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徽宗皇帝のブログ

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hanko(判子と犯行)
「ネットゲリラ」常連投稿欄だが、着眼点がいいというか、普通の人の気が付かないところに
気が付くのは知性の印だろう。私など、できるだけ世間の事象を懐疑的に見ようと心がけるのだが、生来の善良さというか、アホなところが邪魔して、つい「世間で言うことをそのままに信じる」ことがある。ハンコ廃止の件も、業務の無駄を無くす、という意味ならいいことじゃないの、と思っていたわけだ。そもそも、三文判が当人のサインより有効だ、とされる場面が多すぎる。しかし、下の数人の議論を読むと、これは些細な問題ではない
つまり、官公庁や大企業その他、社会支配階級がいくらでも無責任になれる体制を作るための一戦略であるわけだ。
まあ、三文判横行を批判するとしても、サインというのも、同じ人間が書いても同一性はまったくありえないわけだから、その判定を誰がどういう資格でやるのか、という問題がある。西洋でサインが通用したのは、西洋社会には文盲が多くて、昔はサインが書けるだけで知識階級(つまり、サイン偽造などしないモラルがある)と見做されたのではないか、と妄想する。それに、銀行員などは、サイン判定技能訓練を受けたのだろう。庶民まで小切手を使うようになったのはいつからかは知らない。しかし、現実問題として、たとえば脳梗塞で右手の動きが不自由になった人間は、発病前とサインが違うと言われても困るわけである。
まあ、ハンコは「ハンコを押した人間が当該の件に確かに責任がある」ということを証するもので、ハンコ廃止は無責任社会への第一歩かもしれない。
もちろん、下級国民の行為は、上級国民の手下によっていくらでも恣意的に処罰できるのであるwww まあ、それは今でも同じかwww



(以下引用)


最近思うんだが、やっぱりハンコというのは強力なセキュリティーシステムなんだなあということですな。
アタシの実印作ってくれたハンコ屋の話なんだが、本職は偽造印一発で見破るそうです。拡大しなくてもわかると。
もちろんスクリーンに2千倍位に拡大すると完全に陰影の違いがわかると。


ほんの僅かな曲線の曲率の違いや流れ、勢い、そういったものに違いが出ると。偽造印はたいていそういうものが死んでいると言うんですな。


もちろん同じデータで機械で彫ってる三文判は同じはずなんだが、それさえやはり一本一本出来が違うと。


それに対してサインは違いはわかるが同一性は基本的にない。判別は鑑定によるがそれも限界があるが、ハンコは完全に科学的に判定できる。
客観性があるんですな。


まあ西洋はサインの文化というが、然るべき文書・親書はちゃんと封蝋や型押する。矢張り印なんですな。


今回のリコール投票の拇印も禁止にしてしまえばいい。
百均の三文判も十万人分用意すれば一千万円。つかそんなに大量に買えばそれで足がつく。


まあセキュリティーをゆるくしたい人たちは、色々理由があるということでしょうな。



今どきのラクト印ははんこ安売店で60円ですけどね。
被りあるから10万本は必要なくて拠点ごとに2セットくらいあればいいわけですからラクト印彫る機械を買ったほうが安そうではあります。


父から三文判一式を受け継いだ私から言わせれば、三文判というのは同じ型からいくつも作られるので唯一というようなものではないのだけれども、それでもいざ書類を偽造しようとするとき、その名前をたくさんの三文判の中から同じ漢字のを物理的に探して(同じ漢字があって)朱肉をつけて押すというのがとんでもなく時間がかかるのでなかなか難しいということですね。


印鑑は本人が自分で押す必要がありません。
記名も自筆であることを問いません。
署名、となると原則は自筆を指します。
しかし障害者も高齢者もいるわけですから全員が自分で署名し押すわけではありません。
はんこは押されているだけで記名を補完して書類の正統性を現します。
確かに完成した書類であるから効力がある、中途でない、ということを証明するものなんですね。
本人が自筆したというなら拇印が間違いないのだけれども、記名押印に正統性があれば書類は問題がない。


御年80を超える一級印章彫刻技能士のおじさんは、幼稚園の頃から祖父に指導を受け、泣きながら修業して、1級をとったときにはとても褒められてほっとしたと言ってました。
その家の長男になされる英才教育だったみたいです。


ゴム印すらパソコンを使わないで手書きして篆刻した時代の人です。
何かの契約の際に機械彫りでない職人が彫った生きてる印鑑を押すときの喜び、押される喜びは確かにあると思うんですよね。
ここまで辿り着いて契約を完遂する、みたいなね。
私の実印はアンティークで象牙と22金の工芸品なのですけれども、名前じゃなくて苗字で彫ったのですww (女子は苗字変わるから名前で彫れと言われる)



tanukiさんの御説のとおり、


私が考えているのは、印鑑の役割は、当人のアイディンティティを確認するとともに、ものごとの「責任」の所在を明確化するための証(あかし)なんじゃないだろうか… ということです。


つまり、自分が「関与した」ということのその意志を書面等の上に陰影として残すことで、同時にその行為の責任の所在をも背負い込むことを示しているということです。


役所や会社などでの稟議や採決・決定などで、それぞれの責任過程に応じて次々と役職の枠に押印が並んでいくのは、その部署部署ごとにおいて線を引きながら、各人・各役の責任のありかを順次確定していく作業だと考えます。


そのため、今回の押印(ハンコ)廃止の方向は、世のデジタル化とか、それにともなう簡略化の流れを推進するというのはひとつの方便であり、(押印廃止の本心の何割かは)ハンコの押印による各部署の責任の確定的要素を排除していこうという思惑があると思われます。


うがった見方をすると、ハンコによる押印廃止の最大の目的は、役所・役人による決定プロセス(責任のありか)の曖昧化を狙っているものと推測することも出来そうです。


文書そのものがPCやワープロで作成され、メールなどを通して電子データとしてしか情報が残らないとなると、後々、責任当事者の同定や意志確定が曖昧になってしまいます。


もちろん、パスワードなどの活用やより高度なコンピュータシステム、生体部位による承認などによって、デジタル分野でも個人特定の厳密性は確保できるでしょうが、それではかえって手続きが煩雑化したり、データのやり取りの過程で改竄・盗用される恐れも出てきます。


アナログ人間の私としては、どこかでアナログ的な要素を残すハンコの押印や自筆署名(サイン)などは、証明手段の何処かの過程で、今後も残しておいた方がいいと思っています。


ということで、


これからは、ハンコの押印廃止に代わって、昔ながらの「花押」かなんかが復活するかも知れませんね。FAXでしか文書のやり取りができない私としては、そんなことを考えています。



事実というのは、行為そのもの(口約束とか意思とか社内統制そのもの)であるのだから、書類は確認や保管用の、かならず後付の事実証明書類である、ということですしね。



事実とは何で、書類とは何か、ということを見失った昨今であるので
書類の廃止で権利義務という事実も一緒に失われるという
メビウスさんのご指摘は一理あると思いますね。


書き忘れたことに、署名であろうと拇印であろうと
事実は本人にあるので後からひっくり返すことは
できるってことですね。


だいたい明文化されなかった行政法が弱々しく衰弱していることからも
完成された書類にして残す重要性は確定的に明らかなのです。


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