"メモ日記トゥディ"カテゴリーの記事一覧
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「がんばれゲイツ君」でおなじみのTONOSAKI氏によるi-pad評。私自身はi-padにはたいして興味は無いが、どのようなものかは知っていたほうがいいとは思うので、御同様の方々のために転載する。個人で持つ意義はあまり感じられないが、本文中でも書いてあるように、ビジネスシーンでは案外と利用できそうなツールだという気がする。特に、教育関係ではいろいろな用途がありそうだ。塾業界など、生徒全員に貸与しても、それで宣伝効果があるのだから、費用分は回収できるのではないか。まあ、大抵の業者は、最初から授業料にその分を上乗せするだろうが。(笑)←こういう書き方はあまり好きではないが、当世では冗談や皮肉も、最初から断っておくほうが無難だろう。
(以下引用)
製品コンセプトとしてはだいたい予想通りのものが出てきたといった所ですが、しかし価格が500ドルというのはかなり魅力的ですね。さらにデザインがやはり秀逸で、この点ではAmazonのKindleなどとは申し訳ないですが(^^;比べものにならないかと思います。
で、この手のデバイスになると、タッチスクリーンが非常に有効ですね。
iPhoneはいいのだけれど、あの大きさで指でタッチするとなると、指のタッチを想定して専用のUIが必要になって来るはずなのですが、このくらいの大きさだとPC用の画面がかなりそのまま使えるでしょう。
なのでこの製品、日本だと個人向けよりはビジネス用でかなりブレークするんじゃないかと思うんですね。わかりやすい例で言うと生命保険などの営業でしょうか。社内のシステムにオンラインでつないでその場でシミュレーションをするなんて用途にはかなり使えそうで、そうした用途にあの画面の大きいタッチパネルは非常に有効ですね。
個人向け、という観点で言うと、米国だとiBooksもリリースされるので非常に流行るでしょうが、やはり日本向けとなると、大きさがどうしても気になりますね。iPhoneやiPodのようにポケットに入れることもできないので鞄が必要となると、ちょっとした外出時に気軽に携帯というわけにも行きませんし。というわけで、液晶を二つ組み合わせて折りたたみができる技術が開発されると、日本でもかなり売れるかもしれません。
あとは、iBooksですね~。個人的には雑誌のオンライン配信をやって貰えれば嬉しいのですが。雑誌は読みたいんだけれど、文庫本と違ってかさばるし、取っておくと場所を取るんで泣く泣く捨てるとあとで記事を読み返したいと思った時に困りますしね。
Kindleだとモノクロなのでどうしても普通の本がターゲットになってしまうと思うので、なんとか雑誌をオンライン配信できるような革命をAppleには起こして貰いたいものです。省資源も出来ますし、流通コストも削減できるし配信もリアルタイムで出来ますしね。コンテンツを作る側からしても在庫を減らしたい書店としても良いことづくめでしょう。
また、意外と今までコンピュータが使えなかったユーザ層にはかなり訴求するかもしれません。スイッチを入れてほぼ一瞬で起動しますし、操作もタッチパネルで直感的で使いやすいし、拡張性が無い分安定しているし、当然携帯の画面よりは大きく見やすいし、というわけで、PCに敬遠していた高齢者の方などには結構受けるかと。アップルもそこらへんをもう少しアピールすべきでしょうね。幸い高齢化社会ですし(^^;。PR -
白州次郎「プリンシプルのない日本」を読んだ。
白州次郎とは何者か、と言えば、ただ「カッコいい男」の一言で済む。吉田茂の懐刀とも言われ、茶坊主と非難されたりもしたが、正体はただの硬派で天性の頭の良さを持った高校生がそのまま大人になったような人物だ。菊地寛曰く、「白州次郎っていうのは天下の美男子だ」。
英国紳士の外貌とサムライの心を持った長身の美男子で、誰に対しても平気でずけずけと物を言う快男子であり、単純な正義感と合理的な判断力と先見の明を持っているという、そういう人間に、男ならなってみたいものだ。
河上徹太郎、今日出海、白州次郎の三者対談(鼎談)から
(以下引用)
河上「こいつはすごいやつだよ。戦争が始まったら、もう負けるって決めちゃったんだからな」
今「始まる前だよ。まず戦争が起こるっていうことを言い出してさ。ほんとに始まったら負けるって言ってさ。その前に東京が焼けるってすっかり言うんだよ。食糧難に陥るからって、鶴川村へ引っ込んで農業に励むんだからな」
河上「まあ、お蔭で俺は焼け出された時、そこへ逃げこんだけどね」
白州「戦争前は日本の全部が自己陶酔だね、一種の……。始めはちっちゃな嘘なんだ。ちっちゃな嘘をついて、それがバレそうになると、だんだん嘘を大きくしてゆくんだな。しまいにその嘘をほんとだと自分で思っちゃうんだ」
(引用終わり)
白州次郎が言っていることは日本を戦争に導いた軍部や官僚の話だが、実は政治とマスコミが交わる場面では恒常的に発生する現象だろう。
もう少し引用しよう。
(以下引用)
白州「いま日本でいけないのはすぐ人の脚をひっぱることだね。これは大変な奴だと思うと脚をひっぱちゃう。だから日本で何かのトップにゆく奴は、毒にも薬にもならない奴が大部分だよ」
今「だからね、俺は脚をひっぱられない方法を教わったよ、役人に」
白州「それは、余計なことを言うなっていうんだろう」
今「そう、向こうが何か言ったら、それをやっつけて帰しちゃいけないんだな。たいへん有益なお話を伺いまして、非常に参考になりました、なお研究の上、善処いたしましょう、と言わなきゃいかんていうんだ」
白州「そうしてその人が帰ると、何言ってやがんだい、馬鹿野郎ッて言うんだろう。それがいけないんだよ。なぜハッキリ言わないのかね。会議なんかでもそうだよ。(中略)議論したければ議論すればいいんだ。ところが、痛烈なことを言うと恨むんだね。人の前で恥をかかしたって、面子々々っていうけど、八月十五日以来、日本人に面子なんてあるかっていうんだ」(「文芸春秋」1950年八月号)
(引用終わり)
「八月十五日以来、日本人に面子なんてあるかっていうんだ」と私も思う。逆に言えば、個人の面子にこだわって、現実を隠蔽し、糊塗する人間たちが日本の進路を誤まらせてきたのではないだろうか。 -
今日は旧暦では何日だかわからないが、今、窓の外には満月らしいまん丸な月が出ている。沖縄では昨日あたりから晴れが続いていて、梅雨も明けたかという感じだが、まだ油断はできない。階下では大学生の娘が「ワンダと巨像」をやっていて、ガメラみたいな怪物を倒すのに四苦八苦している。平和なものだ。
世の中の人間が、恋愛も戦争もテレビゲームの中だけで満足していれば、今のように毎年の自殺者4万人ということもないだろうに、世界中の金を掻き集めることにしか興味の無い連中のために、世界中が不幸に陥れられているのだ。そして、彼らにとって金とはただ数字でしかないのである。彼らは現実生活では金など使う必要すらないのだから。それなのに、「もっと、もっと金が欲しい」と叫び、自分たちのその欲望のために世界中で戦争を起こし、人々を騙し、金を掻き集めるのである。
彼らも、たまには月でも見るがいい。
自分たちのやっていることがいかに愚かであるか。自分たちの存在は世界中の誰をも幸福にせず、不幸を撒き散らすだけだと知りながら、それでも金を掻き集めることにどれだけの意味があるか。人生を幸福に生きるのに必要な金はどの程度なのか、たまには考えてみるとよい。「起きて半畳、寝て一畳」、それ以上のものが、何が必要だろう。 -
すでにマスコミのニュースにも流れているとおり、普天間基地の移転先は辺野古に決定したと鳩山総理は仲井真沖縄県知事に伝えたようだ。大山鳴動して鼠一匹といったところである。鳩山総理は、これでずいぶん男を下げてしまった。このために参議院戦で民主党は苦戦を強いられることになるのではないか。
だが、まあ私としては鳩山総理を責めようとは思わないし、民主党がマスコミに攻撃されて内部崩壊し、政界再編の第二段が起こるのもいいことだと思う。
しかし、フランス革命がその途中から急進性を失ってブルジョワの利益中心の革命に変質していったように、民主党が国民の生活を守るという基本理念をずるずると失っていかないように祈るばかりである。腹の底から腐りきった自民党や公明党とは違って、民主党の中には真面目で良質な政治家が多いのは確かなのだから。
基地移転問題は、結局、米国べったりの自民党や官僚どもの望みどおりに辺野古移設で決着したわけだが、今度は、「鳩山総理のせいで事態が紛糾し、日米同盟にひびを入れた」とか何とか言って非難されることは確実である。要するに、どちらを選んでも悪口を言われるのだから、鳩山総理は目の前の批判を無視しても基地の国外移設という歴史的な偉業を成し遂げるべきであったと思う。だが、これは死んだ子の年を数えるようなものだ。
さて、次の問題は、普天間基地が移転した後の、軍用地地主への補償がどうなるかだが、案外と水面下ではこれも決定済みなのかもしれない。すべて政治には偶然というものはない。辺野古決着も、最初から決まっていたことなのだろう。 -
私もその一人だが、政治についての発言や論争をなぜ人は好むのか。
それはおそらく、そうした発言をすることで、自分が大きくなったような気がするからだろう。「自分は、現実生活では無名の庶民だが、実は頭の中では世界のすべてを把握しているのだ」という気持ちのいい妄想に浸ることができるわけである。
そういう誇大妄想を全開させてくれる気持ちのいい場所がインターネットであるわけだ。
しかし、有力ブロガーになると、実際にインターネット上での発言が現実世界の世論に影響を与えることもあるので、これを必ずしも誇大妄想と一言で片付けるわけにもいかない。たとえば自公政権の転落に「きっこの日記」その他のブログが果たした役割はけっして小さなものではない。体制側も「工作員」やマスコミを動員して応戦に努めたわけだが、あえなく敗れ、ここに日本で初めての「無血革命」が成功したわけである。
つまり、「現実を動かすのは言葉である」ということだ。
無名の庶民の床屋政談でも、多くの人の賛同を集めれば、政治そのものを動かす力になっていく。現代は、そういう面白い時代である。 -
年少の無邪気なプロレスファンには、夢を壊して悪いが、プロレスが「筋書きのある戦い」であることは周知の事実である。ほとんどのプロレスファンは、それを承知した上でプロレスという「ショー」を楽しむのだが、中にはプロレスを本当の勝負だと思い込んでいるファンもいる。あれほど体を鍛えた連中が本気で戦ったら、毎試合、死人・重傷者続出になるだろう。
以上は前置き。
国際政治というものもいわばプロレスのようなものではないか。各国首脳の間では問題のほとんどは了解済みだのに、表面上はすったもんだしているように見せかけて、それをマスコミ報道させることで自分たちに都合のいいように世論を導いていくわけである。
北朝鮮という国は、プロレスで言う「ヒール(悪役レスラー)」のようなものである。ヒールがいるからこそプロレスが成り立つように、政治の世界にもヒールがいるから軍隊の存在が必要だと世間は思ってくれるわけである。
案外とキム・ジョンイルとオバマ(以前ならブッシュ)は仲良しではないか、という想像もできるわけだ。(このあたりは、北朝鮮が日本海にミサイルを打ち込んだ時の中村正三郎氏のブログ記事にヒントを得ている。)そして、必要な時には北朝鮮に頼んで事件を起こしてもらえば、一辺でアジアの緊張は高まり、軍備不要論や安保不要論は消し飛ぶわけである。
そのためにこそ北朝鮮という国の存続が許されているのであり、その気になれば、あの程度の国は簡単に消滅させることもできるだろう。朝鮮戦争でアメリカが苦戦したのは、言うまでもなく北朝鮮の背後にいたソ連や中国のためである。今では、ソ連も中国も資本主義国家の仲間である。
というわけで、たとえ韓国政府が自国の戦艦の沈没は北朝鮮の攻撃によるものだと声明を発表しても、私はまったく信じていないのである。「韓国・北朝鮮・アメリカ」の三者合同のお芝居が始まったな、としか思っていない。もちろん、以上はただの憶測であり、何の根拠も無いが、「真珠湾攻撃」や「トンキン湾事件」や「9.11事件」などの国際政治の謀略の歴史から見れば、そうであっても不思議ではない。 -
昨日の来訪者数は過去最高の数字であった。連日、高値を更新している株式みたいでびっくりだ。多分、これは南堂氏のブログで取り上げてもらったせいかと思うので、南堂氏には感謝の言葉を捧げたい。まあ、向こうは、迷惑だと言うかもしれないが。
しかし、そのように過去最高の人数が来てくれた時の記事が「バーバレラ」というお色気映画の話だとは、いかにも私らしい間抜けさである。あれを書いた時には、そんなに多くの人が来るとは思ってもいなかったのだ。あれで、私をただのスケベ親父だと思った人間も多いだろう。それは否定はしないが、「バーバレラ」が素晴らしい映画であることも確かなので、ぜひ機会があれば見てもらいたい。
ロジェ・バディムという監督は実にセンスのいい監督で、名前は忘れたが、彼がロック・ハドソンを使ってアメリカで撮ったハイスクールが舞台の映画なども実に面白かった。まるで大島弓子の「つぐみの森」を喜劇的スリラーにしたみたいで、しかもエロチシズムも詩情もある。日本での題名があまりに通俗なのでまったくヒットしなかった映画だが、これも見る機会があれば、ぜひ見たほうがよい。彼の映画は洒落っ気が生命なので、その軽快さのために実力を過小評価されていると思う。ユーモア感覚がありすぎるのも考え物である。(今、インターネットで調べたら、ロック・ハドソンを使った映画は「課外授業」であった。共演はアンジー・デイッキンソン。たしか、原題は「行列作った可愛い子ちゃんたち」くらいの意味で、それが映画の謎と実は関係があるのだが、「課外授業」ではそれが伝わらない。もっとも、この原題もうろ覚えの記憶である。) -
週の始まりから呑気な話を書くのも何だが、先ほど、映画「バーバレラ」のDVDを見て、それがとても面白かったので紹介する。
ただし、私はこれを青少年の頃に見て、あまり面白く感じなかった、というか、理解できなかったのだ。というのは、(今わかったのだが)、これは「ジェーン・フォンダを楽しむ映画」だったからである。私は若い頃には性というものに罪悪感や不潔感を感じていたので、エロチシズムというものの味がまったく理解できなかったのである。ジェーン・フォンダの裸が出てくる度に目を逸らしていたのだから、この映画が理解できるわけがない。何しろ、この映画からジェーン・フォンダの裸を除いたら何も残らない(もちろん、これは誇張表現)くらいの映画なのだから。
特に、一番最初に出てくる「宇宙服ストリップ」は大傑作である。私は、女性の裸が美しいとはあまり思っていないし、ストリップなど面白いとも何とも思っていなかったが、このジェーン・フォンダのストリップは、美しいし、楽しいし、ジェーン・フォンダは可愛い。なるほど、実生活での恋人でもあった監督のロジェ・ヴァディムが多くの人に見せたいと思ったわけである。ついでながら、「エイリアン」でも女性飛行士のストリップ(?)があったが、案外とあれは「バーバレラ」へのオマージュだったのではないか。
話全体は、「武器というものが存在しなくなった宇宙世界で、武器を作った男を、バーバレラが追って逮捕しようとする」というもので、「平和的ナンセンスSF喜劇」とでもカテゴライズすべき物だが、今見ても十分に面白い映画である。というより、戦争や争いが世界を支配している「古代」の今だからこそ面白いのかもしれない。
明るいエロチシズムというものが全体の土台になっているので、子供と見るというわけにはいかないが、「大人」にとっては楽しく、面白い映画であることは保証する。女性が見ても、案外気に入るのではないだろうか。ジョン・フィリップ・ローは本当に天使みたいだし、中学生が革命軍司令官をやっているみたいなデビッド・ヘミングスは可愛いから。もちろん、女性がジェーン・フォンダの美しい裸を鑑賞して喉を鳴らしてもいいわけだ。 -
我々の頭の中には、いわば「思考素」とでも言うべき断片があって、それが無数に浮遊した状態である。その思考素はたとえば誰かの言った名言などである。前に書いたロベルト・ミヘルスの保守主義についての言葉は、私の思考素の一つである。しかし、私がロベルト・ミヘルスという人物について何かを知っているかというと、そんなことはまったく無い。私は知識人ではないから、他人と論争する必要も無いし、知識を自分の防具とする必要も無い。だから、うろおぼえの知識で十分なのである。前に、「女にもてないってのは、何て気が休まるんだろう」という吾妻ひでおの名言を紹介したと思うが、それと同様に、平凡な無名人であるのも大きなメリットなのだ。
しかし、たとえば、ミヘルスとやらいう人物の言葉を紹介したのが気になって、その人物をウィキペディアで調べると、そこになかなか興味深いことが書いてあって、また断片的知識が増える。こうして我々は自分の思考素を増やしていくのである。そして、その思考素の総体が、我々という人間の個性なのである。
ウィキペディアによれば、ミヘルスは「寡頭支配の鉄則」という理論で知られているらしい。その要点だけを言えば、あらゆる組織は必ず少数者の専制的支配に陥るのだが、その理由は、組織が組織化されるに従って、組織を有効に動かし秩序立てるための知識と技術が必要になるが、それができるのは僅かな人間なので、組織の成員は組織支配の権力を彼らに委譲することになる、というものだ。
あまりにも単純な話なので、これが「理論」なのかと思われるかもしれないが、真に有効な理論とはそうしたものなのである。
たとえば、一人の人間が金持ちになるためには、多くの人間を働かせ、その収入のほとんどを一人が独占する、というのが原則である。だが、それでは残りの人間は納得しないから、大多数の働き手にも形ばかりの利益配分を行う。これが会社という組織である。マルクスが言ったのは、ただそれだけにすぎないが、それが20世紀を動かす大きな思想だったのである。
「他人の労働の結果を奪うことで自分の贅沢な生活を維持する」というのは、古代の王侯貴族もすべてそうだったのであり、マルクスはそれをただ資本主義の社会にあてはめただけのことだ。さらにこの思想を俗な形にすれば、「金持ち父さん貧乏父さん」のようなベストセラーになる。あれは、要するに、サラリーマンでいては金持ちにはなれないよ、というだけの話である。サラリーマンとは、いわば現代の農奴なのである。まあ、農奴でいるほうが気楽だという面もあるし、中小企業では経営者の方が気苦労は多いのだが。
私は書きながら考える人間なので、私の文章はただの雑談にすぎない。ブログとはそういうものでいいと思っている。そのような散漫な文章は読むに値しない、時間の無駄だと思う人もいるだろうし、こいつは下らないことばかり言っているが、時々は有益なことも言うじゃないか、と思ってくれる人もいるかもしれない。姿は見えないが、そういう少数の人間に向けて、私は話しているのである。 -
昔、福田和也と佐藤亜紀と松原何とかいう大学の先生か何かの鼎談を読んで、その三人が何でも知っていることにあきれたものだが、もちろん、これは鼎談の後に手を加えて、そう見えるようにしてあったのだろう。しかし、そういう部分を割り引いても、この三人の「知識」はすごかった。
しかし、では彼らの発言に感心したかというと、それはあまり無かったのである。つまり、彼らにとっての知識はただの防護服でしかなくて、他者から攻撃された時に、「俺は(私は)これだけ本を読んで、これだけ知っている。お前は議論の前提となる基礎知識も無いくせに、俺と(私と)議論しようとはおこがましい」と撥ねつけるための知識ではないか、という印象を受けたのである。実際、現代において「知識人」であるということはそういうことだろう。
知識人であることには別に国家資格は要らないが、常に他人からその知識レベルを量られていて、一つ間違えば(つまり、馬鹿な発言をすれば)一気に知識人の座から転落してしまうという因果な商売なのである。まあ、「知識オタク」とでもいうべき連中だろう。もちろん、彼らは「知識人」を自称しているわけではないが、その発言内容が自分の知識を誇示することにエネルギーの大半を向けているように思われるから私は彼らを「知識人」と認定するわけである。
つまり、はっきり言えば、本当の教養人だとは思えないということだが。
本当の教養人とは、幅広い知識と教養を持っているだけではなく、その発言の一つ一つがその教養に裏付けられた重みがあるという人間である。教養とは、様々な事象についての知識が、その人間に完全に消化され、肉体化したものだと言えるだろう。前に挙げた三人の発言にはそういう重みは感じられなかった。まあ、それはもちろん、こちらにそれを理解するだけの教養が無いせいでもあるが。
三島由紀夫は、小説家としてよりは批評家としての才能が優れていた人間で、彼の評論の中には、それを読む人間の視野を一気に広げるような素晴らしい思想や知識が溢れていた。たとえば彼が「見渡せば花も紅葉もなかりけり……」の歌の「二重性」、つまり現実の情景と幻想の情景の二重性について述べたことは、その後、多くの文芸批評家が無断使用している。私が山崎正和をあまり高く評価しないのは、この「他人の発想の無断使用」のためである。
この三島由紀夫や、澁澤龍彦などが、いわば大衆の知的水準を高めてくれた日本の精神的恩人であり、そうした人間が昭和の時代にはたくさんいたのである。そういう意味で、平成という時代は、教養人の時代ではなくなったという気がする。
