風邪で頭が朦朧としているので、自分の頭で考えるのはやめ、私の亡父の遺した備忘録(名言などの抜書き)から二つだけ紹介する。
私の父親は実際に兵士として戦場に行き、負傷して後方に移送され、そのまま終戦を迎えた結果、生き延びた人間である。つまり、私は「戦場に行かなかった連中」の子供ではない。それは私の誇りである。そして、実際に戦場に行った人間は戦争の実態を知っており、戦争がどれほどの悲惨を生むかを知っていて、平和主義者になるのが普通である。沖縄県民の「絶対的平和主義」は、沖縄という土地自体が戦場になったことから生まれたものだ。
引用文の解説は不要だろうが、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉は比喩的な表現であることに注意したい。ここでの「生物」は生物一般でもあるが、主に「人間」のことであるのは言うまでもないだろう。
「自分の体も自分が殺した生物の墓場と化し、又はその運搬の道具となってしまう。」
が分かりにくいかもしれない。つまり、我々は他の生物を食い、それを血肉として生きている、ということかと思う。胃袋や腸は他の生物の「墓場」だということだろう。それを体内に持ったまま歩き回れば、それは自分自身が他の生物の死体の「運搬の道具」だということだ。
これは人間、およびあらゆる生き物の「業」である。仏教に近い考えだ。
その業を乗り越えてこそ、真の人間ではないだろうか。
(以下引用)
「平和は人類最高の理想なり」(ゲーテ)
「この世の生物は始終戦争をして、双方とも大損害を受け、しばしば死ぬことさえある。しかも、そのために悪意が減るわけでもなく、彼らの猛烈な手足のために、この世の大きな森の多くの木が地上に押し倒されるのである。
そうして彼らは食物を腹いっぱいつめこむと今度はあらゆる生物に対して死や苦悩や労苦や恐怖や追放をもたらすのを楽しむようになる。
そしてその限りない誇りのために空へ上がろうとするが手足が重くてどうすることもできない。
地上でも地中でも水中でも追跡され、打撃を加えられ又は破壊されないものはない状態で或るものは他の国へ運び去られ、自分の体も自分が殺した生物の墓場と化し、又はその運搬の道具となってしまう。
おお地よ。なぜお前は口を開き彼らを大いなる地獄、洞穴の深い割れ目に投げ込み、空の下にかくも野蛮な無慈悲な怪物を見せびらかすことをやめにしないのだ。」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
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