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徽宗皇帝のブログ

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「公営」を否定し「民営」を賛美する思想の愚
「(前大田区区議会議員)奈須りえ」オフィシャルブログから記事の後半を転載。
前半を略したが、下の記事中の(1)~(3)とは、「国家戦略特区」の問題点、と思ってもらえばいいだろう。記事前半はやや専門的な話題かと思うので割愛した。後半部分は「公」の仕事を「民」に委託あるいは譲渡することの問題点という根本問題なので誰にでも理解しやすい。

要するに、まず民営化の段階で、「税金による果実が不正に私企業に渡される」、そして、いったん民営化された後は、その企業はほとんど独占企業となり、民の生活を圧迫する、ということである。これが、「公」でやるべき仕事を民営化してはならない理由である。

たいてい、民営化が叫ばれる時には「お役所仕事」の非効率性が言われるのだが、お役所仕事への不満があること(公営の部分否定)と、役所そのものの存在の否定(公営の全否定)との間には大きな懸隔があり、それをわざと無視するのも一種の「東大話法」であると知るべきだろう。
公の仕事とはそもそも利益を生む性質のものではない。そこにわずかな不都合があったとしても、公の仕事をすべて民(営利事業者)に任せるという阿呆な話はないが、実はそれが現実にはどんどん行われているのである。

民営化論で「民」と言われているのは、実は人民の生活とは無縁な(吸血鬼的)「1%」の人々でしかない。彼らを「民」と言うこと自体が詭弁のようなものだ。



(以下引用)



【投資の利益はどこから生まれる】

国家戦略特区の規制緩和により、日本が投資先になれるのは、投資利益が出るように「規制緩和」するからだということがお分かりいただけると思う。

しかし、その利益が、どこから生みだされ、誰が負担しているのかといえば、私たちの税金(開発に伴う道路整備等)や賃金(正規⇒非正規)や利用料(水道・道路:税金も)だ。

株式会社の目的は利益の最大化だ。

コンプライアンス(法令順守)、CSR(企業の社会的責任)、公益法人などの考え方は、利益の最大化という経済活動を放置すれば、社会に悪影響を及ぼす恐れがあるから生まれてきている。

そもそも、株式会社は公の分野にはなじまないといった考えもあるだろう。

あるいは、公務員に任せてもサービスは良くないし、非効率的だから株式会社の良い点を積極的に活用しようという考えもあるだろう。

しかし、フリーハンドで株式会社に任せて良いと言う考えは、それほど多くないのではないか。

ちょっと考えても、(1)~(3)には、

(1)再開発においては、多額の税金投入と優遇策による地権者等への利益供与の妥当性をどう確保するか。
   公共性、公益性はどこに、どういったかたちで担保されているのか。
   
(2)教育や福祉といった営利や経済競争になじまない、しかも労働集約型の分野を民に担わせる時の考え方。
   福祉の担い手の給与が単なるコストとして扱われ、経費削減の対象にならないか。
   株式会社が教育や医療や福祉のサービスの受け手を単なる消費者として見れば、施策本来の目的が見失われる。そこをどう担保するか。

(3)人口や財政規模に合わせ、縮小しなければならない公共施設やサービスと、成長や利益最大化が命題の株式会社の経営とが、両立するか。
  誰がどうチェックするか。チェック可能か。
    
といった課題が浮かぶ。
そして、これらを確保することは、決して容易なことではない。

【公のシステムを担う「民」が民の良さを発揮できない3つの理由】

民の良さは、競争下における質と価格などのサービス向上にある。

しかし、(2)や(3)は、いったん担ってしまったら、
①競争も無く、売上も確保される。
②上下水道のように、他の選択肢が無い。
③保育園や特別養護老人ホームのように、サービスの絶対量が少ないため、売り手市場。

など、いずれも、民の良さを発揮できる状況にない。だから、公が担って来たとも言える。
東電が役所体質だと言われているのも、①~③によるところが大きいのではないか。

民営化・民間委託は、サービス向上とコスト削減のためと言われ続けてきたが、とうとう、国家戦略特区という経済政策になってしまった。

サービス向上とコスト削減という「修飾語」の影に隠されてきた「本音」の問題点に、今、私たちは正面から向き合わなければならない時をむかえている。




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