"メモ日記トゥディ"カテゴリーの記事一覧
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このブログは、別に政治的発言をするために作ったものではないが、政治的発言が自然に多くなったのは、やはり政治というものが面白いからだろう。いわゆる「床屋政談」という奴だ。
床屋政談を馬鹿にする人間は多いが、私は素人の床屋政談こそが民主主義の土台だと思っている。右か左か、保守か革新かに関わらず、笑って政治を論じることのできる風土が日本に作られることが私の望みである。
現在は、「宗教」と「政治」については、身内の人間とも話すことはできない、というのが普通の人間の生活だろう。そうした話は人間関係を回復不可能なまでに破壊する可能性が高いのである。日常生活の中に健全な言論空間が無いということは健全な政治的判断を育てる風土が無いということだ。
そのために、多くの人間は、たとえば親が保守思想の持ち主だったから自分もそうなるとか、あるいは逆に、親の革新思想に反撥して右翼思想の持ち主になる、ということになる。なぜか、左翼思想の方に行く若者は少ないようだ。それはなぜか。「右翼思想の方が正しいからさ!」と言うのは少し待ってもらおう。
私は分析と解釈が趣味だから、若者はなぜ右翼思想になりがちなのか、ということを分析してみたいが、今日は雑談的に話を始めたので、そちらは稿を改めて(ブログでも「稿を改めて」と言うべきだろうか?)論じよう。
床屋政談に話を戻す。
子供の頃に「小公子」を読んだのだが、主人公のセドリック少年がアメリカに渡って生活をしていた頃に仲良くなる雑貨屋の親父がいて、この人物の趣味が政治の話なのである。セドリックも一緒になって無邪気な政治論議をしたりするのだが、このエピソードが私は大好きである。無知無学な庶民が大真面目に政治を論じるという風土こそが、アメリカの民主主義を育てたのであり、政治が専門家たちの手に奪われた時から、アメリカの民主主義は有名無実なものに変わっていったのではないかと私は考えている。まあ、基本文献であるトックヴィルの「アメリカの民主主義」もまだ完全には読んでいない怠惰な人間の空想的意見にすぎないが。
だが、インターネット上の「床屋政談」は、政治を再び民衆の手に取り戻す、その起爆剤になるものだと私は思っている。PR -
このブログで少し前に紹介した「阿修羅」掲載のチャルマーズ・ジョンソンの発言が「内田樹の研究室」でも掲載されていた。見るべき人は見るべきものを見ているな、と、ちょっと得意になる。もちろん、最初に阿修羅に投稿した人が一番偉い。しかし、重要な情報を選択してより多くの人に広めるという行動も有意義だと思うので、今後も私が興味を持ったインターネット記事は折々紹介していこう。他人のふんどしで相撲を取るな、と非難されそうだが、情報とはそういうものだ。
インターネットという情報の大海の中では、情報の価値は、誰が言ったかよりも、その情報自体の合理性や真実性によって判断され、そしてそれが社会的な力を形成していくのである。マスコミ的には有名人でも、インターネットの世界ではまったく相手にされない言論人もたくさんおり、逆に、一般社会では無名でもインターネットの世界では一目置かれている人間もいる。
つまり、インターネット民主主義とでも言うべきものが現在形成されつつあり、そこでは純粋に発言そのものが事実に基づいているか、発言内容は論理的か、また発言が党派性から自由であるか、あるいは読んで面白いか、などの点から判断されるのである。これはロールズの「公正の条件」である匿名性、つまり意見がその発言者から独立して意見そのものによって判断されるという条件が史上初めて実現されたということではないか。 -
「母の日」にちなんで、先祖や子孫について考えよう。
沖縄では、初夏の頃に清明祭(シーミー)というものがあって、先祖の墓参りをするが、先祖とは言っても、知っているのは自分の両親やその両親くらいまでなのが普通だろう。
しかし、実は、すべての先祖は我々の体の中にいるのである。それこそ、ネアンデルタール人の頃から、いや、人類が人類になる以前の原生動物の頃からのすべての先祖の遺伝子を我々は自分の体内に持っている。
そう考えると、自分という存在は、なかなか大変な存在であり、それを自分の一存で無駄に処分してはマズイだろうな、という気になるのではないか。いや、もちろん、私は自殺肯定論者だから、自分がそう思えば自分の体を勝手に処理してもいいのだが、その前に、自分の体内にあるすべての祖先を、自分と共に滅ぼすのだ、という重みを少し考えてはどうか、ということだ。
ついでに言えば、独身の人間ならば、それと同時に、自分から生じる未来の子孫たちの可能性もすべて滅ぼすわけである。
「利己的遺伝子」という考えが私は大嫌いなのだが、その理由は、まず遺伝子の擬人化がナンセンスであることだ。遺伝子そのものには意志など無いのだから、それが「利己的」で、人間の体を乗り物として次から次へと乗り換えていく、という捉え方がくだらないと思う。また、そう見ることで、「自然は人間のモラルを超えた存在で、人間界のモラルなど小さいものだ、そして物事をそう見ることができる自分はその自然をも超えた存在なのだ」とアピールする科学者の自我肥大が気に入らない。竹内某など、自分の創見でもないこのドーキンスの考えを振り回して、ひところやたらに擬似科学本を出していたが、最近はすっかり鳴かず飛ばずで、幸いだ。
我々は利己的遺伝子の「乗り物」などではない。あらゆる先祖の集合体なのである。もしかしたら、先祖のすべての記憶さえ、我々の中には眠っているかもしれない。
祖先崇拝というと、何か古臭いもののように思われるが、実は祖先も子孫も我々自身と重なっているのである。そう思えば、清明祭という行事の意義も違って思われるのではないだろうか。 -
インターネットの面白いところは、興味を引かれた記事からそれに関連した他の記事に飛び、新たな知見が次々に得られるところである。その意味では知見の広がり方がインターネット普及以前の数百倍のスピードになったと言える。
にも関わらず、自分に興味のある分野のブログしか見ない、自分の好きな書き手のブログしか見ない、という人間は、自分の知(という言い方はあまり好きではないが)のレベルを自分で低いままにとどめていて、もったいないことである。
で、問題は、そのように大量の情報が瞬時に手に入るようになった現代人は、無数の不確実な情報の洪水に溺れてしまう可能性が高いことである。何しろ、いちいち情報の正しさを調べる余裕など、ほとんど誰にも無いのだから、情報操作も含めた「情報の印象」ですべてが判断されるということになっていくだろう。
特に、裁判の話など、膨大な情報が、堅苦しいお役所言葉や法律用語などで延々と語られるのだから、誰も読んだりしないことが多い。たまたま「高知白バイ事件」などのように、有名ブログで取り上げられたために多くの人に知られた例もあるが、これも無数の冤罪事件の中の氷山の一角だろう。
私は沖縄の人間だが、大江健三郎と岩波書店が「沖縄ノート」の中の記述で名誉を傷つけられたとして集団自決事件当時の守備隊長などから訴訟を受けた事件についてはほとんど興味も無かった。
ところが、たまたま山崎行太郎という文芸評論家の「毒蛇山荘日記」というブログを知って、その中にこの訴訟が笑うべき茶番であることが明瞭に書かれていた。興味のある人間は「曽野綾子誤字誤読事件」と分類された過去ログを見ればいい。私もまだ全部は読んでいないが、日本の右翼(保守派言論人や官僚の大半も含まれる)がいかにして他人を陥れるのかがよくわかる。つまり、根拠の無い情報で相手を裁判に引っぱり出し、相手にダメージを与えた上で、適当なところで撤退するのである。そうすれば、相手には裁判の被告人となったという悪印象だけが残り、それはその後ずっと続くのである。(植草事件など、その代表例だ。)
つくづく、情報操作は怖いものだ、と思う。
我々は、あらゆる情報に対して、常に、
「我は刷毛の影もて馬の影を刷く御者の影を見たり」
と心で呟く必要がある。この言葉は、ドストエフスキーの小説のどこかに出てきた、私のお気に入りの言葉である。本来は地獄について述べた言葉だったと思うが、現代の情報とは、まさしくこのようなものではないか? -
日本がアメリカの属国であるという認識は最近は一般化してきているようだが、若者たちにとっては「それでなぜ悪いんだ」という意見が多いのではないかと思われる。それだけアメリカによる日本国民の精神改造が成功しているわけだ。
三島由紀夫の自死は、「日本精神が滅びること」への抗議の自殺だったのだが、現代の若者にはその意味さえもわからないだろう。今では右翼の連中こそが日本がアメリカの属国であり続けることを推進している始末である。
要するに、右翼とは日本人としての誇りも何もなく、ただ日本の既得権益者グループ護持のための存在にしか過ぎないようだ。もちろん、かつての左翼にも日本人としての誇りは無く、ただソ連や中国を崇拝するだけの馬鹿が無数にいたわけだが。
日本がアメリカの属国でなぜ悪いか。それは、「日本国内に米軍基地を置かれ、その結果、アメリカに対する反抗や政治的拒否がまったく不可能だから」である。つまり日米安保条約に「宗主国アメリカ対属国日本」という図式が明瞭に示されているのである。
したがって、安保条約の自動延長こそが、日米関係のすべての不正の根源であると言える。 -
ゴールデン・ウィークも今日で終わりだ。この間、幸いにして好天気が続いていたが、沖縄は明日から雨続きになるらしい。もしかしたら、早くも梅雨入りになるのだろうか。
まあ、私は嫌いな天気は無いから、雨が続いても別に気にならないが、家庭の主婦などは洗濯物が乾かなくてうんざりするだろう。
晴れた日は晴れを楽しみ、雨の日は雨を楽しむ、というのが私の基本的姿勢なのだが、自然に対してはこのようにおおらかな私も社会的事象に対しては批判することが多い。べつにそれは他人を批判すればこちらの頭が良くなったような気持ちのいい錯覚が得られるからではなく、きちんと批判し、この社会の欺瞞をあばかない限り、この社会は改善されないと思うからである。その批判のためにいやな思いをする人がいるのはわかるし、「相田みつを」的にすべてを肯定する姿勢を好む人が多いのも分かっている。「君は今のままでいいんだよ」という言葉をかけられたい人間が多いのもよく知っている。しかし、そういう下層階級の「自己愛撫」が社会を現状のままで維持する原因なのである。自分の現状への不満をはっきり自覚し、要求すべき相手に要求を突きつけること。それが、社会の不平等を改善する唯一の道なのである。
労働運動や組合活動を嫌う人間は多い。だが、現在の労働者の地位と待遇は、かつての労働運動と組合活動のおかげなのである。その成果は享受しながら、労働運動や組合活動を批判する連中を、私は蛆虫にも劣る連中だと思っている。 -
「普天間基地問題」で鳩山総理が沖縄入りをしているが、その話の内容からすると、どうやら選挙公約を破って「県内移転」をするつもりのようだ。まあ、よくある選挙詐欺だが、彼も小泉前総理のように「公約は守る必要はない」とでも言うつもりだろうか。
ということは、県外移転を強く主張する国民新党および社民党との連立も、これでご破算になる可能性が出てきたわけだが、鳩山総理はそこまでの覚悟があって、そういう方針を決めたのだろうか。
あるいは、例によって、さる筋からの脅迫によってそう決定せざるを得なかったのか。
まあ、誰でも一番大事なのは自分と家族の命だから、CIAあたりに脅迫されれば、その指示に従うしかないだろう。CIAではなく、別の暗殺組織かもしれないが。あるいは単に、名護移転を前提に土地を買い占めた政治家たちに都合をつけてやっただけかもしれないし。
こうなれば、せめて普天間の跡地にディズニーランドあたりを誘致して沖縄観光を振興させるといった見返りを沖縄県民に与えるくらいはする義理があるだろう。
何の産業も無く、所得水準が全国最下位の沖縄県にいつまでも基地を押し付けるなら、他県からその補償を貰うことは、けっしておかしな話ではない。それがいやなら、他の県で基地を引き取ってくれ、というだけのことである。
ついでながら、軍事的理由で沖縄に基地を置く必要がある、という理屈は成り立たない。もしも中国の脅威を言うなら、(私はそんなのはまるで信じていないが)九州北部にでも基地は置くべきである。沖縄は、基地がある場合にのみ他国の攻撃を受ける可能性が出てくるのである。 -
我々の人生とは、我々が出会う出来事、つまり外的な現象ではなく、その現象を我々がいかに受け取るかである。Aという光、つまり外的現象が、Bというプリズム、つまり我々の精神を通って変質したCという新しい光が、我々がこの人生から得ている体験なのである。同じAという光が、さまざまなプリズムを通ることでさまざまな体験に変わるのだ。
そして、そのBというプリズムを形成しているのは、実は言葉である。我々の精神は言葉によって作られ、外部から取り入れた言葉によって日々に変質していく構造物なのである。
たとえばそこに新たに「生活などは召使にまかせておけ(ヴィリエ・ド・リラダン)」という一つの言葉が加わることで、我々の精神は(その言葉に同感すれば)変質し、新たなBに変わる。
あるいは「意識してなされたことはすべて正しい(オスカー・ワイルド)」という言葉が加われば、さらに変質する。そのようにして日々、我々の精神は変容していくのである。
私自身が人生に迷い、毎日のように自殺を考えていた若い頃に、私が死ななかったのは、自分で考えた警句「人生は自殺するには値しない」と、ドストエフスキーの小説の中に出てくる「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉のためであった。
たった一つの言葉によって人は容易に死ぬし、容易に救われる。言葉にはそういう力がある。それも当然であり、我々の精神とは実は言葉による構造物なのだから。 -
プロゴルファーの杉原輝夫が何かの出場記録の世界記録を立てたというニュースを見たが、実は彼は癌に冒された体であるにもかかわらず、いっさい癌治療を受けていないという。せいぜい、野菜の青汁を飲むという程度だ。その体で毎日運動をし、試合にも出ているという驚異的な生き方をしている。
とは言うものの、実はそれこそが癌にかかった人間の正しい生き方ではないかと私は思っている。
つまり、私・徽宗皇帝は、老人には癌治療など必要ないと思っているからだ。癌治療は癌そのものよりも体に害がある。せいぜい、初期の癌を切除するのがたまには有効な程度で、それ以外の放射線治療や抗癌剤治療はすべて癌そのものよりも悪い、というのが私の考えだ。
そのような考えをしている人間は医者の中にもいるが、癌治療が金儲けの大きな手段である医者の世界では異端者扱いをされている。
癌とは、実はただの老化現象である、というのが私の考えである。成長期には人間の体を形成するシステムが、成長期を過ぎると行き場を無くし、体のあちこちに無駄な肉の塊、つまり腫瘍を作ることになるのであり、人生の後半においては癌はほとんど必然である、と私は考えている。
もちろん、癌とともに生きるのは苦しいだろう。しかし、癌治療はそれ以上に苦しく、そして治ることはけっして無い。なのに人々は癌が治ると信じて癌治療を受けるのである。これは医療業界全体による詐欺行為ではないか。
いわゆる「溺れる者は藁をもつかむ」という心理で患者は癌治療を受け、また患者の家族は乏しい懐から治療のために巨額の治療費を支払う。なぜなら、治療を受けさせないで患者を死なせると、「あの家族は冷酷だ」と世間から言われるのが怖いからだ。
こうして癌治療は医療業界の大きな財源となっているのである。
もう一度言う。「老人の癌は絶対に治らない」のだし、「癌治療のほとんどは癌そのものよりも害がある」のである。
私は、若い頃に、職場の同僚が癌治療を受け、わずか二ヶ月くらいで見る影もなくやつれて死ぬのを見た。あれは明らかに放射線治療と抗癌剤による衰弱の結果だったと信じている。 -
「生活の技術」はまだしばらく続く予定だが、そうした話には興味の無い人も多いだろうから、「メモ日記トゥディ」を時々間に挟むことにする。
今日のニュースで、「共同通信」の調査によれば、鳩山内閣の支持率が20%台に下がったと報道されていたが、もちろん、大手マスコミはすべて反鳩山内閣なのだからこの世論調査は捏造に決まっている。
捏造ではなく誘導尋問的設問によって鳩山不支持を導き出すという方法もあるが、数字そのものを変えてしまうほうが簡単だ。
どうして、世間の人間は、どこの誰が、どのように行って、どこの誰が答えたのかもわからない「世論調査」の数字などを信じられるのか、私には不思議でならないのだが、案外と、こうした「数字」は、段々と権威を持つようになるものだから、馬鹿にはできない。
そもそも「共同通信」などというものがなぜそれほどの権威があるかというと、ほとんどのマスコミは自分でニュースのネタを探すのが面倒で経費がかかるので、「共同通信」という得体の知れないニュース配信社からニュースを恵んでもらっているからである。
つまり、「共同通信」の経営者はニュースの大元を握っているわけだから、マスコミ全体を支配しているようなものだ。
そのようなマスコミ支配の方法などについては「シオン長老の議定書」に書かれているから、このブログの過去ログから探してみるとよい。
あまり、毎日毎日のニュースや情報だけに振り回されないことである。
