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徽宗皇帝のブログ

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「定説」を疑うことの重要さ
我々は、科学を信仰しているが、その科学は前の時代の常識への異論が正しさを認められて定説となった膨大な山脈であり、つまり、ある意味では巨大なゴミの山とも言えるわけだ。だが、そのひとつひとつの「ゴミ」が無ければ、次の説は生まれなかっただろう。過去をすべて否定する行為が愚かしいことを人々は知らなすぎる。
我々が絶対的定説としている「相対性理論」にしても、実は疑問というか、否定論はあるのである。その一部を下に引用する。この前の部分では特殊相対論も否定されている。つまり、相対性理論とは現代科学の「神話」だとされる日も遠くないのかもしれない。
私が昔からその虚偽性を感じていた「ブラックホール」「ビッグバン」が、相対性理論を「守る」ために作られた理論だというのは、この文章で初めて知った。
まあ、世界中の科学者たちが「地球温暖化説」「二酸化炭素温暖化原因説」というアホな説をほとんど誰も批判していないことからも、科学者も飯を食うために権力に頭を下げる存在だ、ということが明白だ。


(以下引用)特に引用先は書かないが、ソ連(訂正:ロシア)の科学者らしい。つまり、「相対性理論派閥」の締め付けから或る程度自由に意見を表明できるのだろう。

 一般相対性理論には数多くの難点が存在することが広く知られている。すなわち,
1)整合性の原理が損なわれている(人為的な外的条件を導入しない限り,重力が存在し ない場合への極限移行が存在しない)。
2)保存則が欠如している。
3)加速度の相対性は実験的事実と矛盾している(宇宙内で回転している液体が楕円体の 65 第 2 章 一般相対性理論の基礎 形を持つのに対し,回転していない液体は球体の形を持つ)。
4)特異解が存在する。 (通常,このような場合には,いかなる理論も受け入れ難いとみなされる。ところが,相 対性理論はその「普遍的性格」を守るために,ブラックホール,ビッグバンといった空想 的なモデルを構築し始める。) 


(徽宗追記)引用した本の第三版序文も面白いので載せておく。もちろん、私に理解できる内容の本ではないが、前書きだけでも読む価値がある。

第3版まえがき

私の仕事は真理を語ることであって, それを信じ込ませることではない。 J.-J. ルソー

虚偽あるいは無根拠と思われることは,たとえその代替となるものを 我々が持っていなくても,捨て去らなければならない。 我々がそこに真理があると考えようが考えまいが, 錯誤が錯誤であることに変わりはない。 ヴォルテール

本書第 1 版[133]が世に出てから,既に 14 年間という短からぬ歳月が過ぎた。ロシア における状況は,本書において提起されている問題に関する論議の可能性という面では幾 分改善された。一部の会議では,疑わしい理論(相対性理論,ビッグバン,相対論的宇宙 論,等々)に対する批判が含まれている,根本的な問題に関する報告を行い,討論するこ とが許されるようになった。一部の完全に正統派系の科学雑誌(今のところ,それはロシ ア科学アカデミーが出版している専門雑誌ではないが)は,それらの理論を批判する論文 や代替理論のアイデアを述べている論文を掲載するようになった。多数の人々が,自分自 身の観点を持ち,それを公の場で表明することを恐れなくなった。基礎的な性格を持つも のも含め,新たな研究成果やアイデアについて論議することのできるセミナーが,様々な 所で定期的に開催されている。それゆえ,全体的に見れば,徐々にではあるが,自己欺瞞 からの解放と自覚のプロセスが進行している。
この 14 年間,筆者自身もまた,英語の雑誌 や国際会議の資料において,さらに多数の論文[134~138, 152~155]を発表してきた。そ して,この間におけるロシア内外の研究者たちとの間の交流は,実に膨大な量に達した。 相対性理論に対する批判者たちの中には,12 人のノーベル賞受賞者を含め,多数の著名 な哲学者,数学者,物理学者,すなわち,(教科書を書いたり書き写したりしただけでなく) 科学の発展に開拓者として貢献した人々が含まれている。この理論に対する錚々たる反対 者の数は,この理論の錚々たる支持者の数に匹敵する。それゆえ,ここでは,権威はどう やら裁判官ではないようだ。
相対性理論に対する批判者たちは現実に観測されている効果 を否定しようとしているなどという言説を,信じてはならない。それが嘘であることは, 次の例を取れば最も容易に理解することができる。魔法使いが太陽を昇らせようと呪文を 唱えているところを思い浮かべていただきたい。我々が言っているのは,我々は日の出を 見ないであろうということではない。我々が主張しているのは,魔法使いの呪文は日の出 とはいかなる関係も持っていないということのみである。相対性理論は魔法使いの呪文で ある。その呪文は,相対性理論がその説明の功績をもっぱら自らに帰しているあらゆる効 果と,まったく無関係なのである。
このように,この理論を自分自身で分析し,諸現象の 真の原因と具体的なメカニズムを探求する可能性を否定するべき理由は存在しない。
例え ば,数学においては,無限個(!)の裏付けは,たった 1 個の反証に勝ることはできない 6 第 3 版まえがき ということを忘れてはならない。相対論者たちは,そこにおける矛盾が彼らによって故意 に隠蔽されている事例の数を競うのではなく,他ならぬ反対者たちによって見出された矛 盾について考えるべきである理由は,まさにここにある。
真理の探究は,反対者たちから の異議に対する真剣な態度を常に前提としている。 真の科学者の姿勢は,次の言葉のうちに鮮やかに照らし出されている。「真理を発見しよ うと欲する者は,論敵の主張や推理のうちに,論敵に劣らぬほど熱心に真理を探し求める。 ……彼は,論敵がその考えを最も正確に表現するための言葉を見出せるようにするため, 論敵に力を貸そうと努める。彼は,論敵自身が自らを理解している以上に深く,論敵を理 解しようと試みる。具体的な問題に関する論争の参加者は,論敵が主張している事柄を覆 したり,貶めたり,ぶち壊したりする目的で論敵の論拠の個々の弱点を利用するのではな く,論敵の主張から,真理の発見に役立つあらゆる価値あるものを抽出するべく努力を払 わなければならない」(T. コタルビンスキ[訳注])。
真理の探究と論争の進め方に対して真の科学者としての態度を取っている者は,はたし て多いと言えるのだろうか? 科学理論というものを,「陽のあたる場所」をめぐる動物的 な競争本能の精神に従って受け止めてはならない! もう,「問題をカーペットの下に掃き 入れる」という卑しい習慣を捨てようではないか。そしてそれとは逆に,物理理論のうち に存在する不整合,他の事実や検証済みの理論との間の矛盾,アルゴリズムを欠いた手法, ad hoc な追加的仮説,物理学上,哲学上,方法論上あるいは数学上の未解決の諸問題に関 する情報を正直に伝え合うようにしようではないか。
これらの問題が正直に明るみに出さ れたとき,あらゆる研究者はそれらを解決しようと試みることができるようになる。我々 の世代がそれらを解決できなかったとしても,我々に続く諸世代は,きっとそれを成し遂 げることができるに違いない。重要なのは,将来の各新世代がゼロから出発して,「それら の問題をカーペットの下から,まるで地下活動のように人目を避けてこっそり引っ張り出 す」ようなことをする必要がなくなるようにすること,そして,最も若く,最も生産的な 年齢の人々がそれらの問題について考え,解決することに全力を集中することができるよ うにすることである。(例えば,「傑出した」物理学者たちによる科学の終焉に関する愚痴 話とは違って,「○○に関する未解決の諸問題」という題名のついた数学書は,常に人にイ ンスピレーションを与えてくれるものである。)
本書第 1 版は,基本的に,簡潔な命題の形で手短に書かれていた(多くの論点は,独立 した論文の量になるまで補足を加えたり,詳述したりすることが可能であった)。しかし, これは願望にすぎないかもしれないが,第 1 版は,存在する問題をあらゆる人が理解でき るように叙述されていた。また,第 1 版で述べられていた内容はその緊急性を失ったわけ ではないが(それゆえ,この新版からは第 1 版の内容はまったく削除されていない),それ でもやはり,旧版を踏襲した版ではなく,大幅に増補された版を出版することとした。本 版においては,新たな重要なパラドックスに関する叙述,追加的な文献の引用(2 つのま えがきにおけるものも含め)が加えられ,様々な側面や代替案に伴う一連の微妙な論点に [訳注] タデウシュ・コタルビンスキ(Tadeusz Kotarbiński)は,戦間期ポーランドにおけるポーランド学派 (ルヴフ−ワルシャワ学派とも言う)の代表的な哲学者。ポーランド学派は,文化史上稀に見る社会的色彩の 濃い文化運動を担った,論理学者・哲学者・数学者らの総称である(『岩波哲学・思想事典』の「ポーランド 学派」の項目等を参照した)。 7 第 3 版まえがき ついての詳しい議論がより幅広く展開され,旧版で取り上げられていたいくつかの矛盾に ついてのより詳しい説明が補足されている。これは,相対論者たちによる偏見に捕らわれ た本書の読み方を考慮して行われた。言うまでもなく,それは,ここで提起されている問 題の本質を解明したいという願望が彼らに少しでも生じるならば,の話ではあるが。
筆者には,60 億の地球の住民に何かを納得させるいかなる物理的可能性もない(1 人当 たりの時間が 1 秒だったとしても,結局,人間の寿命を超えてしまう)。それに,達成不可 能なそんな目標は立てるものではない。自明のことだが,それぞれの人間は,自分自身の 選択を行なう完全な権利を持ち,「自分の殻に閉じこもって生き続ける」という選択も含め, その選択について責任を負う。ただし,「馬の目隠しには,首輪,くつわと鞭が必ず添えら れる[いかなる物事にも必ず満たされるべき必要条件がある]」ことに,注意を促しておきたい。それ 以外のすべては,人間の個人的な選択である!
だから,私は,それが自覚的なものである 限り,あらゆる選択に敬意を表し,それを受け入れる。 2 つの相対性理論に関する批判的分析に取り掛かるに当たり,私は,すべての人が,せ めて自分自身に対してだけでも正直であり続けることを希望する。では,素晴らしい真理 探究の旅となりますように! 

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