これからの正義を語ろう、などと言うと時流便乗めいた言葉になるが、あの「ハーバード白熱授業」が本当に人々が「正義」について考えるきっかけとなれば、それはいいことだ。しかし、それが「イチローの年棒がオバマ大統領の年棒より高いのは不正義だ」というレベルの話なら、こんなにくだらないものはない。この両者の仕事はまったく別の仕事であり、異なる仕事に対して価値の比較はできない、というのがこの問題の答えだからだ。もちろん、それに気づかせるための設問ならば良い質問だということになる。この問題に対して「不正義だ」と答えた東大の女子学生の頭の悪さが世間に知られたのは可哀そうな事であり、だから公開授業というのは危険なのである。
もしもさらにあの質問が、資本主義の根幹が「仕事の価値評価」にあり、その「価値評価」はほとんどが評価する人間の主観や便宜にすぎないのだ、という資本主義批判にまで踏み込んでいたら、それは素晴らしい問題提起になっただろうが、資本主義の牙城であり、資本家の走狗であるハーバード大学の教授がそんなことをやるはずはない。日本の官僚がハーバード大に留学することで米国の召使に改造されることはよく知られたことだ。
前置きが長くなったので、「これからの正義」についてはポイントだけ述べることにする。
まず、正義は「誰にとっての正義か」が第一の問題である。正義もまた主観的なものにすぎないということが多くの人に知られるようになってきたが、だからといって正義そのものを否定するのは短絡的というものだ。そこで、「客観性のある正義」という意味で「公正」(フェアネス)という概念を用意しよう。
次に、公正を実現する条件として「平等選択」という概念を考える。つまり、「自由」であるとは何かに関して「選択できる」ということなのだが、現代の社会は「見せかけの選択可能性」ばかりなのである。就職にせよ大学受験にせよ、平等なのはうわべだけにすぎない。たとえばマスコミ志望の若者が電通に就職したいとか放送局に勤めたいと思っても、そこがコネ入社しか存在しない世界だというのは社会の裏常識だ。一事が万事であり、この社会に本当の選択可能性などほとんど無い。あなたが病気になったら、あなたは医者の指示に従うしかないのであり、選択可能性などほとんど無い。あなたの家族が死んだら、あなたは「社会の圧力」のもとに、決められた葬儀をするしかないのである。最後の例はまあ、自分の意思で変えることはある程度可能だから例としては不適切だが、我々の社会はけっして「自由な社会」ではないし、「選択において平等」ではないのである。
以上の「公正」と「平等選択」をキーワードにしてこれからの正義について考えてみたい。
もしもさらにあの質問が、資本主義の根幹が「仕事の価値評価」にあり、その「価値評価」はほとんどが評価する人間の主観や便宜にすぎないのだ、という資本主義批判にまで踏み込んでいたら、それは素晴らしい問題提起になっただろうが、資本主義の牙城であり、資本家の走狗であるハーバード大学の教授がそんなことをやるはずはない。日本の官僚がハーバード大に留学することで米国の召使に改造されることはよく知られたことだ。
前置きが長くなったので、「これからの正義」についてはポイントだけ述べることにする。
まず、正義は「誰にとっての正義か」が第一の問題である。正義もまた主観的なものにすぎないということが多くの人に知られるようになってきたが、だからといって正義そのものを否定するのは短絡的というものだ。そこで、「客観性のある正義」という意味で「公正」(フェアネス)という概念を用意しよう。
次に、公正を実現する条件として「平等選択」という概念を考える。つまり、「自由」であるとは何かに関して「選択できる」ということなのだが、現代の社会は「見せかけの選択可能性」ばかりなのである。就職にせよ大学受験にせよ、平等なのはうわべだけにすぎない。たとえばマスコミ志望の若者が電通に就職したいとか放送局に勤めたいと思っても、そこがコネ入社しか存在しない世界だというのは社会の裏常識だ。一事が万事であり、この社会に本当の選択可能性などほとんど無い。あなたが病気になったら、あなたは医者の指示に従うしかないのであり、選択可能性などほとんど無い。あなたの家族が死んだら、あなたは「社会の圧力」のもとに、決められた葬儀をするしかないのである。最後の例はまあ、自分の意思で変えることはある程度可能だから例としては不適切だが、我々の社会はけっして「自由な社会」ではないし、「選択において平等」ではないのである。
以上の「公正」と「平等選択」をキーワードにしてこれからの正義について考えてみたい。
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