「システムを無批判に受け入れるという悪」という表現が出てきますが、なぜそれを受け入れてしまうのか


それについて、昨日、私が部屋のコバエを何気なく叩いのけた時に、そのコバエに手がヒットして死んでしまったのです。冬は自分の部屋に大量の植物をベランダから入れているので、コバエは普通に出てきます。


ふだんは特に気にしないのですが、その時、偶然殺してしまった


でもまあ、当然ながら、特別に悲劇的な感情が湧くというわけではないです。


その時に、


「あ、これだ」


というように思ったのです。


現在の価値観の中で、「当然のことだとされている」ことに対しては、それが現実には、あるいは理想的には非常に誤っているかもしれないことでも、


「自然に受け入れる」


と。


害虫を駆除する、蚊を駆除をする、他にもいろいろと「人間に対して有害とされている動物」を殺す、抹消する、排除するというようなことが非難されることはほぼないと思われます。


鳥インフルエンザ拡大防止のための鶏の大量殺処分や、豚熱などの感染症の拡大を阻止するためのブタさんの大量殺処分などもそうですが、そういうものが悲劇性をもって伝えられることはありません。


「殺処分完了」


的な事務的な報道で終わります。


ちなみに関係ない話ですが、私自身は、鳥インフルエンザのための鳥の大量殺処分というのは非常にオカルトだと思っていまして、話がそれますので詳しくは書かないですが、一昨年の以下の記事で書いています。鳥は地球規模で巡廻していますので、一部の特定地域でいくら殺しても意味はないです。


世界的単位で見れば「意味がない鳥インフルエンザでの殺処分」。しかし、世界の鳥インフルエンザでの殺処分数はすでに数百万羽規模に
地球の記録 2020年12月9日


 


しかし、誰もが「殺すしか方法がない」と思っている。それが「日常の概念」となっています。


 


今書いている記事は、このことの「是非」を述べているわけではないですが、この記事で以下のように記しています。


> 現代社会の私たちは「大量に殺せば何とかなる」という幻想にとらわれすぎていて、今や人類はほとんど意味のない殺戮をする存在となってしまいました。 地球の記録


くどいようですが、今回は、この是非を書いているわけではないです。


なぜ、こういうようになったかというと、


「それが現代に固まった価値観」


だからです。


「でも、これは虫や動物に対してだから」と思われるかもしれないですが、先ほどの過去記事でふれた、ナチスのアドルフ・アイヒマンが、アシュヴィッツ強制収容所へ送ったのは何だったかということでもあります。


害虫でも鶏でもブタさんでもありません。


さらにいえば、そのナチスの時代に、ドイツの一般市民の人たちは、実際には何が行われているのかはよくは知らなくとも、ユダヤ人の人々が強制収容所に送られ続けていることは知っていたはずです。


もちろん、このようなことに反対していた人たちもいたでしょうけれど、「国民全体の総意」としてはどうだったかと。


これが、


「通常の価値観が固まった社会の様相」


だと思われます。


その前に体制からの扇動があろうとなかろうと、その価値観が固まると、社会全体がそちらに進む。


第二次世界大戦の中の日本で、「戦争はそれ自体が良くないんだ。戦争に反対しよう」と人々が言えたかというと言えなかったはずです。というより、かなり多くの人びとが、「そんなことは考えなかった」とも思われます。


これも、「通常の価値観がその方向に固まった社会」です。


 


こういう、ある価値観が社会に定着すると、「それは長く続く」傾向があります。


ヨーロッパ人による「奴隷貿易」は、16世紀から18世紀の 300年間続きました。15世紀からはじまったヨーロッパ人によるアメリカ大陸の侵略は 200年以上続ききました。


その南米はどうなったかというと、


> 1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。 コロンブス


こんなことになっています。4年で600万人殺されているわけです。相当せっせと殺戮を行わないと間に合わない数です。


こんな状態が何十年、何百年と続く。「それがその時の社会の普通の価値観」だからです。


以下の記事で、彼らヨーロッパ人たちがおこなったことなどにふれています。


悪魔の最終勝利を阻止する存在は…
投稿日:2017年5月19日


この 5年前の記事で私は以下のように書いていますが、昨日のコバエの思い出から考えると、これは少し違いますね。


> コロンブスのおこなった行為は、まさに、この「人間という存在が醜悪で野蛮で無価値なものと、人間に思わさせるため」には十分であり、そういう意味では、ヨーロッパ人の植民地時代というものは、「悪魔が世界に羽ばたいたとき」だったと言えそうです。

> 悪魔が地球を征服するために、悪魔の支配下にある人間(本人がそう気づいていなくても、彼らは期待通りの行動をします)が全世界に広がり、「地球を悪魔の星にする」。それが目的だったような気さえします。 In Deep


ここまで例としてあげた様々は、確かに、「人間という存在が醜悪で野蛮で無価値なものと、人間に思わさせるため」には十分ではあるにしても、それは、


「意図的な悪」


ではなく、先ほど出てきたような一連の概念、


「悪の本質は《システムを無批判に受け入れること》」


によるものであり、そして、その根底には、その時代の何十年などの中の生活で固まっていく「日常の中の価値観」にあるのだと思えます。


ワクチンやマスクに関しての同調的圧力もです。


しかし、「ワクチンが始まって、1年も経ってないのに、日常の価値観になる?」とも思いましたが、そう思った直後に、


 


「人間の日常の価値観は一瞬で変えられる」


 


ということなのだと自覚しました。


あっという間に日常の価値観を変えてしまうことはできるのだと今は確信します。


まあ、「テレビ」というツールの役割は大きかったと思いますが。


 


いずれにしても、日本だけではなく、世界中の多くの人びとの中で、2年前から、


「日常の価値観は変転した」


と感じます。


昨日、コバエを殺した時に違和感を感じなければ、こうは思わなかったはずですが、パンデミックが始まってからのこの2年は、こういう「違和感」が繰り返しやってきていた感じがします。


パンデミックからしばらく経ってからは、次第に考えも大げさになり、蚊を叩いて殺した時なんかも、殺した後に「悪かったなあ」と謝るようになったりしました。もちろん、「とはいえ、血を吸われたり痒いのはイヤだから次も殺るよ」とも言いますが(相手、死んでるじゃん)。


いろいろなことに違和感を感じ始めた理由は、確かに最初は「みんながマスクをし始めた」ことあたりからはじまり、しかし、マスク以外へも「日常の価値観への違和感」は高まり続けていました。


そして、ワクチンキャンペーンも始まった。


他にもいろいろと始まった。


「どうして、こんなにすんなりその世界に入ることができるの?」


と不思議でしたが、「違和感」と関係がある話なのかもしれません。


 

最後の審判

昔……もう 30年くらい前になるのですかね。


昔からふだんはまったくテレビを見ない私ですが、夜、何となくテレビをつけましたら、作家の埴谷雄高さんのドキュメントが NHK教育で放映されていました。


それは五夜連続の放映だったんですが、うちにはテレビの録画システムがなかったので、知人に電話して「 NHK教育でやってるの録画してくれない?  来週、1レース分の馬券おごるから(どんな報酬だ)」と録画してもらいまして、それをその後も何度も見ていました。


番組は、「死靈 - Wikipedia」にありますが、1995年1月9日~ 13日の放映だったようです。『ETV8特集 埴谷雄高・独白「死霊」の世界』という番組です(なんと、取材期間は2年でした)。


私はその番組を見るまで、埴谷雄高という人自体を知らなかったのですが、死霊(しれい)という長編小説を 50年間書き続け、未完のまま亡くなりました。


この番組は、ずっと以前には YouTube にもあったんですけど、なくなってしまいました…って、今検索したらあるじゃん!


以下に全編ありました。再放送のもののようです。投稿者は一部異なります。


埴谷雄高「死霊」を語る1 (※ 追記 / 見ていて気づいたのですが、音声が一部消されています。小説の精神病院の描写の部分が音声が全カットになっていました。他にも多数ありそうです)


埴谷雄高「死霊」を語る2


埴谷雄高「死霊」を語る3


埴谷雄高「死霊」を語る4


埴谷雄高「死霊」を語る5


それで、この番組で埴谷さんが言うには、書き始めた理由として、


「AはAではない」


という「違和感」からだと述べています。


埴谷さんは「自同律の不快」と述べています。今は「同一律」というらしいですが、つまり、「AはAだ」というのが今の世界の「日常の価値観」ですが、


「それが不快だ」と。


そして、


「それは錯覚のような気がする」と。


あと、動画のこちらなどでは、「ニュートリノや宇宙線の自我とは何か?」なんてのも語っています。


30年くらい前にこれらの言葉を聞いて、なんだかとても元気になりましたので、当時の私にも「 AはAであるということに対しての強力な違和感」はあったのかもしれません。


この『死霊』第7章は「最後の審判」というタイトルなのですが、ここに大変に「好きな概念」が出てきます。


「食べられたものが、食べたものを弾劾する」


のです。


まず、イエス・キリストが、イエス自身が食事として食べた「ガリラヤ湖の魚」に弾劾されます。


その次に、ブッダが「食べた豆」に弾劾されます。


豆ですよ、豆。お釈迦様が、死んだ豆に怒られている。


長い描写ですが、それぞれ短く抜粋させていただいて締めさせていただこうと思います。


突然に埴谷さんの死霊を思い出したのは、今の世の中の状態に「おかしい」と違和感を持ち続けていられる礎が、この時の埴谷さんの言葉との出会いにあったからかもしれないと思ったからでした。


この番組を見た時、私は三十代の始めで、すでに表現もやめていて、「世の中ってつまらない」と思い始めていた頃でした。


しかし、この埴谷さんの番組を見て「元気をもらった」のですね。もしかすると自分は存在していないかもしれない、なんていう考えは人生の中で最もエキサイティングな考えのひとつだったため、この頃から実に元気になりましたね。


それまではお酒は夜飲むものでしたが、この頃からは昼から飲み始めました(ダメになってるじゃん)。


埴谷さんの主張は、つきめていえば、


「存在しない存在するもの」


を語るというものでした。


私たちは自分が存在していると思っていますが、埴谷さんは「それは不快だ」と。


ずっと続いていた違和感。そして、この2年で強まった違和感…。もしかすると、このパンデミックの期間は、多くの方々が、これまでにない「新しい価値観を獲得できる時期」でもあるような気がしてきました。


存在しない自分とまではいわなくとも、「自分が気づいていなかった自分」を認識するという方法が見つかるというような期間といいますか。


この「最後の審判」は、先ほどの YouTube ですと、この動画あたりの前後で埴谷さんが述べています。



埴輪雄高「死霊」 第七章「最後の審判」より

いいかな、イエス、これほどお前に食われた魚の悲哀についてばかりこだわりつづけた俺についていっておくと、さて、お前はテベリアの海ともキンネテレの海ともまたゲネサレ湖とも呼ばれたあのガリラヤ湖のきらめき光った眩しい水面を憶えているかな。


お前が復活後、三度目にガラリヤ湖に現れたとき、なおまだ飢えているお前は「食べものはあるか」とまず訊き、「いいえ」と答えられて、こう指示したのだ。


お前は、シモン・ペテロ達に、船の右がわに網を打て、と指示して、おお、憶えているかな、百五十三匹もの大漁の魚をとらせたのだ。


……俺たちがはいった大きな網が引き上げられて、跳ねあがっている俺達の重さと多さを眺めて満足な喜悦を現しているお前の残忍な顔を、水上の宙に跳ねあがった数瞬の俺は、永遠に忘れることはできないのだ。俺が跳ねあがった水上は数知れぬものが写っていながら、それらが忽ちに消え去ってしまうところの虚無の鏡だったのだ。


おお、ここまでいえば、お前もやっと憶いだせるかな。つまり、その大漁の魚を朝食として炭火の上にのせて焼き、パンとともにお前達が食べつくしたとき、お前が最後に食べたその最も大きな一匹こそがほかならぬこの俺だったのだ。


……おお、イエス、その顔をあげてみよ、お前の「ガラリヤ湖の魚の魂」にまで思い及ばぬその魂が偉大なる憂愁につつまれて震撼すれば、俺達の生と死と存在の謎の歴史はなおまだまだ救われるのだ。


おお、イエス、イエスよ。自覚してくれ。過誤の人類史を正してくれ。


 

埴輪雄高「死霊」 第七章「最後の審判」より

おお、サッカ、お前は、生きとし生けるものを殺してはならぬ、と繰り返し述べながら、その殺してならぬ生きとして生けるもののなかに、いいかな、他を食わずに、ひたすら食われるだけのこの俺達、お前達の大地の上に緑なす「生の造化主たる生」をこそひたすらもたらした俺達草木を含めていなかったのだ。


にもかかわらず、イエスから自分の肉と血であるとすぐ真ん前でいわれていることをその全身全霊をこめて喜ぶ卓上のパンと葡萄酒の愚かな心に似て、お前が食物から受ける前に必ずするところの合掌をただに施与者への感謝の表示としてばかりではなく、これからやがて食べられる俺達へのあらかじめの悲痛切実な哀悼をこめた心の奥底からの詫びと許しをまごころこめて乞うこの上なく真摯誠実な標しだと思い誤って、例えば、いま俺の両側にいる米も麻の実も、そうしたお前を心の底から許してしまったのだ。


だが、サッカよ、すべての草木が、お前に食べられるのを喜んでいるなどと思ってはならない。お前は憶えていまいが、苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも堅い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も繰り返して強く噛まれた生の俺、すなわち、チーナカ豆こそは、お前を決して許しはしないのだ。