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徽宗皇帝のブログ

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「共産主義恐怖症」という病(承前)
前回の記事で最初に紙谷氏の記事の引用をしたのは、まさに「反共という病」が世界を狂人化している、つまり幸福になれるはずの人々が、自らの思考の偏り・異常のために不幸になっているのではないかと思うからである。
もちろん、私は別に共産主義者ではなく、共産主義自体は現実化不可能な思想だと思っている。問題は、「反共という思想」によって政治が常に特定権力者たちの思う方向へ引きずり回され、一般国民の福利が常に削減されている、ということなのである。これには、共産主義者自身や共産党の「政治的不手際」や過失もかなり大きな原因になっていると思うが、やはり「反共プロパガンダ」の力が大きいだろう。
ここで私が説明したいのは「共産主義は危険思想ではなく、むしろ本来は人道主義的で一種の理想主義にすぎない」ということだ。そこでおそらく出て来るのはスターリンやポル・ポトによる国民大量粛清の件だろうし、あるいは毛沢東も同様に人民粛清をした、という噂だろう。しかし、たとえばアメリカという国が殺しまくった他国人民の数は許容され、スターリンやポル・ポトの粛清(おそらく国内政治の邪魔になる存在の粛清)がなぜ「共産主義による災禍」として延々と言われるのか。そもそも、それは「共産主義」と何の関係があるというのか。
話を単純化しよう。
資本主義とは「経済的自由主義」のことであり、そこでは法に触れない限り(現実には、法に触れても)個人による富の蓄積が無制限に認められる。その結果が、全人口の1%にも満たない大富豪たちが、残る99%以上もの人々の何百倍もの富を蓄積することだ。そして彼らは政治と密着することで、上級国民や超上級国民としての無限の力を得る。これが資本主義社会である。これは、「民は生かさず殺さず」の封建社会と何が変わるだろうか。武士や貴族の代わりに超富裕層や政治家が存在するだけではないか。
それに対して、共産主義とは「富の平等」を理想とする思想である。もちろん、当人の努力と富の配分を紐づけするかどうかは議論の分かれるところだが、理想は「全国民の平等」である。このどこが「危険思想」なのだろうか。仮に、現在の富では、平等に分配すると全員が飢える、というのなら、富の平等は或る種の「危険思想」になるかもしれない。しかし、社会全体の生産能力がここまで向上した時代に、そういう「国民全員が飢える」のはありえないだろう。
そこで、問題は「俺は(私は)人より上でないと満足できない」という思想の人間である。その人間の能力がどんなであれ、他人より多く富の配分を受けないと我慢できないという人間はやはり存在するだろう。そういう人間は資本主義社会では、競争に勝ち抜いて上級国民に入れるよう努力すればいい。しかし、共産主義社会では、それができないわけだ。そこで、彼らは「共産主義は悪である」という思想になるのだろう。
しかしながら、何度か言っているように、「共産主義とは現実化不可能な思想」なのである。全員の平等と言うなら、結婚も不可能で、異性を平等に公平に配分しなければならない。つまり、性的配偶者の共有だ。つまり、「恋愛」は地上から滅びることになる。いや、特定の個人を愛することすら「平等原則に背く」ことになるだろう。新しいファッションは「不平等」だから禁止されるか、あるいは全員が同時に同じファッションに換えることになる。大男も幼児も食料配分は同量ということになる。(もちろん、これは戯画化しているのである。)急病の者も慢性病患者も「平等」に病院の順番を待つことになる。まあ、もっと漫画的な事態はいくらでもあるだろう。つまり、「平等・公平」は理念であって、厳格な適用はむしろ非人間的になる、ということだ。共産主義とは「理想・理念」でしかありえないのだから、恐れる必要もないのである。
共産主義の場合は、平等・公平を理念とするだけに、それに反する現象が目立ちやすい。ただそれだけの話だ。官僚などが、おそらく特権階級になりやすいだろう。しかし、実はそれは資本主義社会でも同じなのである。
そうすると「反共」とは何なのか、となる。存在しない幽霊を騒いで子供を怖がらせているだけのことではないか。今、世界で一番「共産主義」に近いと思われるキューバで、どのような恐怖政治が行われているというのか。





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