さて、GHQは、日本占領の初期には、日本を民主化しようという無邪気な善意に溢れていた。その作業の一つが日本国憲法であった。ここで、覚えておくべきことは、憲法は国の法律の根幹ではあるが、実施細則、すなわちその他の法律のほとんどは当時の官僚たちによって作られたということである。さすがのGHQも、そうした法律の細部までいちいちチェックしていたわけではない。そこで、当時の官僚たちは、自分たちの人民への支配権を維持するために、内閣法の中に官僚による法律提案権を忍び込ませた。これは「国会は国の唯一の立法機関である」という日本国憲法に違反するものだが、「提案」くらいならいいだろうと大目に見られたものであろう。しかし、この事が、国の進路を大きく誤らせることになったのである。行政官僚はもともと法律のプロの集団である。昨日まで町の土建屋やテレビタレントであったような国会議員たちが法律作成能力において彼らに太刀打ちできるわけがない。かくして、今では内閣提出の法律案が、議員立法の法案をはるかに圧倒して採用されているのが現実だ。つまりは、日本は三権分立の国ではなく、官僚支配の国なのである。このあたりは、宮元政於の「お役所の掟」と、「お役所のご法度」および、「お役所のご法度」の伊丹十三による解説に詳しい。
ともあれ、形式的には、日本国憲法によって日本国民は天皇の所有物であることから解放され、自由と人権を手に入れたと言っていい。日本国憲法の真の意義はここにあるのである。もちろん、戦前の社会で天皇が国民を奴隷扱いしていたわけではない。しかし、国の主権が君主にあるということは、国民の生殺与奪の権が君主にあるということなのである。つまり、国民すべてが君主の私有物であると言うに等しいのだ。人権と国民主権とは表裏の関係にあるのであり、民主主義以外には人権尊重の思想は無い。君主主権とは、極端に言えば政治の最終決定権が君主にあることであり、現実問題として、君主が自分の都合によって如何様にでも法律を変えられるということなのである。それが主権の本当の意味だ。その君主がいかに慈悲深く賢明な君主であろうとも、君主制は根本的に誤った政治体制なのである。
日本国憲法によって我々は自分の体が自分の物になった。そして、自由と人権が一応は大幅に拡大した。だが、問題は、日本的現実の中で、日本国憲法は実効性を持ちえたかということである。我々は中学校や高校の社会科教科書の中で日本は民主主義国家だと教えられ、日本国憲法によって自由と人権が保障されていると学んできた。しかし、それと同時に、たとえば憲法第九条が自衛隊の存在によって公然と無視されていることを現実から学ぶのである。このことは、法律の根本である憲法が政府によって公然と破られていることを示している。つまり、法律とは守らなくてもいいものだと我々は暗黙のうちに教えられるのである。誰でも、こう思うだろう。政府が率先して法律を破っているのだから、法律というものは守る必要は無いのではないか、と。もちろん、法律を破れば刑罰がある。しかし、見つからないように破るならいいのではないか。その証拠に、道路のスピード制限を守っている車などほとんど存在しないではないか。見つかって罰を受けるのは運の悪い人間であり、みんな法律など破っているのだ。政治家の選挙違反にしても捕まるのはライバル政治家の策謀によるものであり、みんな選挙法違反はしているのだ。これが、日本人の大半の法意識だろう。
このような法意識を持った人間の集合が法治国家になるはずはない。かくして日本は権威に対する信頼も無く、法律を自主的に守ろうという姿勢も無い、前代未聞のアモラル(無道徳)な社会となったのである。このような社会では自分を守るのは自分しか無い。そして、資本主義社会においての力とは金である。とすれば、小学生から老人に至るまで金の獲得に目の色を変える拝金社会となるしかないだろう。
これははたして「民主主義」の結果なのだろうか。けっしてそうは言えないはずである。日本社会の無道徳さは、官僚、政治家、財界人、マスコミ関係者ら社会のトップたちのこの五十何年間の無道徳さを見習ったものでしかない。民主主義とは何の関係も無いものだ。
国民の大半は、日本が動かしがたい階級社会であることを薄々感じており、そのほとんどの人間は、どのようにあがいても社会の中流以上には行けないことを感じている。その意識は特に青少年に強いだろう。学業優秀な一部の生徒は、まだ学歴競争の勝者になることを夢見て素直に努力するだろうが、国民の大半を占める凡人たちはどう生きていけばいいというのだろうか。為政者たちは彼らに果たして希望ある未来を示すことができるだろうか。現在では、もはやどんな人間でも努力次第で才能を身につけることができるなどという御伽噺を信じている青少年はいないだろう。その御伽噺を信じているのは一部の聖人君子的(または白痴的)教育関係者だけである。何の才能も無い人間でも、善良な人間なら幸福な人生を送ることができるということを果たして政府は約束できるだろうか。できるはずはない。なぜなら、資本主義社会とは冷酷な競争社会だからである。善良さによっては現代社会は生きてはいけない。善良なだけで、単純労働しかできない人間なら、ロボットに変えた方が経営者にとっては有利だろう。つまり、凡人に未来は無い。その一方では、一部の人間が時流に乗るだけで巨額の金を稼ぎ出す、現代はそういう時代である。様々なコマーシャルで欲望は肥大し、しかし、自ら金を稼ぐ才覚は無いという無数の人間を日々に生み出しているのが現代社会である。これで犯罪者の数が幾何級数的に増えないほうがおかしいだろう。
しかし、この状況を変えることがまったく不可能なわけでは無い。まずは日本の表向きの「民主主義」と、その底流に流れる「皇国思想」の現実を見抜くことである。あるいは、人間を産業奴隷としてしか扱わない資本主義の現実を見ることである。賢い人々なら、この現実の誤りに気づけばいくらでも改善の方法を提出してくれるだろう。官僚や政治家の中にもそういう優秀な人間はたくさんいるはずだ。今の彼らはけっして認めないだろうが、現在の日本の道徳的荒廃は、民主主義の結果などではなく、「資本主義」あるいは、それまでの政治を変えることを望まない強力な社会システムの結果なのである。そもそも、現実に問題があるならば、その責任は政権担当党と行政担当者にあるはずである。それはつまり、保守政党と保守政権による内閣ではないか。いったい、これまで本当には実現されてもこなかった「民主主義」に何の責任があるというのか。
ともあれ、形式的には、日本国憲法によって日本国民は天皇の所有物であることから解放され、自由と人権を手に入れたと言っていい。日本国憲法の真の意義はここにあるのである。もちろん、戦前の社会で天皇が国民を奴隷扱いしていたわけではない。しかし、国の主権が君主にあるということは、国民の生殺与奪の権が君主にあるということなのである。つまり、国民すべてが君主の私有物であると言うに等しいのだ。人権と国民主権とは表裏の関係にあるのであり、民主主義以外には人権尊重の思想は無い。君主主権とは、極端に言えば政治の最終決定権が君主にあることであり、現実問題として、君主が自分の都合によって如何様にでも法律を変えられるということなのである。それが主権の本当の意味だ。その君主がいかに慈悲深く賢明な君主であろうとも、君主制は根本的に誤った政治体制なのである。
日本国憲法によって我々は自分の体が自分の物になった。そして、自由と人権が一応は大幅に拡大した。だが、問題は、日本的現実の中で、日本国憲法は実効性を持ちえたかということである。我々は中学校や高校の社会科教科書の中で日本は民主主義国家だと教えられ、日本国憲法によって自由と人権が保障されていると学んできた。しかし、それと同時に、たとえば憲法第九条が自衛隊の存在によって公然と無視されていることを現実から学ぶのである。このことは、法律の根本である憲法が政府によって公然と破られていることを示している。つまり、法律とは守らなくてもいいものだと我々は暗黙のうちに教えられるのである。誰でも、こう思うだろう。政府が率先して法律を破っているのだから、法律というものは守る必要は無いのではないか、と。もちろん、法律を破れば刑罰がある。しかし、見つからないように破るならいいのではないか。その証拠に、道路のスピード制限を守っている車などほとんど存在しないではないか。見つかって罰を受けるのは運の悪い人間であり、みんな法律など破っているのだ。政治家の選挙違反にしても捕まるのはライバル政治家の策謀によるものであり、みんな選挙法違反はしているのだ。これが、日本人の大半の法意識だろう。
このような法意識を持った人間の集合が法治国家になるはずはない。かくして日本は権威に対する信頼も無く、法律を自主的に守ろうという姿勢も無い、前代未聞のアモラル(無道徳)な社会となったのである。このような社会では自分を守るのは自分しか無い。そして、資本主義社会においての力とは金である。とすれば、小学生から老人に至るまで金の獲得に目の色を変える拝金社会となるしかないだろう。
これははたして「民主主義」の結果なのだろうか。けっしてそうは言えないはずである。日本社会の無道徳さは、官僚、政治家、財界人、マスコミ関係者ら社会のトップたちのこの五十何年間の無道徳さを見習ったものでしかない。民主主義とは何の関係も無いものだ。
国民の大半は、日本が動かしがたい階級社会であることを薄々感じており、そのほとんどの人間は、どのようにあがいても社会の中流以上には行けないことを感じている。その意識は特に青少年に強いだろう。学業優秀な一部の生徒は、まだ学歴競争の勝者になることを夢見て素直に努力するだろうが、国民の大半を占める凡人たちはどう生きていけばいいというのだろうか。為政者たちは彼らに果たして希望ある未来を示すことができるだろうか。現在では、もはやどんな人間でも努力次第で才能を身につけることができるなどという御伽噺を信じている青少年はいないだろう。その御伽噺を信じているのは一部の聖人君子的(または白痴的)教育関係者だけである。何の才能も無い人間でも、善良な人間なら幸福な人生を送ることができるということを果たして政府は約束できるだろうか。できるはずはない。なぜなら、資本主義社会とは冷酷な競争社会だからである。善良さによっては現代社会は生きてはいけない。善良なだけで、単純労働しかできない人間なら、ロボットに変えた方が経営者にとっては有利だろう。つまり、凡人に未来は無い。その一方では、一部の人間が時流に乗るだけで巨額の金を稼ぎ出す、現代はそういう時代である。様々なコマーシャルで欲望は肥大し、しかし、自ら金を稼ぐ才覚は無いという無数の人間を日々に生み出しているのが現代社会である。これで犯罪者の数が幾何級数的に増えないほうがおかしいだろう。
しかし、この状況を変えることがまったく不可能なわけでは無い。まずは日本の表向きの「民主主義」と、その底流に流れる「皇国思想」の現実を見抜くことである。あるいは、人間を産業奴隷としてしか扱わない資本主義の現実を見ることである。賢い人々なら、この現実の誤りに気づけばいくらでも改善の方法を提出してくれるだろう。官僚や政治家の中にもそういう優秀な人間はたくさんいるはずだ。今の彼らはけっして認めないだろうが、現在の日本の道徳的荒廃は、民主主義の結果などではなく、「資本主義」あるいは、それまでの政治を変えることを望まない強力な社会システムの結果なのである。そもそも、現実に問題があるならば、その責任は政権担当党と行政担当者にあるはずである。それはつまり、保守政党と保守政権による内閣ではないか。いったい、これまで本当には実現されてもこなかった「民主主義」に何の責任があるというのか。
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