ソフトな口調の語りで定評のある評論家内橋克人氏。彼の著書に「原発への警鐘」というものがある。この本の中に、1983年1月に石川県羽咋郡志賀町で行われた当時の敦賀市長高木孝一氏のほとんど暴言に近い講演会の記載がある。
今回目にする機会があったのだが、ほとんど高慢といっていいほどの暴言の羅列に驚愕した。原発をめぐる利権とタカリに、いかに一部の住民が狂奔していたか。以下抜粋を試みる。
●原子力発電所を正しく理解していただくために馳せ参じた敦賀市長高木です。
●一昨年4月に敦賀1号機の排出口からコバルト60が漏えいした。海藻のホンダワラに付着したと大騒ぎになったが、なぜそんなに騒ぐのか理解できなかった。このホンダワラを一年食べたって健康被害はない。敦賀市民も全く何食わぬ顔をしていた。
●しかしサカナは売れなくなった。全国シェアの高い昆布もしかりである。そこで私は漁業者や民宿に100円損をしたなら電力会社から150円もらいなさいと言った。
●そうしたら出てくるわ出てくるわ、100円損して500円もらう人達が。(会場爆笑大拍手)原電も面倒だから500円あげる、というスタンスだった。
●だから一昨年の事故で大きな損をした人は出なかった。率直に言うならば、一年に一回くらいは、あんな事があればいいなあ、と。それが敦賀の現実。笑い話のようだが、そんなんでホクホクなんですよ。
●(原発ができると電源三法交付金がもらえるが)その他にもらえるお金はお互いに詮索せずにおこう。裏金ですね裏金!まあ原発がくる、三法のカネは三法のカネとして貰うが、その他にはやはり地域の振興に対しての裏金よこせ、協力金をよこせ、というのがそれぞれの地域であった。
●それをどれほどもらっているかを言い出すと、あそこはこれだけ、ここはこれだけ、とエキサイトしてくる。そうなると原発も電力会社も対応できなくなってくるので、これはもうお互いに口外せず、自分は自分のとこなりにやっていこうとなる。
●例えば敦賀の場合三法で2号機のカネが7年間で42億入ってくる。これに「もんじゅ」が加わる。その危険性・・・・・うん、いやまあ、建設費は莫大ですので、入ってくるカネは60数億円になると思っているわけでございます(会場感嘆の声と溜息)
●敦賀には金ケ崎宮というお宮さんがある。随分傷んできたので、もうポッポと原電、動燃へ走って行った(会場ドッと笑い)。まあ6000万で大したカネではありませんでしたが、あっわかりましたということですぐカネがでました。それに調子づきまして今度は北陸一の宮を6億円かけて修復しようと。これは市長としての立場ではなく、高木孝一個人が奉賛会長として動いた。
●今日はここまで講演会に来たんで、新年会を金沢でやって、明日は富山の北電(北陸電力)に寄って、火力発電所を作らせてやる、1億円寄付してくれと(ドッと笑い)。こんなカネをつくるなんてわけないなあ、こういうふうに思っとる。
●まあそんなわけで短大は建つわ、高校は出来るわ、50億円で運動公園は出来るわね。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今あのカネで計画しておる。そりゃあもうタナボタ式の街づくりができるんじゃないかと。そういうことでわたしはみなさんに(原発を)お薦めしたい。これはわたしは信念を持っとる。信念!
●えーその代わりに100年経ってカタワが生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました。(会場大拍手)。
ここまで凄い暴言の羅列の講演会記録があるとは思わなかった。理念など一かけらもない。ただひたすら利権とタカリを胸をはって自慢している。50年後100年後なんて知るかと、ここまで見事に開き直ってみせると言葉も出ない。
今、原発避難者間では、原発から恩恵を受けてきた人達が声高に「補償しろ土下座しろ」と叫ぶことに違和感をおぼえるという亀裂が入り始めているらしい。
原発から何一つ恩恵を受けなかったのに、すべての生活基盤を打ち棄てただ逃げるだけしかない人々にとって、御前崎市の石原市長の「大いなるゴネ得」は、苦々しく映るだけだろう。
ちなみに、この講演会の会場となった志賀には、北陸電力の志賀原発一号機が建設され運転を開始している。
「一平おじさんのブログ」というところから転載。高木元市長の例の講演はあちこちで引用されているが、下記抜粋は、なかなか要を得ているのではないか。
なぜ、こんな「耳タコ」ネタを改めて持ってきたのか、というと、
「我々の内なる高木孝一」というものを考えてみようと思うからだ。
反原発論者の方々、反TPPの方々、反「日本会議」の方々、反「田布施システム」の方々など、日本の政治の不正や醜さを怒る方々(もちろん、私もその一人だ。)は、おそらく「自分と『彼ら』は全然違う」と信じているのではないだろうか。
では、なぜ高木孝一は敦賀市長を長年務め、その息子は「パンツ泥棒」の不名誉にも関わらず、地元民の支持で国会議員になり、大臣にまで上り詰めたのか。
私が問題視したいのは、「地元民」がこの親子を支持し続けた、ということだ。高木孝一のこの講演での暴言は、おそらく聴衆には「ウケ」たはずである。その雰囲気が、下の抜粋からも読み取れる。
つまり、ここにいたのは、ほとんどが「高木の同類」なのである。
そして、高木孝一を敦賀市長に選び、その息子を国会議員に選んだ敦賀市民も「高木の同類」なのである。とすれば、敦賀市民だけが「異常な日本人」が集まっているのか? まさかそんなはずはないだろう。つまり、「我々はみな、『高木』的なものを心に持っている」と考えるのが妥当ではないか。それが、「利益」を目の前に差し出されると発動する、というだけのことだ。
これは「一億総懺悔」的な、「糞味噌」論を提唱しているのではない。高木やら、そのもっと巨大化した存在である安倍やらを免罪するものではまったくない。
だが、これまでの「彼らは自分たちとはまったく別。彼らは汚い。自分たちはきれい」という思想による行動(自他対立思想による政治批判的言動)が、現実の上ではほとんど何一つ有益な結果をもたらしていない、ということをここで振り返って考える必要があるのではないか、と思うわけだ。
「現状から利益を得ている人々」に対し、いくら論理や道理や倫理で攻(責)めても、彼らはまったく聞く耳など持たないだろう。彼らにとっては、そういう文句は「貧乏人のひがみ」「弱い者の泣き言」としか聞こえないからだ。
つまり、結論を言うなら、「利でしか動かない者を動かすには、別の利を提供してみせるしかない」ということだ。(具体的な方策はまだ考えていない。これは一つの発想、あるいは思考素として提出するだけである。)そして、我々の中の「内なる高木」は利でしか動かないのである。要するに、立場が違えば、我々も高木と同じ行動を取る可能性は非常に大きい。ただ、高木孝一ほど露骨に、ある意味では馬鹿正直に発言しないだけである。もっとも、聖人や聖女が現実にこの世にいるならば、そういう人々は「我々」から除外する必要があるが、そういう「無邪気な」人々は最初から政治には関心を持ちそうにないし、関心を持っても政治に利用されるだけだろう。
(以下引用)
原発利権を謳歌した、高木孝一元敦賀市長の暴言講演会の記録
テーマ:原発問題
なぜ、こんな「耳タコ」ネタを改めて持ってきたのか、というと、
「我々の内なる高木孝一」というものを考えてみようと思うからだ。
反原発論者の方々、反TPPの方々、反「日本会議」の方々、反「田布施システム」の方々など、日本の政治の不正や醜さを怒る方々(もちろん、私もその一人だ。)は、おそらく「自分と『彼ら』は全然違う」と信じているのではないだろうか。
では、なぜ高木孝一は敦賀市長を長年務め、その息子は「パンツ泥棒」の不名誉にも関わらず、地元民の支持で国会議員になり、大臣にまで上り詰めたのか。
私が問題視したいのは、「地元民」がこの親子を支持し続けた、ということだ。高木孝一のこの講演での暴言は、おそらく聴衆には「ウケ」たはずである。その雰囲気が、下の抜粋からも読み取れる。
つまり、ここにいたのは、ほとんどが「高木の同類」なのである。
そして、高木孝一を敦賀市長に選び、その息子を国会議員に選んだ敦賀市民も「高木の同類」なのである。とすれば、敦賀市民だけが「異常な日本人」が集まっているのか? まさかそんなはずはないだろう。つまり、「我々はみな、『高木』的なものを心に持っている」と考えるのが妥当ではないか。それが、「利益」を目の前に差し出されると発動する、というだけのことだ。
これは「一億総懺悔」的な、「糞味噌」論を提唱しているのではない。高木やら、そのもっと巨大化した存在である安倍やらを免罪するものではまったくない。
だが、これまでの「彼らは自分たちとはまったく別。彼らは汚い。自分たちはきれい」という思想による行動(自他対立思想による政治批判的言動)が、現実の上ではほとんど何一つ有益な結果をもたらしていない、ということをここで振り返って考える必要があるのではないか、と思うわけだ。
「現状から利益を得ている人々」に対し、いくら論理や道理や倫理で攻(責)めても、彼らはまったく聞く耳など持たないだろう。彼らにとっては、そういう文句は「貧乏人のひがみ」「弱い者の泣き言」としか聞こえないからだ。
つまり、結論を言うなら、「利でしか動かない者を動かすには、別の利を提供してみせるしかない」ということだ。(具体的な方策はまだ考えていない。これは一つの発想、あるいは思考素として提出するだけである。)そして、我々の中の「内なる高木」は利でしか動かないのである。要するに、立場が違えば、我々も高木と同じ行動を取る可能性は非常に大きい。ただ、高木孝一ほど露骨に、ある意味では馬鹿正直に発言しないだけである。もっとも、聖人や聖女が現実にこの世にいるならば、そういう人々は「我々」から除外する必要があるが、そういう「無邪気な」人々は最初から政治には関心を持ちそうにないし、関心を持っても政治に利用されるだけだろう。
(以下引用)
原発利権を謳歌した、高木孝一元敦賀市長の暴言講演会の記録
テーマ:原発問題
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