私も、「共産党」という名前は変えたほうがいいという考えだが、この名前には熱心な支持者もいる(もちろん、政治的には少数派だ。)ので、確かに判断は難しい。内田樹のように「変えないほうがいい」という意見もあるが、その意見の理由は私には薄弱すぎると思われる。
「共産党」と「革命」「悲劇的英雄」「民衆のための戦い」という言葉を心の中で繋げてロマンチシズムを感じる層もいるだろう。とすれば、「日常的な生活向上のための政党」(現在の日本共産党)というのは、あまり「共産党」という名前のイメージには似合わないのではないか。
私のお勧めは、「社会党」という名前、あるいはそのアレンジである。
沖縄に「社会大衆党」略称社大党というのがあって、これは正式名称も略称もなかなかいいと思う。ただ、ローカル政党で全国的な知名度は低いようだ。映画にもなった瀬長亀次郎も確か社大党だったのではないか。今のように上級国民と一般国民(大衆)が乖離した社会では、「大衆」のための政党ということをアピールするために、党名に「大衆」の語を入れるのはいい戦略だと思う。「日本大衆党」も悪くないが、略称が「日大」になるのと、日本という言葉そのものを嫌悪する左翼支持層がいそうなのがネックである。
しかし、なぜ「共産党」という名前がこれほど嫌われるのか。「共」が悪いのか「産」が悪いのか、それともこのコラボが悪いのか。「絆」は好きだのに「共」は嫌いだというのは理不尽だし、「産」が嫌いなら出産も財産も嫌いなのか、となる。まあ、要は「共産党=アカ=危険な政党」という資本家層による強力な宣伝が心の奥底まで支配している(人々が洗脳されている)のだろう。
(以下「内田樹のブログ」から引用)
党名変更については、私は「共産党」という党名を維持して欲しいと思っている。
ロシア革命以来100年余、世界中で「共産党」という党名を掲げた政治組織が誕生し、活動し、いくつかは姿を消した。なぜ、ある国では共産党は生き残り、ある国では消滅し、ある国では姿を変えたのか。それを研究する「比較共産党史」という学問領域があれば、それぞれの国の固有の政治風土を理解する上できわめて有用だと私は考えている。
(引用2)
「共産党」と「革命」「悲劇的英雄」「民衆のための戦い」という言葉を心の中で繋げてロマンチシズムを感じる層もいるだろう。とすれば、「日常的な生活向上のための政党」(現在の日本共産党)というのは、あまり「共産党」という名前のイメージには似合わないのではないか。
私のお勧めは、「社会党」という名前、あるいはそのアレンジである。
沖縄に「社会大衆党」略称社大党というのがあって、これは正式名称も略称もなかなかいいと思う。ただ、ローカル政党で全国的な知名度は低いようだ。映画にもなった瀬長亀次郎も確か社大党だったのではないか。今のように上級国民と一般国民(大衆)が乖離した社会では、「大衆」のための政党ということをアピールするために、党名に「大衆」の語を入れるのはいい戦略だと思う。「日本大衆党」も悪くないが、略称が「日大」になるのと、日本という言葉そのものを嫌悪する左翼支持層がいそうなのがネックである。
しかし、なぜ「共産党」という名前がこれほど嫌われるのか。「共」が悪いのか「産」が悪いのか、それともこのコラボが悪いのか。「絆」は好きだのに「共」は嫌いだというのは理不尽だし、「産」が嫌いなら出産も財産も嫌いなのか、となる。まあ、要は「共産党=アカ=危険な政党」という資本家層による強力な宣伝が心の奥底まで支配している(人々が洗脳されている)のだろう。
(以下「内田樹のブログ」から引用)
党名変更については、私は「共産党」という党名を維持して欲しいと思っている。
ロシア革命以来100年余、世界中で「共産党」という党名を掲げた政治組織が誕生し、活動し、いくつかは姿を消した。なぜ、ある国では共産党は生き残り、ある国では消滅し、ある国では姿を変えたのか。それを研究する「比較共産党史」という学問領域があれば、それぞれの国の固有の政治風土を理解する上できわめて有用だと私は考えている。
(引用2)
「ハチと名が付く限り人々は恐れる。もしカワハギがカワハギフグという名だったら可食でも避けられるだろう」 社会的関係において《名》は決定的に大事。名前が持つイメージを決めるのは自分ではなく他者。この肝心な点を解っていない者が政治家を名乗るのは滑稽。
PR
コメント