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徽宗皇帝のブログ

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「失敗」しない人間たち
「内田樹の研究室」から転載。
誰もが感じていながらうまく表現できないことを明瞭に言語化するのが知識人の基本的責務である、と私は考えているが、そういう意味で内田樹は最良の知識人の一人だろう。
妙な比較だが、そういういわく言い難いものを言語化する能力で私が驚嘆していたのは、故ナンシー関であった。彼女は我々が芸能界や芸能人の一部に感じている奇妙な違和感を見事に言語化してみせることが多かったのだ。それに比較して、マスコミで重用される知識人のほとんどは、マスコミ支配層が言わせたい事を異口同音に言うだけのオウムであり、まったく知識人の名に値しない。
さて、石原慎太郎という人間の分析として、下記の文章は秀逸である、と思う。
特に「成功したら自分の功績、失敗したら他人のせい」だから負けるはずがない、という分析は、まさしくその通りだろう。マスコミ的にもこういう人間はネタを提供してくれるから共生関係が結ばれる。となるとマスコミも味方だから怖いものなしだ。
こういう連中は道理も倫理も無関係だから、どうしようもない。橋下徹は石原慎太郎のそっくりさんであり、この両者を一緒に縛って福島原発の原子炉の中に放り込むのが日本のためにベストの解決策だろう。

石原慎太郎の政治的無能さについても内田樹は明快に示している。


「でも、この「諸悪の根源」にすべてを還元して話を単純化するのは、あまり賢いやり方とは思えない。
というのは、それは都知事時代に「よい」政策を起案したり、実施しようとしていたときに、彼がこの「諸悪の根源」の組織力や行動を過小評価していたということを意味するからである。
それほど巨大な「悪の組織」が現に活発に機能していることを、国会議員を20年やってきた政治家が「気づかなかった」というのは、あまりにナイーブに過ぎる。
いや、気づいていたし、現にそれと戦ってきたのだと彼は抗弁するだろう。
でも、気づいていて、戦ってきて、その挙句に「いいようにされた」のであれば、それは彼が政治家として無力だということを意味してしまう。
どちらにしても困る。
自分の「敵」の力量や行動原則についてまったく知らぬまま政治家として何十年も過ごしてきたのであれば、彼は国政を議するにはあまりに愚鈍だということになる。
わかった上で「敵」と戦ってきて、結果ぼろ負けしたというのがほんとうなら、彼は国政を委ねるにはあまりに無力だということになる。」


という部分がそれである。この論評に対して石原に反論が可能だとは私は思わない。聞く人は、百人が百人とも、内田樹の言う通りだと思うだろう。


(以下引用)


だが、世の中には、自分の判断ミスを決して認めない人たちがいる。
石原慎太郎はそういう人の一人である。
つねに自分は正しい選択だけをし続けてきて、一度も失敗をしたことがないという「物語」のうちで彼は自分の政治家としての自己史を語っている。
もちろん、彼が掲げた約束の中には実現しなかったものがあるし、無惨な失敗に終わったものもある。
でも、それを彼は「失敗」とは総括しない。
「邪悪な勢力による妨害工作によって」成功するはずのことが頓挫させられたという「物語」に回収して、話を済ませるのが彼の風儀である。
自分の選択も、その実現のための行動も100%正しかったのだが、それが成功しなかったのは、100%外部の邪悪な干渉ゆえである。
そういう話になっている。
とても、わかりやすい。
今回の石原新党もそうである。
「官僚」が諸悪の根源として、彼の「よき思念」の物質化を妨げているという「物語」になっている。
だから、「官僚支配打破」が石原新党の党是の根幹となっている。
あ、そうですか。
でも、この「諸悪の根源」にすべてを還元して話を単純化するのは、あまり賢いやり方とは思えない。
というのは、それは都知事時代に「よい」政策を起案したり、実施しようとしていたときに、彼がこの「諸悪の根源」の組織力や行動を過小評価していたということを意味するからである。
それほど巨大な「悪の組織」が現に活発に機能していることを、国会議員を20年やってきた政治家が「気づかなかった」というのは、あまりにナイーブに過ぎる。
いや、気づいていたし、現にそれと戦ってきたのだと彼は抗弁するだろう。
でも、気づいていて、戦ってきて、その挙句に「いいようにされた」のであれば、それは彼が政治家として無力だということを意味してしまう。
どちらにしても困る。
自分の「敵」の力量や行動原則についてまったく知らぬまま政治家として何十年も過ごしてきたのであれば、彼は国政を議するにはあまりに愚鈍だということになる。
わかった上で「敵」と戦ってきて、結果ぼろ負けしたというのがほんとうなら、彼は国政を委ねるにはあまりに無力だということになる。
誤解して欲しくないが、私は石原慎太郎が愚鈍であるとか無力であるとか言っているのではない。
彼はなかなかにスマートで有力な政治家である。
私は彼の政治的力量を過小評価したりしない。
だからこそ「官僚が諸悪の根源だ」というのは彼の「つくりばなし」だと思うのである。
自分の失政の理由をアウトソーシングしたくなるのは、「勝率10割」にこだわることができるほどにスマートで有力な政治家だけが罹患する「病気」である。
けれども、彼自身がスマートで有力であればあるほど、彼の政策の実現を妨害できる「敵」はその分だけ巨大で狡猾な組織にならざるを得ない。
論理の経済がそれを要請するのである。
これが「勝率10割にこだわる人間」すなわち「すべての失敗の理由を外部化しようとする人間」の陥るピットフォールである。
彼が有能で賢明であればあるほど、そんな彼を効果的に妨害でき、彼が果敢な戦いを挑まねばならぬとされる相手もまた彼と同じように強力で狡猾なものへと競り上げられてゆく。
ここまでもけっこう怖い話だが、ここからあとがもっと怖い話になる。
自分ほど賢く力のある人間の政策実現を阻止できるほどに賢く強い組織が「外部に存在する」という物語をひとたび採用したあと何が起るか。
人は自分のついた「嘘」を補強するために行動することを余儀なくされる。
彼のついた嘘を本当らしくみせるために一番効果的な方法は何か。
それは失敗することである。
さまざまな「よき計画」を提言するのだが、それがことごとく阻害され、挫折させられるという事実が、彼の語る物語の信憑性を高めるもっとも効果的な方法なのである。
ほら、ここでも、ここでも、サボタージュが行われていて、実現されるべき「素晴らしい政策」が葬り去られている。
ああ、なんという悲劇であろう。
そう慨嘆してみせることで、彼は彼の作り出した「物語」の信憑性を維持しようとする。
つまり、彼は自分が起案した政策が失敗した場合でも、その失敗から「利益」を引き出すことができるようになる。
成功すれば、それは自分の功績である。失敗すれば彼の作り出した物語の信憑性が高まる。
成功しても、失敗しても、成功する。

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