この記事の場合で言えば、戦地での兵士が見た「現実」そのものが、兵士の頭の中のフィルターを経て記録され、その「歪められた現実」が、本の著作者の頭の中のフィルターを経てさらに歪められた現実となって著作化される。それを解題を書いた人によって「真実」に戻そうとする試みが行われ、その一端は成功するが、同時にそれもまた解題を書いた人のフィルターによって歪められたものかもしれないという懸念は確実にあるのである。
そうした幾重もの過程を経て「現実や事実とされるもの」の記録が後の世代に残っていく。
安易に現実や事実についての何かの言説を信じるべきではない、という結論もここからは出るが、しかし人間の認識力や表現力はもともとそういう限界を持っているのであり、そうした「原始的な道具」を使ってここまで人類の文化が発展してきたことは驚異的であるとも言える。要するに、誠実に努力をすれば、そういう原始的な道具を使ってもかなり満足のいく成果は上げられる、ということだ。
(以下「紙屋研究所」から引用)
2017-05-21 戦時の日常はのんきだったか 『「北支」占領』
田宮昌子『「北支占領 その実相の断片 日中戦争従軍将兵の遺品と人生から』
宮崎の「平和の塔」(その実態は「八紘一宇の塔」だけど)前の売店にふらりと立ち寄った時、まったく偶然に手に取った。
「戦況や戦闘ではなく、一見『平穏な日常』と化してさえいた占領の諸側面」を描き、「対象となってこなかった諸側面」を描いているということに興味があったので購入して読んだ。遺品を残したのは、「とりたてて好戦的でも反戦的でもない平凡な個人」(いずれも本書p.22)であるという。したがって、
戦争の大義や従軍への彼らの姿勢と意識は「時代の趨勢」の側に居た大多数の国民や、戦争の遂行にあたった大多数の将兵の意識に繋がるだろう。(本書p.22)
この本は、「北支」すなわち中国北部(華北)を占領した日本軍に将兵として参加した3人の日本人の資料・遺品から占領の日常・実態を読み解こうというものだ。「北支」に派遣された独立混成第四旅団に参加した田宮圭川、山本泉、田村泰次郎の3人である。
この本の読みどころは3つある。
第一に、戦後の戦争批判の洗礼を受けることのない将兵の日常感覚、生活感覚がわかること。
第二に、中国民衆との「対話」「往来性」、つまり侵略をうけた人びととの乖離や対決。
第三に、筆者・田宮昌子と、「解題」を書いた加藤修弘との対決である。
将兵の日常感覚、生活感覚がわかる
第一の点、すなわち戦後の戦争批判の洗礼を受けることのない、戦時のままの将兵の日常感覚、生活感覚がわかる、という点について。占領=侵略をおこなった将兵の感覚と生活、ということである。
圭川のアルバムやそこに書き込まれたメモ。
それを眺めると、占領の日常が驚くほど「のんき」なように見えてくるのだ。
典型的なのが、子どもたちとの交歓だろう。
子どもたちとののどかな写真に加えて、現地人たちの証言が載っている。
日本兵の中には子供の頭を撫でて涙ぐむ人も居た。自分の子供を思い出すんだろう。(日本兵だって)人情もあった(盂県文化研究会13.4.23)。(本書p.114)
実を言えば、兵隊たちの中には子供を可愛がる者が結構いた。ほんとのことだ。(日本兵だって)何もいいとこがなかった訳じゃない(杜修新07.9.5)。(同前)
「日本軍がおこなったことは、残虐でもなく、侵略でもなかった」という「根拠」となりがちなのは、こうした側面をとりあげるからだろう。
侵略をうけた人びととの乖離や対決
第二の点、中国民衆との「対話」「往来性」、つまり侵略をうけた人びととの乖離や対決。
どういうことか。
この本では、アルバムやメモを紹介するだけでなく、実際に現地に行ってみて現在はどうなっているか、どんな土地なのかを確かめるとともに、当時のことを現地人に聞いているのである。
それですぐ「乖離」があらわになるわけではない。
先ほど述べたように、当時少年だった住民たちからは、むしろ日本軍にかわいがられた思い出が出されたりする。
また、「慰安婦」たちとの、これまたのんびりした日常を撮ったスナップも多い。
しかし、こうした写真、メモ、「事実」自体が、いかにもナイーブな解釈であることは、さらにつっこんだ取材や認識の中で明らかにされていく。
たとえば、纏足を撮影されている3人の現地女性の写真がある。
「ものめずらしさ」から撮影したものに違いないが、写真の3人の女性たちの顔はこわばっている。囚人の管理用ポートレートを撮影しているようなカタさなのである。纏足が、当時のある種の中国女性にとって「夫以外の男性には決して布を解いて裸の足を見せることはしない」(p.316)ものであるという認識の弱さ、その「無邪気」な撮影自体が、占領という権力者と被占領という弱者の圧倒的な対照であることを思い知らされる。
また、現地住民は「苦力」として駆り出され、しかし、大人は殴られるものの子どもであれば殴られないので、子どもがよく派遣されたという事実をふまえると、その中での「子どもとの交流」という構図も明らかになる。
都市と農村での体験の差も明らかになる。日本兵が来れば若い男と女は姿を隠してしまい、年寄りと子どもだけが残り日本兵の使役に駆り出される過酷な農村部に対し、
一方で、大隊本部があった盂県城に住んで居た孫賜芹さんは八年近くにわたる占領期に使役を経験していない。「自分は子供で、毎日学校に行っていました」と言う。部隊長の歓送迎式など軍の行事に地元の小学生が動員されてはいるが使役はされていない。旅団司令部があった陽泉でも使役の話は出なかった。都市と農村、あるいは学校に行っているかどうかで状況は違うようだ。(本書p.114)
さらに、「対日協力者」として占領軍(日本軍)の「手先」になって現地統治の尖兵となった人間がどのように現地でその後遇されたか、という問題も興味深い。
ぼくらの予想は、中国共産党政権ができてからは激しく追及されたに違いない、ということなりがちだが、たとえばここに出てくる李宜春という「対日協力者」は、まったく違う。
李は、日本軍による現地傀儡組織「維持会」の会長を務めながら、共産党とも関係をもったとされる。日本軍との良好な関係を保ちつつ、それを利用するという二面性をもつ難しさを生き抜き、戦後も平穏に生活したという。詳しくは書かないが、県の抗日史では「愛国志士」「地下の党組織に派遣された」存在として描かれている。他方で、漢奸として処刑された「対日協力者」もおり、地元民の証言などからすればその地位で悪いことをしたかどうか、特に「血債」、殺人をしたかどうかが大きな分かれ目になっているようだった。
このような事実ひとつをとってみても、例えば「現地人リーダーと良好な関係だったから、暴虐や侵略という事実はなかった」という言説の根拠にはなりえないことがわかる。
圧巻は、李の長女に聞き取りをするために、著者・田宮がインタビューに出かけた時のシーンだ。
長女は、絶対に会わないと憤り、会ったときも現地語でわめきながら、いきなり踊りかかるように著者に詰め寄ってきた。そして、聞き取り中も絶対に田宮に向かい合おうとしない(その写真まで載っている)。解題を書いた加藤が「臨場感と緊迫感に満ちている」「迫真のドキュメンタリー」(本書p.318)と述べているように、この「出会い」の場の迫力に圧倒される。
「解題」執筆者と著者との対決
第三の点、筆者・田宮昌子と、「解題」を書いた加藤修弘との対決とはどういうことか。
実は、少なくともぼくについては、この「解題」を読んで初めて、3人のいた「独立混成第四旅団」の役割、日本軍の戦略・戦術意図がよくわかった。
「解題」はこの本のおわりにまとめて収録されているけれども、むしろ初めから読むべきもので、必読部分である。
特に、「百団大戦」による中国共産党側の反撃によって、日本軍の報復的暴力や、治安再編にともなう暴力が吹き荒れた土地であるという、その背景がよくわかる。
そうした全体像のなかで、アルバムやメモを見ると、その「のんき」さの異様が浮かび上がる。
圭川のアルバム写真やそれに添えられた詞書きを通観するとき、そこには戦場が生みだした悲惨な現実というものがほとんど見えてこない。(本書p.310)
圭川が必死に信じようとした「大東亜共栄」の理想は、戦場の醜い現実によって既に裏切られていた。そのことを知らないままに死んでいったのだとしたら……。圭川だけではなく、この時代の日本の若者たちの膨大な数の死を、「それもまた一つの青春」程度の薄っぺらな一言で片づけては絶対にならない。まして「英霊として国に殉じた」などと歯の浮くような決まり文句で葬り去ってしまうなどもっての外である。私はこの解題をそうした一種の「怒り」に押されて書いた。(本書p.329-330)
圭川と同じ部隊にいた田村泰次郎や、加藤が取材をしてきた(同部隊の)近藤一の批判的な筆致との落差がすごい。(田村の場合は戦後と戦前の落差)
もし圭川が侵略の現実を伝える数々の事実に最後まで気づくことなく、それをただ「懐旧」のアルバムとして残したのだとしたら、圭川が戦場に置いてきた人生とはまるで幽霊のように実体のないものでしかない。(本書p.329、強調は引用者)
ここまでいうか?
「幽霊のように実体のない」人生とされた圭川の肉親・田宮昌子から解題を依頼されながら、なんともすさまじい。まさに、両者は対決しているのである。
「軍靴の音が忍び寄る不安の時代」?
筆者・田宮昌子は、従来の「軍靴の音が忍び寄る不安の時代」という戦前・戦時イメージをはじめは想定し、遺品の行間からその苦悩が読み取れないかと挑んだという。
ところが、そのような苦悩が「存在しなかった」というところまできて「愕然」とする。本書を出すべきなのか? とさえ思ったのだという。
田宮が出した結論は、こうである。
――戦時に懊悩した良心を持つ層は一部であり、大多数は、そうではなく順応してしまった、というものだった。
――戦後は、希望としてその(国民のごく一部である)「良心」の物語を描くことが好まれた。しかし、今は、その「大多数」を知ることの方が重要だったのではないか。
このことは、『この世界の片隅に』の評や、戦前・戦時を評する言葉の中に見られる問題と重なる。つまり「戦争前・戦争しているときは、そんなに暗い時代ではなかった」という話だ。
言い換えればこうである。
暗い時代とは思っていなかった。
しかし、実は暗黒の対外侵略の上にその「平和ボケ」は成り立っており、そのことは自分たちがヤラれはじめるまでは無自覚であり続けた、という危険の構図だ。
田宮は新潟県での戦争別戦没者での「戦死率」が日清戦争0.8%、日露戦争4.4%、満州事変0.4%、日中戦争10.3%で、太平洋戦争で83.6%と壊滅的となることを示して *1、次のように書いている。
泉アルバム〔戦後も生きのびた山本泉のアルバムのこと――引用者注〕には「中国では勝っていた」という表現が何度も登場する。外地において自国兵士の戦士があったとしても、母社会に脅威や破壊をもたらさない戦は厭戦に結びつかないようだ。戦争が他国への一方的で優勢な武力行使に留まる間は社会はむしろ好戦的である。米国の軍事力によって日本本土が悲惨な被害を蒙るまで、戦争や従軍というものに与えられていたこのような社会的位置づけやムードは戦後社会に殆ど伝わっていない。(本書p.252)
この問題は、清沢洌『暗黒日記』で、空襲が激しくなった1945年になって清沢が「昨夜から今晩にかけ3回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない」と書いた上で、「日本国民は、今、初めて『戦争』を経験している」と述べたことと重なる。
『この世界の片隅に』の「危うさ」と魅力
こうした意識で見たとき、「戦時の日常」をそのまま描くことのきわどさ、言い換えると危険性、ナイーブさの問題にも気づく。
『この世界の片隅に』はそのような意味で、圧倒的に「呑気な戦時の日常」と、「空襲被害を受けて気づく戦争」に一つの焦点を当てている。ただし、マンガ者のこうの史代も映画監督の片渕須直もその「ナイーブ」さには気づいていたし、作品としてはまさにそこに一つの意義・魅力がある。*2
『「北支」占領』に戻ろう。
本書は、当時の国民、将兵たち、それがたとえ戦地に出かけている将兵であっても、「のんきでナイーブ」であった可能性を示しているし、同時にそれが実際にはどんな暴力に支えられた「日常」であったかを対決させている、スリリングな一冊である。
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