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徽宗皇帝のブログ

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「保守とリベラル」「保守と革新」
「混沌堂主人雑記(旧題)」に載っていた東浩紀の文章の一部で、私は東という人間を(何となくだが)あまり信頼していないし、ここに書かれた内容の後半にも不同意だが、思考のヒント(補助線)になりそうなところを感じるので、メモ的に保存しておく。
前半部にある、「日本の、保守とリベラルの捉え方の違いは、アメリカの共和党と民主党の表面的相違を鵜呑みにした、いい加減なものである(徽宗によるいい加減な要約)」というのは、かなり見事な指摘であると思う。(東本人の考えではないが)

言うまでもないが、「日本の保守=アメリカの共和党」とか「日本の野党=アメリカの民主党」となるわけがないが、なぜか日本人は非理性的判断で、つまり悪い意味で感覚的にそう思い込んでいるわけだ。そして、アメリカの共和党と民主党が実質的には(ほぼ)同じ、というのはアメリカ政治の有様を見慣れた人には常識だろう。
ただ、アメリカと日本で似ているところはあり、それは「保守とは『持てる者』の思想である」ということだ。つまり。保守は上級国民の利益(権益)保護に動くのが普通である、ということだ。とすれば、社会の7割くらいが貧困化の一途をたどっている日本で自民党の支持率がゼロに近づいているのは当然だろう。
ちなみに私は「尊皇主義」だから、文化的保守主義であり、「社会主義」支持者だから、政治的革新主義である。なお、社会主義と共産主義はまったく違うという考えである。これは、少し前までは常識だったはずだが、今では「非常識」になっているようだ。まあ、そうなるようにDSが推し進めてきたのだろう。
簡単に言えば、社会主義は各階層の(主に社会的権利においての)平等化を目指す思想(たとえばファビアン協会のように、議会政治を通じて弱者救済を漸進的に進める思想)であり、共産主義とはそれを極端化し、「資産の平等」まで進める、異常な(実現不可能な)思想である。

山川出版社の「政治・経済用語集」での社会主義の定義は次のようなものである。社会主義が共産主義の前段階であるというのはマルクスやエンゲルスの勝手な思想にすぎない。

社会主義:資本主義を批判し、生産手段の社会的所有に基づいて、人間の平等を可能にする未来社会の建設を目指す理論と運動のこと。理論を体系化したものを社会主義思想という。

ちなみに、ファビアン(フェビアン)協会は次のような思想の集団で、H・G・ウェルズやB・ラッセルなど、当時の著名人の参加者も多かった。

このグループは革命的ではなく、むしろ緩やかな変革を志向(社会改良主義)していた。このように、漸進的な社会変革によって教条主義マルクス主義に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。




(以下引用)
保守とリベラルの対立は「右」と「左」の対立に重ねて理解されることが多い。とりわけネットではそのように理解されている。思想史的にはその用法は正しくない。
 保守は「革新」と対立し、社会変革への消極的な態度を示す言葉である。他方でリベラルは「自由」という意味の言葉で、個人と社会の関係を示している。それゆえ保守とリベラルは本来は対立しない。たとえば、個人の自由を重んじるがゆえに、逆に社会の急進的な変革に慎重だという立場は十分にありうる。その場合はリベラルな保守主義者ということになる。
アメリカの保守とリベラルとの違い
 にもかかわらず、なぜいまの日本では保守とリベラルが対立して理解されているのだろうか。そこにはねじれた経緯がある。政治学者の宇野重規は『日本の保守とリベラル』と題された著作で、次のような説明を与えている。
 保守とリベラルの対立はそもそもアメリカのものである。アメリカの二大政党制では、共和党は「保守」で、民主党は「リベラル」だとされている。ではアメリカでなぜその対立が有効に機能したかといえば、それは、同国では、いわゆる「左」、すなわち共産主義や社会主義が政治的な力をもつことがなかったからである。
 アメリカでは、皆がリベラリズムを支持しているという前提のうえで、古典的なリベラリズムを守る側が「保守」、現代的なリベラリズムを推進する側が「リベラル」だという独特の差異化が成立した。他方で冷戦期のヨーロッパでは、政治はまずはリベラリズムと共産主義の対立によって、つまり右と左の対立によって語られていた。日本はこの点では、アメリカよりヨーロッパにはるかに近かった。
日本の保守とリベラルは便利なレッテル
 ところが厄介なことに、冷戦構造が崩壊し、「左」の存在感がなくなった1990年代以降、日本でも、皆がリベラリズムを支持しているという前提が曖昧なまま、その保守とリベラルの対立が新たな政治の軸として輸入されることになってしまった。
 結果として、宇野も指摘するように、アメリカ式に保守とリベラルを対立させてはいるものの、実態は「かつての看板だけを替えたものであり、今もなお本質的には『右(保守)』と『左(革新)』の対抗図式が持続していると捉えることも可能」な状況が生まれてしまった(※宇野重規『日本の保守とリベラル』、中公選書、2023年、17頁)。いま日本の若い世代がリベラルと左派をほぼ同義で用いるのはこのためだ。
 以上の経緯からわかるように、いまの日本における保守とリベラルの対立は、じつは保守主義やリベラリズムの実質とはあまり関係がない。かといって冷戦時代の左右対立がそのまま引き継がれているわけでもない。
 ではそれはなにを意味しているのかといえば、両者はじつは、いま人々が漠然と感覚している、政治や社会へのふたつの異なった態度への便利なレッテルでしかなくなっているのではないか。
 宇野は別の著作で次のように指摘している。
「あえていえば、仲間との関係を優先する立場が保守と、普遍的な連帯を主張する立場がリベラルと親和性をもつといえる。このことは、政治において、共同体の内部における『コモン・センス(共通感覚)』を重視するか、あるいは、自由で平等な個人の間の相互性を重視するかという違いとも連動し、今後の社会を論じていく上での有力な対立軸となるであろう」(※宇野重規『保守主義とは何か』、中公新書、2016年、204―205頁 一部省略)
 この規定は簡潔だが的を射ている。冷戦が終わってすでに30年以上が経っている。共産主義は実質的に終わっている。確かに書店の人文書の棚には、資本主義は終わる、共産主義には未来があるとうたった本がいまだに並んでいる。けれどもだれもそれが具体的な政策につながる言葉だとは信じていない。かつての左右対立は機能していない。そもそも保守と社会変革も対立していない。
 いまの日本では、むしろ保守勢力こそが社会制度の改革を進めている。逆にリベラルは、護憲に代表されるように、しばしば「保守的」な主張をしている。
 ではどこに保守とリベラルの対立の淵源を求めるべきかといえば、もはやそれは連帯の範囲の差異ぐらいにしか現れていないのではないか。ぼくの考えでは、それが宇野が指摘していることである。

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