統一教会が日本に「世界勝共連合」を創設したのは1968年だ。
 70年安保の直前だ。
 
「世界勝共連合」の創設には、右翼のドンである笹川良一と、児玉誉士夫が深く関与している。そして岸信介も関わっている。
 どうして統一教会が、自ら「反共」の牙城とでもいうべきものを創設したのだろうか。
 わたしは、統一教会の「日本乗っ取り計画」にとって不可欠だからだと思う。優れて戦略的意味が「反共」に込められているのだ。
 木下半治が『日本のファシズム』の中で、戦前に国家主義運動に身を投じていた児玉誉士夫の、当時を回想した述懐を紹介している。
 日本における右翼運動とはどういうものであり、その弱点と矛盾は何か、余すことなく述懐している。溺死はしたくないので、端折って引用する。

「建国会に大きな矛盾のあることを知った。これは建国会のみではなく、その頃国粋主義を標榜するすべての団体が一ようにもつ矛盾であり、弱点だった。それは、運動資金の問題であって、この資金は財閥、政党、その他中小資本家から貰っていた。財閥・政党から貰ってやる反共運動、これでは資本家に飼われている番犬的な運動になるのは当然であった。たとえ、一方で財閥とか政党とかの横暴を攻撃したとしても、その裏では財閥や政党からお札で頭をなでられていては、これはお笑いの猿芝居だし、道化の運動である」
「当時の右翼団体といえば一部の例外は別として大半は暴力団だった。それに比べると建国会は相とうに的確なる日本主義思想をもって行動していた団体であったが、しかし、労働争議などではやはり資本家がわにつくようになった。これも他の右翼団体と同じように運動資金の問題がその運動の純真正を奪うのであった。……反共派と称した団体がその裏で資本家の用心棒に堕ちたのも、いわば、時代の生んだ一つの腫物ではなかったかと思う」

 この述懐は何を意味するか。
 右翼を牛耳って操ろうとすれば、資金があれば容易だという事実だ。そして戦後は、政党の資金源であった財閥が解体されたから、政党をも資金力さえあれば操れるという事実だ。
 上の児玉誉士夫の述懐は戦前のものだが、基本的に戦後になっても変わらない。生死をさまよい、地獄のような満州を生きた児玉誉士夫だ。辛酸をなめ尽くした果てに、
児玉誉士夫の行き着いた境地は、だったら俺が、この国を影から操ってやる、というニヒリズムの色に染め上げられた野望だったのではないのか。
 満州国の軍部と手を組んだ児玉誉士夫が「児玉機関」を作り、蓄えた膨大な金品を終戦の前にこっそりと日本に運んで、戦後にそれを右翼運動を操る資金にし、今の自民党に繋がる保守政党の結党資金にしていた事実が知られている。そして、右翼と保守政党を陰に隠れて操ったのだ。だから、影のフィクサーと言われていたのだ。
 統一教会がこうしたこの国の絡繰りを知らないはずがない。
 日本名をもち、日本の陸軍士官学校を卒業した朴正煕の、軍事独裁政権が作り上げたといっても過言ではない統一教会なのだ。KCIAが深く関与もしている。
 この国を乗っ取ろうとすれば、
児玉誉士夫に倣って資金で、右翼を籠絡し、たらし込み、飼い慣らして操り、自民党議員に接近し、潤沢な資金と信者を使って、自民党議員を籠絡し、たらし込み、飼い慣らし、操ることで、徐々に自民党を乗っ取り、国家権力まで乗っ取ろうという戦略の上で不可欠なのが、「反共」というトラップ=罠だったのではないだろうか。
 何故ならば、「反共」の牙城を作れば、そこに右翼と保守と自民党議員が吸い寄せられてくるのを知っているからだ。「反共」の牙城をジャブジャブと金と女で満たせば、その匂いを嗅ぎつけて、商売右翼と商売保守と自民党議員が飛んでくるのは火を見るよりも明らかだ。
 そして、これぞと思う自称保守論客とか、右翼の論客とかを一本釣りしていたのだろう。櫻井よしこなどはそうした輩だったに違いない。自民党議員も同様だ。
 どうして統一教会が日本会議の創設に関わり、安倍晋三を神輿として担いだのかは、既にブログに書いたので重複を避ける。
 こうした戦略的仕掛けが統一教会の「反共」には組み込まれている。
 が、それは裏の顔であって、表の顔は日本国民がイメージと感情としてもっている「反共」になり、更にアメリカの思惑が二重に乗っかっている。
 表の顔の「反共」が、おぞましい裏の顔である「日本乗っ取り計画」の戦略的仕掛けとしての「反共」を覆い隠してしまうのだ。
 児玉誉士夫がロッキード事件で失脚してからは、統一教会の資金の威力が加速化したのではないか、とわたしは想像している。
 吸い寄せられ、籠絡され、たらし込まれ、飼い慣らされて操られるのは自民党議員ばかりではない。維新の議員も、国民民主党の議員も、立憲民主党の議員もいる。
 言い訳は、表の顔の「反共」なのだが、これまで論じた通り、表の顔の「反共」にさえも思想的な実体はなく、そればかりか、「反共」には満州国と朴正煕軍事独裁国家と北朝鮮の亡霊まで潜んでいるのにだ。それを分かろうともしない。だから、自己正当化する唯一の方法は、日本共産党を揶揄し、日本共産党を憎み、日本共産党とは絶対に手を組めないと、駄々をこねるのだ。まるで駄々っ子だ。
 その日本共産党からして、看板と中身はまったく違う政党だ。政府自民党と維新と国民民主党と立憲民主党のいう日本共産党など、日本の何処を探してもいない。日本共産党の看板だけがあるに過ぎない。
 実体を偽って、日本共産党の看板を掲げているのが真相だ。
 が、その看板があるから、政府自民党と維新と国民民主党と立憲民主党の腐れ国会議員は、まったく実体のない「反共」にしがみついて、おぞましい自らの姿を自己正当化できるのだ。
 NHKの日曜討論で自民党の茂木敏充が、日本共産党は過激暴力集団と関わっているとのデマ発言をして物議を醸しているが、わたしからみれば、どっちもどっちだ。1955年の六全協までは日本共産党が暴力革命を掲げる政党だった事実がある。戦前の日本共産党はソ連主導のコミンテルンの支配下にあった事実もある。それを承知で「日本共産党」の看板を掲げているのだから、敵にそこを突っ込まれるのは目に見えている。右翼と極右と保守は、決まってそこを突いてくる。
1955年の六全協で方向転換し、それまでとは180度違った日本共産党になった、と言い張っても、だったらどうして180度も変わったのに、未だに日本共産党を名乗るのだ、と反論されるのは分かりきったことだ。
 それだけではない。日本共産党が偽りの看板を掲げ続けるから、この国に実体がまったくない、イメージと感情で出来た幽霊でしかない「反共」が生き続けられるのだ。
 お化けでしかない「反共」が生き続けられるから、統一教会のようなカルトにこの国が乗っ取られる切っ掛けを与えているのだし、裏の顔の「反共」に絡め取られたはずの自民党と維新と国民民主と立憲民主党の腐れ議員が、表の顔の「反共」で自己正当化し、国民を煙に巻いて、生き続けられるのだ。
 ハッキリと言う。「反共」こそがこの国の政治を腐敗させている元凶だ。
 その元凶に加担しているのが、看板でしかない日本共産党を名乗っている、偽りの日本共産党がこの国にあるからだ。
 日本共産党は、偽りの看板を下ろせ。真実の政党の姿を国民にみせろ。その方が、どれだけ多くの日本国民にとって幸いであることか。やり方を間違えなければ、支持も急拡大するはずだ。志位和夫的なるものを徹底的に排除することだ。
 日本共産党よ、もういい加減に、自虐趣味は止めにしないか!

 ここで終わりにするつもりだったが、今突然に文学的直感がやってきた。
 統一教会のいう「反共」の裏の顔についての文学的直感だ。
「反共」の表の顔には、戦前の国家権力が作り上げた国民を洗脳するための「共産主義=アカ=非国民=国家反逆」という絶対悪としてのイメージと感情が、先ずあり、それが土台となっている。戦後になって、その土台の上にアメリカの思惑が冷戦体制前と後とで違った意味の「反共」を積み重ねている。「反共」の表の顔は三重になった地層のようなものなのだろう。が、地層のように明確に分かれてはいないで、境界線がはっきりとせずに、境界線を越えて行き来しているようなものなのだろう。
 文学的直感はこうした表の顔ではなく、裏の顔に関わるものだ。
 どうして統一教会は「日本乗っ取り計画」をこれほどまでにやり遂げることができたのか。「日本乗っ取り計画」は成就直前だったといえる。ナチスの全権委任法にあたる緊急事態条項を手にする直前まで漕ぎ着けていたからだ。
 統一教会が理想とする国家とはどうのようなものなのか。
 宗教としてみるから統一教会の理想とする国家像が見えなくなるのだが、文鮮明を教祖として見ないで独裁者としてみたらどうなるか。
 宗教の教義としてみないで、国家像としてみたらどうなるか。
 国家社会主義が浮かび上がってはこないか。
 統一教会には朴正煕軍事独裁政権が関わり、朴正煕は岸信介の満州国人脈の一人だ。岸信介自身が統一教会と「世界勝共連合」と深く関わってもいる。
 統一教会が日本会議の創設に関与している事実が発覚しているが、日本会議の目指す国家像は、戦前の一神教的国家神道を中心に据えた日本ファシズムだ。
 維新の会は、その名の通り、昭和維新と繋がるものだ。単純化してみれば、昭和維新には心情的なものと、岸信介に代表される革新官僚的なものがあり、心情的なものが、社会的空気をどんどんと日本ファシズムの方向へと導き、それを巧妙に利用して、岸信介らの革新官僚が実権を握って、日本ファシズム国家を作り上げたのだが、わたしは維新の会は、昭和維新に倣って、社会的空気をファシズムの方向へと導く露払いの役割を担わされていると思っている。
 戦前の昭和維新の心情的なものが、やはり露払いの役割にされたのと、現象的には一緒だが、もっている思想と心情は真逆だと思う。
 だから、我が恩師である橋川文三は昭和維新の思想と心情に心を揺り動かされたのだし、はるか西郷隆盛の謎につながるものをみていたのだろう。
 維新の会にあるのは黒々としたニヒリズムだ。統一教会が維新の会を操っていた理由は、この辺りにある。
「反共」の裏の顔は、国家社会主義と超国家主義とをもっているのではないのか。日本資本主義の凋落が隠しようがなくなっただけに、日本の経済界が生き残りのために「反共」の裏の顔と繋がろうとするのは自然の成り行きだ。資本主義が袋小路に陥ったときの逃げ道がファシズムだからだ。
 安倍晋三が統一教会と日本会議に担がれ、統一教会の資金と深く結びついたのは、岸信介の国家社会主義への妄執によるものなのだろうか。
 安倍晋三は保守ではない。岸信介も保守ではない。国家「社会主義」を信奉するものだ。安倍晋三は無自覚だ。国家社会主義が何たるものか知らないからだ。日本会議も保守ではない。国家「社会主義」を掲げるカルトだ。
 木下半治が言ったように、二つに分類される日本国家主義運動の国家「社会主義」に当たる。
 安倍晋三は北朝鮮を何かというと罵倒したが、心の底では親近感を抱いていたのではないのか。何故ならば、安倍晋三が崇拝する祖父の岸信介が作った満州国は、北朝鮮だったからだ。そして、統一教会を生んだといえる朴正煕軍事独裁政権も、満州国の模倣だとしたら、敵対していたようであって、北朝鮮と同じ国家だったといえないか。
 文鮮明は北朝鮮と仲良しこよしだ。安倍政権が苦境に陥ると、タイミング良く北朝鮮がミサイルをぶっ放したが、文鮮明が北朝鮮に多額の資金援助をしていた事実が明るみになっているのだから、文鮮明が安倍政権を助けるために、ミサイル発射を頼んだ、という奇想天外な想像も、充分にあり得るから驚くばかりだ。
 安倍晋三のいう「美しい国、日本」とは、国家「社会主義」の国だとなるのだろう。果たしてその国家は誰のものなのか。日本国民のためのものでないのは確かだ。安倍晋三をヨイショして神輿に担ぐ、統一教会のための国だった、という事実が次々と発覚している。
 極論すれば、資本家は誰のための国かなどどうでもいいのだ。誰のための国かなどどうでもいいから、国家権力によって庇護され、援助されて、自分たちが生き残り、私腹を肥やせればどうでもいいのだ。それが資本主義のおぞましい素顔だ。
 売国奴にして、統一教会の操り人形のような存在だった安倍晋三の国葬が行われようとしている。どうみても、正気の国ではない。
 日本を侮蔑し、日本を売り渡した売国奴を国葬にする、美しい国、日本。
 世界の物笑いにされている。