世の中の二重規範、つまり本音と建前、あるいは教科書的記述と現実社会との相克によってもっとも苦しむのは青少年たちである。
公害や、過労死や、兵器の在庫整理のための戦争に見られる、利益のためには無数の人命も平気で犠牲にし、人間を使い捨てにする社会の現実と、教育関係者を中心とする口先だけのヒューマニズム。このような社会の偽善を鋭く感じた青少年は、しかし自らの思考を言語化し、表明する能力は無い。彼らのやり場の無い苛立ちは、様々な破壊的行為となって顕れるしかないのである。もちろん、破壊行為の大半は、単なる幼児的欲望を満たそうという衝動であり、同情には値しない。しかし、その心理の背景には確かに社会の病理があるのである。
現代における教育の荒廃は、産業のための選抜試験にすぎない大学入試だけを目的としたその教育内容の無内容さへの反抗であると同時に、自分たちは資本主義社会、あるいは現体制の歯車か敗者となるしか無い事を鋭く予感した子供たちの、無意識の絶望の顕れでもある。もしもあなたが成績劣等生だったとしたら、今の教育体制の中でどのように充実した生活が送れるだろうか。そして、何の才能も無い人間にとって、あえて法律を無視して生きる以外に、今の社会の中で成功するどんな手段があるだろうか。そうした想像力も無しに、今の教育を論じるのは不毛でしかないだろう。もう一度繰り返すが、才能の無い人間でも、善良な人間なら真面目に生きても報われる、そういう社会の現実的なプログラムを示さない限り、今の社会の荒廃は救えないということなのである。そういうプログラムが現在の資本主義社会の枠組みの中で可能なのだろうか。私は、それは不可能だと考えている。これを変えるには、資本主義とも共産主義とも異なる社会システムが必要である。この事については第三章で論ずるつもりである。
Ⅲ 抑圧された秩序と秩序無き自由
この章では、第一章で提出した問題、すなわち、抑圧された秩序と秩序無き自由のいずれを我々は選ぶべきか、あるいはその両者を止揚する道があるのかについての答を出すつもりである。いや、ここまで書かれた内容から、その答はすでに予想されているだろう。日本が真の民主主義国家になることがその答である。しかし、それは政治体制の話であり、社会システムは政治と経済と文化の複合体である。そして、政治と文化はむしろ経済に従属して決まってくるものだ、というのはマルクスの述べた通りだろう。では、いかなる経済システムをとるべきか。これまでのように資本主義と共産主義しか選択の道が無いという状況では、明らかに資本主義しか選択の道は無い。なぜなら、人間の労働にはインセンティブ(誘因)が必要であり、それは基本的には労働に見合う報酬以外には無い。しかし、私有財産の許されない共産主義では、そのインセンティブが無いからである。かつては労働自体の与える喜びという間抜けな御伽噺を共産主義者は謳っていたが、労働など苦痛以外の何物でもないことなど、幼児でも知っていることだ。労働が苦痛でないのは、自ら望んで行なう労働だけであり、食うための仕事にはそんな物など無い。従って、共産主義とは、労働の義務だけがあって報酬は無いという哀れな経済システムであることになるのである。もちろん、まったく報酬が無いわけではないが、私有財産が許されない以上、その場で使える以上の報酬は無意味である。つまりは働いても働かなくても同じことであり、そんな社会で真面目に働く人間など存在しないだろう。いるとすれば、それは労働以外のインセンティブ、すなわちマイナスのインセンティブである刑罰の存在によるものである。かくして共産主義社会は「収容所群島」となるしかないわけだ。
もちろん、現実には共産主義が実現された国は無く、生産手段は国有化するが、私有財産は認めるという社会主義国家がこれまで存在しただけである。しかし、以上に述べたことから見ても、世界は社会主義から共産主義に移行するというマルクスの予言はまったくのナンセンスであることが分かるだろう。むしろ社会の現実は、一度は社会主義革命を経験した国々が、資本主義経済体制に移行するのが歴史の流れであることを示している。
しかし、その事が、資本主義の優越を示すものではないということを、もう一度言っておく。資本主義は確かに人間性の本質に基づいて人間を労働に向かわせるシステムである。資本主義国家の繁栄、経済的勝利は、ただその一点によるものだ。しかし、それは同時に人間性を荒廃させるシステムでもあることは、前の二章に述べた通りである。すなわち、共産主義を一種の理想主義、資本主義を現実主義ととらえるなら、現在の世界は、理想が現実の前に敗れ去った状況なのである。しかし、理想無き社会は「理想的な社会」であろうか。
再度言うが、人間社会とは言っても、生活のための闘争や競争から免れることはありえない。その意味で、競争原理に基づく社会である資本主義社会は、人間を貧相な揺り籠の中で育てようとする共産主義社会よりははるかに現実的である。そして資本主義社会においては、幸運に恵まれれば、このうえない贅沢が味わえるだろう。すなわち、アメリカン・ドリームとは、資本主義社会の夢なのである。人々はその夢によって営々と働き続け、そしてやがて自分が無数の敗北者の一人でしかないことを知る。そして彼らの労働が一部の勝利者の贅沢な生活を可能にするのである。もちろん、ここには別の要素があり、それは技術革新によって社会全体の生産性が上がり、それによって底辺の人民の生活すらも底上げされていくということである。それはしかも、資本主義社会にだけ起こりうることなのである。なぜなら、前述したように社会主義国家や共産主義国家には労働のインセンティブが無い以上、技術革新のインセンティブも無いと見るのが当然だからである。誰が、何の報酬も無いのに、発明や発見に知恵を絞るはずがあるだろうか。
そのように、資本主義の優越性を認めた上で、なおも私は、現在の資本主義は誤った社会システムであり、今の資本主義社会においては、人々はけっして本当には幸福には成り得ないと言う。それは、今の資本主義社会が無数の敗残者を作り出し、無数の弱者を不幸にしているからである。人間社会は弱肉強食のジャングルであってはならない、人間の理性は、人間を野獣以上の存在とするために用いられねばならない。別の言い方をすれば、弱者や不運な人間でも、ある程度の幸福が約束される社会を、人間は作り上げることができるはずである。「世界が全体幸福にならないうちは、個人が幸福になることはありえない」という宮沢賢治の言葉は、単なる甘ったるいヒューマニズムではない。それが可能だと信じ、正しい方向に進んでいけば、いつかは実現できる理想なのである。
では、資本主義でも無く、社会主義や共産主義でもない、もう一つの道はあるのだろうか。私は、あると思う。それは、あまりにも簡単すぎる道である。その道とは、私有財産に上限を設けることである。その上限は、人間が豊かに暮らすには十分だが、それ以上を持つことは無意味だという程度である。年収で言えば二千万円くらいが今の日本での上限でいいだろう。ただし、この場合、住宅建設費用が国民の平均年収相応に下がることが必要であり、また、老後の保障や病気・災害の保障が完備されていることが条件である。さらに加えれば、自分の家族への遺産寄贈はほとんど認める必要は無い。ある限度以上の遺産は国が没収して、これから社会に出て行く青年全体に配分すれば良い。つまり、出発時点の不平等を無くした上での競争社会にすればいいのである。
もしもこれでは労働のインセンティブとして不十分だとするなら、三千万円くらいを上限としてもいいが、普通の人間が普通に生きていくのに、それ以上必要なはずはない。まして、社会保障が十分な社会なら、それ以下でも十分に満足して生きられるはずである。年収二千万や三千万では、確かにゴッホの絵を買ったり、フェラーリに乗ったりすることはできないかもしれない。従って、単にステイタスシンボルとしての贅沢品を作る産業は衰退するだろう。しかし、ゴッホの絵は何億円もするだろうが、ゴッホは生きている時何億円も稼いだだろうか。いや、真の芸術家の多くは、資本主義社会でむしろ冷遇され不幸な一生を送ったのである。そもそも、大衆車とフェラーリの間に何百倍もの価値の差があると本当に言えるのだろうか。カシオの腕時計もローレックスも、時間を刻む性能の点では何も違いはない。資本主義社会の物の値段など、幾つかの情報操作と虚栄心の産物でしかないのである。そうした虚栄心の代償が、この社会の無数の悲惨と不幸ならば、誰がそれを捨てることを嫌がるだろうか。もちろん、「俺が一杯の紅茶を飲むためならば、世界が滅びようがかまうものか」というドストエフスキーの「地下生活者」の言葉は、あらゆる人間の心理を代弁しているだろう。しかし、それと同時に、人間には少しでも世の中全体の幸福の増進に役立ちたいという願いもあるのである。
さて、以上で、「抑圧された秩序」と「秩序無き自由」のどちらを選ぶべきかという問いには答えたつもりである。答えは、「どちらでもない第三の道、秩序ある自由を選ぼうではないか」ということである。多くの人は、これを只の夢想と思うかもしれない。しかし、ジョン・レノンの「イマジン」に言うように、「いつか君がぼくと一緒になるなら」それは夢ではなくなるだろ
公害や、過労死や、兵器の在庫整理のための戦争に見られる、利益のためには無数の人命も平気で犠牲にし、人間を使い捨てにする社会の現実と、教育関係者を中心とする口先だけのヒューマニズム。このような社会の偽善を鋭く感じた青少年は、しかし自らの思考を言語化し、表明する能力は無い。彼らのやり場の無い苛立ちは、様々な破壊的行為となって顕れるしかないのである。もちろん、破壊行為の大半は、単なる幼児的欲望を満たそうという衝動であり、同情には値しない。しかし、その心理の背景には確かに社会の病理があるのである。
現代における教育の荒廃は、産業のための選抜試験にすぎない大学入試だけを目的としたその教育内容の無内容さへの反抗であると同時に、自分たちは資本主義社会、あるいは現体制の歯車か敗者となるしか無い事を鋭く予感した子供たちの、無意識の絶望の顕れでもある。もしもあなたが成績劣等生だったとしたら、今の教育体制の中でどのように充実した生活が送れるだろうか。そして、何の才能も無い人間にとって、あえて法律を無視して生きる以外に、今の社会の中で成功するどんな手段があるだろうか。そうした想像力も無しに、今の教育を論じるのは不毛でしかないだろう。もう一度繰り返すが、才能の無い人間でも、善良な人間なら真面目に生きても報われる、そういう社会の現実的なプログラムを示さない限り、今の社会の荒廃は救えないということなのである。そういうプログラムが現在の資本主義社会の枠組みの中で可能なのだろうか。私は、それは不可能だと考えている。これを変えるには、資本主義とも共産主義とも異なる社会システムが必要である。この事については第三章で論ずるつもりである。
Ⅲ 抑圧された秩序と秩序無き自由
この章では、第一章で提出した問題、すなわち、抑圧された秩序と秩序無き自由のいずれを我々は選ぶべきか、あるいはその両者を止揚する道があるのかについての答を出すつもりである。いや、ここまで書かれた内容から、その答はすでに予想されているだろう。日本が真の民主主義国家になることがその答である。しかし、それは政治体制の話であり、社会システムは政治と経済と文化の複合体である。そして、政治と文化はむしろ経済に従属して決まってくるものだ、というのはマルクスの述べた通りだろう。では、いかなる経済システムをとるべきか。これまでのように資本主義と共産主義しか選択の道が無いという状況では、明らかに資本主義しか選択の道は無い。なぜなら、人間の労働にはインセンティブ(誘因)が必要であり、それは基本的には労働に見合う報酬以外には無い。しかし、私有財産の許されない共産主義では、そのインセンティブが無いからである。かつては労働自体の与える喜びという間抜けな御伽噺を共産主義者は謳っていたが、労働など苦痛以外の何物でもないことなど、幼児でも知っていることだ。労働が苦痛でないのは、自ら望んで行なう労働だけであり、食うための仕事にはそんな物など無い。従って、共産主義とは、労働の義務だけがあって報酬は無いという哀れな経済システムであることになるのである。もちろん、まったく報酬が無いわけではないが、私有財産が許されない以上、その場で使える以上の報酬は無意味である。つまりは働いても働かなくても同じことであり、そんな社会で真面目に働く人間など存在しないだろう。いるとすれば、それは労働以外のインセンティブ、すなわちマイナスのインセンティブである刑罰の存在によるものである。かくして共産主義社会は「収容所群島」となるしかないわけだ。
もちろん、現実には共産主義が実現された国は無く、生産手段は国有化するが、私有財産は認めるという社会主義国家がこれまで存在しただけである。しかし、以上に述べたことから見ても、世界は社会主義から共産主義に移行するというマルクスの予言はまったくのナンセンスであることが分かるだろう。むしろ社会の現実は、一度は社会主義革命を経験した国々が、資本主義経済体制に移行するのが歴史の流れであることを示している。
しかし、その事が、資本主義の優越を示すものではないということを、もう一度言っておく。資本主義は確かに人間性の本質に基づいて人間を労働に向かわせるシステムである。資本主義国家の繁栄、経済的勝利は、ただその一点によるものだ。しかし、それは同時に人間性を荒廃させるシステムでもあることは、前の二章に述べた通りである。すなわち、共産主義を一種の理想主義、資本主義を現実主義ととらえるなら、現在の世界は、理想が現実の前に敗れ去った状況なのである。しかし、理想無き社会は「理想的な社会」であろうか。
再度言うが、人間社会とは言っても、生活のための闘争や競争から免れることはありえない。その意味で、競争原理に基づく社会である資本主義社会は、人間を貧相な揺り籠の中で育てようとする共産主義社会よりははるかに現実的である。そして資本主義社会においては、幸運に恵まれれば、このうえない贅沢が味わえるだろう。すなわち、アメリカン・ドリームとは、資本主義社会の夢なのである。人々はその夢によって営々と働き続け、そしてやがて自分が無数の敗北者の一人でしかないことを知る。そして彼らの労働が一部の勝利者の贅沢な生活を可能にするのである。もちろん、ここには別の要素があり、それは技術革新によって社会全体の生産性が上がり、それによって底辺の人民の生活すらも底上げされていくということである。それはしかも、資本主義社会にだけ起こりうることなのである。なぜなら、前述したように社会主義国家や共産主義国家には労働のインセンティブが無い以上、技術革新のインセンティブも無いと見るのが当然だからである。誰が、何の報酬も無いのに、発明や発見に知恵を絞るはずがあるだろうか。
そのように、資本主義の優越性を認めた上で、なおも私は、現在の資本主義は誤った社会システムであり、今の資本主義社会においては、人々はけっして本当には幸福には成り得ないと言う。それは、今の資本主義社会が無数の敗残者を作り出し、無数の弱者を不幸にしているからである。人間社会は弱肉強食のジャングルであってはならない、人間の理性は、人間を野獣以上の存在とするために用いられねばならない。別の言い方をすれば、弱者や不運な人間でも、ある程度の幸福が約束される社会を、人間は作り上げることができるはずである。「世界が全体幸福にならないうちは、個人が幸福になることはありえない」という宮沢賢治の言葉は、単なる甘ったるいヒューマニズムではない。それが可能だと信じ、正しい方向に進んでいけば、いつかは実現できる理想なのである。
では、資本主義でも無く、社会主義や共産主義でもない、もう一つの道はあるのだろうか。私は、あると思う。それは、あまりにも簡単すぎる道である。その道とは、私有財産に上限を設けることである。その上限は、人間が豊かに暮らすには十分だが、それ以上を持つことは無意味だという程度である。年収で言えば二千万円くらいが今の日本での上限でいいだろう。ただし、この場合、住宅建設費用が国民の平均年収相応に下がることが必要であり、また、老後の保障や病気・災害の保障が完備されていることが条件である。さらに加えれば、自分の家族への遺産寄贈はほとんど認める必要は無い。ある限度以上の遺産は国が没収して、これから社会に出て行く青年全体に配分すれば良い。つまり、出発時点の不平等を無くした上での競争社会にすればいいのである。
もしもこれでは労働のインセンティブとして不十分だとするなら、三千万円くらいを上限としてもいいが、普通の人間が普通に生きていくのに、それ以上必要なはずはない。まして、社会保障が十分な社会なら、それ以下でも十分に満足して生きられるはずである。年収二千万や三千万では、確かにゴッホの絵を買ったり、フェラーリに乗ったりすることはできないかもしれない。従って、単にステイタスシンボルとしての贅沢品を作る産業は衰退するだろう。しかし、ゴッホの絵は何億円もするだろうが、ゴッホは生きている時何億円も稼いだだろうか。いや、真の芸術家の多くは、資本主義社会でむしろ冷遇され不幸な一生を送ったのである。そもそも、大衆車とフェラーリの間に何百倍もの価値の差があると本当に言えるのだろうか。カシオの腕時計もローレックスも、時間を刻む性能の点では何も違いはない。資本主義社会の物の値段など、幾つかの情報操作と虚栄心の産物でしかないのである。そうした虚栄心の代償が、この社会の無数の悲惨と不幸ならば、誰がそれを捨てることを嫌がるだろうか。もちろん、「俺が一杯の紅茶を飲むためならば、世界が滅びようがかまうものか」というドストエフスキーの「地下生活者」の言葉は、あらゆる人間の心理を代弁しているだろう。しかし、それと同時に、人間には少しでも世の中全体の幸福の増進に役立ちたいという願いもあるのである。
さて、以上で、「抑圧された秩序」と「秩序無き自由」のどちらを選ぶべきかという問いには答えたつもりである。答えは、「どちらでもない第三の道、秩序ある自由を選ぼうではないか」ということである。多くの人は、これを只の夢想と思うかもしれない。しかし、ジョン・レノンの「イマジン」に言うように、「いつか君がぼくと一緒になるなら」それは夢ではなくなるだろ
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