現在でも、ネットに触れていない層は当時の私と同じ状態だろう。
(以下引用)
ウクライナを戦場にしてアメリカ/NATOとロシアが戦争を始めている。第2次世界大戦でナチスが率いるドイツ軍に軍事侵攻されて甚大な被害をこうむったソ連は立ち直れないままミハイル・ゴルバチョフからボリス・エリツィンにかけての時代に崩れ、消滅した。そこからネオコンはアメリカが「唯一の超大国」になったと考え、世界制覇プランを作成している。本ブログで繰り返し書いてきた1992年2月にアメリカの国防総省で作成された「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。
アメリカ、つまり巨大金融資本を中心とする支配システムへ服従しない国や体制を倒すだけでなく、潜在的なライバルを潰すとしている。その潜在的ライバルには旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、南西アジアが想定され、エネルギー資源の支配も重要視されている。(The New York Times, March 8, 1992)
このドクトリンが作成された当時、アメリカはロシアを属国にしたと認識、手始めにユーゴスラビアの解体を始める。その次のターゲットとして彼らは中国を想定。「東アジア重視」だ。
このプランを危険だと考える人は政府の内部にもいた。例えばジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブレント・スコウクロフト国家安全保障補佐官、ジェームズ・ベーカー国務長官だが、ブッシュ政権は1期で終わる。
ビル・クリントン時代の1998年4月、アメリカ上院はNATOの拡大を承認したが、「封じ込め政策」で有名なジョージ・ケナンはそうした政策はロシアを新たな冷戦に向かわせると警告している。ケナンは反コミュニストの外交官として有名だが、その彼でも危険だと感じたのだ。またヘンリー・キッシンジャーは今年5月にスイスのダボスで開かれたWEF(世界経済フォーラム)の年次総会で、ロシアとウクライナとの特別な関係を指摘、平和を実現するためにドンバスやクリミアを割譲して戦争を終結させるべきだと語っている。
アメリカでソ連の崩壊を目指すプロジェクトが始まったのは1970年代の後半だった。ひとつの節目は1972年の大統領選挙。ベトナム戦争の敗北を受け、この年の選挙ではジョン・F・ケネディに近く、戦争反対を明確にしていたジョージ・マクガバン上院議員が民主党の候補者に選ばれ、支配層に激震が走る。
ニクソン大統領は1972年の2月に中国との国交を正常化、中国を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないと表明、大きな実績を作った。
片や民主党の内部ではヘンリー・ジャクソン上院議員を中心に反マクガバンのグループがCDM(民主党多数派連合)を組織して自党候補の足を引っ張る。ジャクソン議員のオフィスには若い頃のリチャード・パール、ポール・ウォルフォウィッツ、エリオット・エイブラムズ、ダグラス・フェイス、エイブラム・シュルスキーなど後にネオコンの中核グループを形成する人々が在籍していた。
結局、共和党のリチャード・ニクソンが再選され、1973年1月にパリでこの政権は和平協定に調印した。そしてデタント(緊張緩和)を打ち出すが、マクガバンを潰した勢力はデタントを容認できない。そうした中、発覚したのがウォーターゲート事件である。ニクソンは1974年8月に失脚し、FBIとの関係が深いジェラルド・フォードが副大統領から昇格した。
フォード政権でデタント派は粛清され、好戦派が台頭する。特に重要な意味を持つと考えられているのは国防長官とCIA長官の交代で、国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからドナルド・ラムズフェルドへ、CIA長官はウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ交代している。リチャード・チェイニーやポール・ウォルフォウィッツなど後にネオコンと呼ばれるグループも表舞台へ出てきた。粛清を主導したのはラムズフェルドとチェイニーだと言われている。
1976年の選挙ではデイビッド・ロックフェラーとズビグネフ・ブレジンスキーが目をつけたジミー・カーターが勝利、国家安全保障補佐官に就任したブレジンスキーはアフガニスタンへソ連軍を引きずり込む秘密工作を始めた。
1979年7月にアメリカとイスラエルの情報機関に関係していた人びとがエルサレムに集まり、「国際テロリズム」に関する会議を開いている。「国際テロリズム」というタグをソ連につけて攻撃しようというのだ。
この会議にはイスラエルから軍の情報機関で長官を務めた4名を含む多くの軍や情報機関の関係者が参加、アメリカからはジョージ・H・W・ブッシュ元CIA長官(後の大統領)やレイ・クライン元CIA副長官など情報機関の関係者が参加していた。
会議の席上、クラインは「テロの原因」を抑圧された人々の怒りでなく、ソ連政府の政策、あるいはその陰謀にあると主張しているが、実際のところ、テロの大半はCIAとイギリスのMI6(SIS)を中心に組織されたネットワークの破壊工作機関が実行している。
1980年の大統領選挙で勝利したロナルド・レーガンは1982年の6月7日にローマ教皇庁の図書館で教皇ヨハネ・パウロ2世とふたりきりで50分にわたって会談する。
ヨハネ・パウロ2世の母国はポーランド。教皇になる前、つまり1978年10月までの名前はカロル・ユゼフ・ボイティワだ。ウォーターゲート事件に関する報道で有名になったカール・バーンスタインによると、レーガンと教皇は大半の時間をソ連の東ヨーロッパ支配の問題に費やし、ソ連を早急に解体するための秘密工作を実行することで合意したという。(Carl Bernstein, “The Holy Alliance,” TIME, Feb. 24, 1992)
この秘密工作はヨハネ・パウロ2世でなければ実行できなかったであろう。好戦派にとって都合の良いことに、その前の教皇、ヨハネ・パウロ1世は1978年8月に選ばれたものの、翌月に急死している。病死とされているが、その当時から他殺説が噂され、今でも消えていない。この延長線上にソ連解体プロジェクトの「ハンマー作戦」はある。この作戦でソ連の情報捜査機関KGBの幹部が買収されたと言われている。
ブレジンスキーは大学で教えている当時からCIAとの関係が深いと言われ、その教え子にはマデリン・オルブライトやバラク・オバマがいる。オルブライトはヒラリー・クリントンやビクトリア・ヌランドと親しく、ビル・クリントン政権で国務長官としてユーゴスラビアへの先制攻撃を実現させた。イラクに対する「経済制裁」で多くのイラクの子どもが死んでいることを問われ、それだけの価値があると言ったことでも知られている。
このオルブライトはチェコスロバキアの出身だが、ヌランドは父方の祖父母がウクライナからの移民である。ズビグネフ・ブレジンスキーはポーランドの生まれで、一族の出身地であるブゼザニは現在、ウクライナに含まれている。
ウクライナを舞台としたアメリカ/NATOの対ロシア戦争でポーランドが重要な拠点になっているが、今年2月22日、アメリカ大使としてポーランドに着任した人物はズビグネフ・ブレジンスキーの息子であるマーク・ブレジンスキーだ。
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