイアモンドオンライン』に掲載された「中国の過酷な受験戦争を勝ち抜いた若者が「寝そべり族」になってしまう理由」という二〇二一年七月の記事。
経済の急速な発展による社会競争の激化。格差のとどまることを知らない拡大。壮絶さを極める過酷な受験戦争。そんな厳しい競争社会である中国、そこで生きる若者たちがいま、静かに競争から降りようとしているのだという。
たしかに受験戦争に打ち勝って良い大学に入れば、そのまま良い企業に就職し、高い収入や安定した生活を手に入れることが可能であるとされてきた。ところが近年、良い大学を出ても、かならずしも良い就職ができるとは限らなくなったという。なぜか。記事の著者は以下のように説明している。
「社会の格差がさらに広がり、階級が固定化したからである。都会に生まれ、親の代から金銭や人脈に恵まれている人は最初から勝者である一方、そうでない人や農村の若者は階層を超えることは至難の業で、絶望的だといえる。毎年の新卒が約800万人もいる就職競争の中で、実力があっても就きたい職業や入りたい会社を見つけることは大変難しい」(1)。
こうした状況のなかで、躺平主义(寝そべり主義)は誕生した。
寝そべり主義の戒律は“六不主義”と呼ばれる。それは、「家を買わない」「車を買わない」「結婚しない」「子どもを作らない」「消費しない」「頑張らない」という六つを“しない”こと、そして、「誰にも迷惑をかけない、最低限の生活をする」ことを指す。
photo: Getty Images
寝そべり主義は、「がむしゃらになって努力すれば誰でも成り上がれる」というような能力主義のほころびから生まれた動向といえる。たとえ受験戦争と就活戦争を生き抜いて良い職につけたとしても、996(朝9時から夜9時まで週6日間勤務)や007(午前0時から深夜0時まで週7日間勤務)といわれる過酷な労働や残業によって疲弊し、それでも都会で家すら買うことができないという現実。中国の若者たちは、こうした酷薄な現実を前にして、おもむろに横になりはじめたのだ。
寝そべり主義は、加速していく経済発展や苛烈な競争社会に対する「大いなる拒絶」として現れた。それは一種のストライキ運動であり、中国の体制イデオロギーに対する抵抗でもある。
寝そべり主義はインターネットを中心に広まっていったが、あるとき『躺平主义者宣言(寝そべり主義者宣言)』なるパンフレットが現れ、中国各地で印刷されてばら撒かれ始めたという。晦渋で衒学的なアジテーションに満ちているそのパンフレットは、次のようなパッセージで始まっている。
「目の前で起きていることにうんざりして、首を横に振りながら吐き気を催している若者たちは、もうすでに寝そべっているのだ。彼らは険しい生活に打ちのめされてしまったと言うよりも、ただ生命の本能に従っているだけだと言った方がより正しいだろう。休息や睡眠、負傷、死に近い姿勢で、何もかもやり直したり、停滞させたりするのではなく、時間の秩序そのものを拒絶する状態に陥っているのだ」(2)。
これまで、中国の若者たちは常に模範的な生産機械だった。この機械はあらゆる軋轢を避けて動き、まるでそれ自体が空気のようだった、と著者は述べる。
ところが、突如として生産機械になることを拒否する人々が現れ始めたのだ。彼らが寝そべるだけで、それまで音ひとつ立てずに作動していた生産機械は停止し、社会なる工場を機能不全に追いやることが可能となるだろう。
寝そべり主義、それは高度資本主義が行き詰まった地点にぱっくりと開いた傷口に他ならない。
「この世界を九〇度傾けるだけで、人々は普段口にすることのできない真実を知ることとなる。すなわち、寝そべることが立ち上がることであり、立つことは這いつくばるということである」(3)。
「僕らが最後の世代なんで」
ふたつめの記事は、『クーリエ・ジャポン』に掲載された「「僕らが最後の世代なんで」─―子供を持たないと誓う中国の若者たちの主張」という二〇二三年二月一八日の記事。
二〇二三年一月、中国政府はこの国が「長期にわたる人口減少の時代」に突入したと発表した。社会の高齢化と労働人口の減少。中国は二〇一五年に一人っ子政策を廃止し、二〇二一年の段階で、夫婦一組につき子供を二人持つことを認めていた。
だが中国の出生率が上がることはなかった。なぜか。中国の出生率低下の主な原因は、子育て費用の増加と社会福祉の欠如にあると言われる。さらにコロナ禍で中国政府が行った強権的なロックダウンが人々の怒りを買い、そこでも「寝そべり主義」への共鳴を生み出した。
そんなさなか、コロナ感染者の隔離施設に行くことを拒む若い男性の動画がSNS上で拡散された。「おまえの罪が子供や孫の代まで影響するんだぞ」と警告する警察官に対して、その男性は冷静な口調で「僕らが最後の世代なんで。ご丁寧にどうも」と返したのだった。このフレーズはインターネットミーム化し、検閲で消されるまで「最後の世代」というハッシュタグがついた何百万ものコメントが書き込まれたという。
男性の「僕らが最後の世代なんで」という発言に対する共感の背後にあるのは、強権的な中国政府に対する苛立ちと、コロナ禍で醸成された悲観主義だ。
記事によれば、二〇二二年、一八〜二五歳の女性二万人以上(ほとんどが都会在住)を対象にインターネット上でおこなわれた調査では、回答者の三分の二が「あまり出産したくない」と思っていることが明らかになったという。中国の若者たちは今や、労働生産性だけでなく、種の再生産からも背をそむけているのだ。
(3) 同上、一一頁
(中略)
奇しくもアメリカにおいてもGreat Resignation(グレート・レジグネーション)」=「大量離職」と呼ばれる現象が二〇二一年頃を境に注目を集めるようになってきた。自発的に仕事を辞める労働者の数が過去最多の水準になっているというのだ。
ここにもやはりコロナウイルスが関わってきている。コロナ禍では、感染対策としてリモートワークが普及したが、スーパーやレストランなどの接客業、あるいは工場労働者やエッセンシャルワーカーと呼ばれる職種はそれまで通りコロナウイルスに感染するリスクと隣合わせの状態で働くことを余儀なくされた。低い賃金とリスクが見合っていないと判断した労働者たちは、次々と見切りをつけて離職しはじめた。
企業は高い賃金を提示するよう迫られており、それが人件費の高騰という形でインフレを加速させている。だが、それでもあえて仕事に復帰しない人々が増えてきており、アメリカの労働参加率は横ばい状態が続いているという。
大量離職は主にエッセンシャルワーカーの職種に顕著に見られていたが、ここ最近ではそれがホワイトカラーの職種にまで広がっている。
経済評論家の加谷珪一によれば、多くの企業が業務を定常モードに戻しても、一部の労働者はリモートワークでの環境に慣れ切っており、従来型の職場に戻ることを嫌悪している。結果、多くの高学歴社員が退職するなど、人材確保は思うように進んでいない。加谷はこうした趨勢について、「あらゆる階層において、従来型の働き方や職場環境に対してノーを突きつける労働者が増えているということであり、これまでの社会では見られなかった現象である」と指摘している(4)。
こうした、コロナ禍をきっかけとした労働に対する価値観の変化には、多くの労働者が「未来は思ったよりも良いものにならない」と感じ取っていることとも関係している。とりわけ二〇〇八年のリーマンショック以降、各国の生産性は伸び悩んでおり、労働条件は今後は良くならないと見限った労働者の増加が大量離職に繋がっている可能性は否定できないという。
アメリカでは、高い賃金を得ている若年層が三〇代で早期退職するFIREと呼ばれるムーブメントも出現してきている。今や、誰もが仕事に魅力を感じられなくなってきている時代に差し掛かっているのである。
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