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徽宗皇帝のブログ

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思想が狂信に至るメカニズム
今、ドストエフスキーの「未成年」をゆっくり読んでいるのだが、その中にワーシンという人物の言った言葉があり、それに私の持論である「人間を動かす最大の原動力は自己愛だ」という「補助線」(これは小室直樹流の言い方だ)を入れると、「思想が狂信に至るメカニズム」を説明できそうだ。
先に、ワーシンの言葉を書いておく。
「クラフト君のはちっとも論理的な結論ではなくて、いわば感情化した結論だという点に、まちがいがあるんだよ。みんなの天性というものは一様ではない。多くの人間に言えることだが、論理的結論がときとして強烈な感情に転化し、完全にその感情の虜となって、駆逐することも、改めることもひじょうにむずかしいことがある。このような人間を正常にもどすには、その感情そのものを変えねばならんが、それには同程度に強烈な別な感情を代わりに注入する以外に手はない。これは常にむずかしいことであり、たいていは不可能なことだ」

少し脇道になるが、私の信じている根本思想のひとつに、ロシア神秘思想家のグルジェフの言った「理性と感情は別の中心がある」というものがあり、これは「感情は理性では制御できない」という事実を正しくとらえていると思うが、たいていの人は「理性万能主義」者であり、理性が感情をコントロールできると信じている。もちろん、不可能ではないが、それは実に困難なことで、それを実現するにはワーシンが言うように「別の感情に置き換える」作業が必要だろう。ちなみに、グルジェフは性欲(性的衝動)にも別の中心がある、と見ているが、それは別の問題としておく。とりあえず、理性と感情には別の中心があり、それぞれ独立したものだ、という思想を「補助線」のひとつとしてここでは提起しておく。(もちろん「独立したもの」という言い方は不正確であり、相互に干渉はするが、理性による感情の制御は極度に困難だ、という事実だけはたいていの人が認めるだろう。それが容易なら、人間界のあらゆる犯罪的事件や人間関係の衝突は生じないのである。)この「補助線」がワーシンの言葉とほぼ重なることはだいたい賛同してもらえるだろう。

さて、「感情に転化した結論」というのは「感情に転化した思想」とほぼ同義だが、ほとんどの人は自分の思想が「感情に転化した思想」であることに気づいていない。その無意識さが、実は最大の問題点なのである。政治思想における左右の対立、あるいは保守と革新の対立などは、実は既に「感情に転化した思想」の衝突だから、論理でお互いを屈服させることはほぼ不可能なのである。理性は感情を操縦できないのだ。
では、なぜそれほどに誰もが「自分の結論」に固着するのか、と言えば、それは簡単な話で、私が常に言う「人間は自己愛の動物である」からだ。「自分の結論」は「自分が自分の頭の中で苦労して考え、たどり着いた結論」なのだから、「自分そのものと等価」なのであり、自分の思想(結論)を否定されることは「自分自身を否定されることに等しい」のである。
これが、思想が狂信に至るメカニズムだ。

私は自分自身は愛国者だと思っているが、愛国主義というのがいちばん狂信的になりやすいというのも、そこには「国(あるいは政府)と自分自身の同一化」が起こりやすく、自分の思想を否定されることがそのまま自分を否定されることにつながるからだろう。
まあ、政治思想に限らず、科学者は「科学という神」と自分自身を同一視するのであり、どの世界においても常に「自分の存在基盤を揺るがす者は敵」なのである。狂信の世界では常に理性ではなく感情が支配している。



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