社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1058880547.html
<転載開始>
【戦争での殺人行為は違法ではなく,軍事費は「人を殺すために準備される国家予算」である】
【目的と手段の関係においても,厳密な議論を要する問題を,感情論で裁くのは稚拙な理解である】
【安倍晋三君は自衛隊員の本音を判っていない】
① 軍事費が「人を殺す予算」であるといって,なにも悪いこともおかしいこともない
1)「『人を殺す予算』共産議員が発言 防衛費めぐり,後に撤回」(『朝日新聞』2016年6月27日朝刊3面)
共産党衆院議員の藤野保史(やすふみ)政策委員長は6月26日,NHKの討論番組で,防衛予算について「人を殺すための予算」と語った。藤野氏は同日夕,党広報部を通じて文書で「不適切であり,とり消す」と発言を撤回した。
番組には各党の政策責任者が出演した。藤野氏は防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘したさい,「人を殺すための予算ではなく,人を支え,育てる予算を優先していく」と述べた。その場で公明党議員らが発言の撤回を求めたが,藤野氏は応じなかった。
番組終了後の同日夕,藤野氏は文書で「海外派兵用の武器・装備が拡大していることを念頭においたものだったが,発言はそうした限定をつけずに述べており不適切」などと釈明した。
補注)この釈明は意味不詳である。ここでいわれる〈限定〉そのものが,まったく不要物であるからである。藤野が発言を撤回したのは,参議院選挙を目前に控えて野党への票を逃がすとまずいという判断があったようである。
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1058880547.html
<転載開始>
【戦争での殺人行為は違法ではなく,軍事費は「人を殺すために準備される国家予算」である】
【目的と手段の関係においても,厳密な議論を要する問題を,感情論で裁くのは稚拙な理解である】
【安倍晋三君は自衛隊員の本音を判っていない】
① 軍事費が「人を殺す予算」であるといって,なにも悪いこともおかしいこともない
1)「『人を殺す予算』共産議員が発言 防衛費めぐり,後に撤回」(『朝日新聞』2016年6月27日朝刊3面)
共産党衆院議員の藤野保史(やすふみ)政策委員長は6月26日,NHKの討論番組で,防衛予算について「人を殺すための予算」と語った。藤野氏は同日夕,党広報部を通じて文書で「不適切であり,とり消す」と発言を撤回した。
番組には各党の政策責任者が出演した。藤野氏は防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘したさい,「人を殺すための予算ではなく,人を支え,育てる予算を優先していく」と述べた。その場で公明党議員らが発言の撤回を求めたが,藤野氏は応じなかった。
番組終了後の同日夕,藤野氏は文書で「海外派兵用の武器・装備が拡大していることを念頭においたものだったが,発言はそうした限定をつけずに述べており不適切」などと釈明した。
補注)この釈明は意味不詳である。ここでいわれる〈限定〉そのものが,まったく不要物であるからである。藤野が発言を撤回したのは,参議院選挙を目前に控えて野党への票を逃がすとまずいという判断があったようである。
2)「共産政策委員長,辞任『人殺す予算』発言」(『朝日新聞』2016年6月29日朝刊4面)
共産党の藤野保史(やすふみ)政策委員長(46歳)は6月28日,防衛予算について「人を殺すための予算」と発言した責任を取り,政策委員長を辞任した。藤野氏は会見で「党の方針と異なる誤った発言で,結果として自衛隊のみなさんを傷つけたことを深く反省し,国民のみなさんに心からおわび申し上げる」と述べた。同委員長は当面,小池晃書記局長が兼任する。
藤野氏は6月26日のNHKの討論番組で,防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘したさい,「人を殺すための予算ではなく,人を支え,育てる予算を優先していく」と発言。同日夕には党広報部を通じて「不適切でありとり消す」との文書を出し,発言を撤回したが,自民,公明両党の批判の的となった。安倍晋三首相は26日,甲府市での演説で「自衛隊に対する最大の侮辱だ」と指摘した。
補注)この発言は「★軍事費」と「☆そのほかの予算」の項目を並べて表現しただけのものであり,なんら問題はない。「殺す」ということばを使ったからいけないというのは,単なる感情論である。つぎの画像を参照しても考えてみたいところである。これは2015年度予算案であり,5兆円に達していないとき。
藤野氏は衆院当選1回。今〔2016〕年4月,政策委員長に抜擢(ばってき)されたばかりだった。
② 防衛費(軍事費:国防予算)は「人を殺すための予算」であるといって間違いはない
① の報道記事(2つ)に接して仰天した。以前,民主党の幹部議員が軍隊(自衛隊)は「暴力装置」だといったときも,たいそうな非難(批判)が巻き起こり,社会的にも関心を惹いていた。そんなふうな,世間を騒がす事態になっていた。しかし,軍隊(自衛隊)が暴力装置であることは,事実として自明過ぎるほどに自明である。
暴力装置性を欠いたら軍隊になりえず,武器や兵器,そして訓練された兵士もいてこその軍隊である。軍隊は戦争に従事する国家組織であるから,暴力装置なしに成立しえない。しかも,暴力装置というのはたしかに,もっぱら「人を殺す」ため道具や手段を意味している。憲法第9条などの問題をいかに議論するかといった論点とはまた別に,ひとまず無関係にいえる真実である。
1)カール・フォン・クラウゼヴィッツに聞くまでもないが……
クラウゼヴィッツの『戦争論』(原著1832年。日本語訳は,徳間書店,1965年。岩波書店,1979年。芙蓉書房出版,2001年。PHP研究所,2011年)は,「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と定義,説明した。
a) つまり,政治は,⇒戦争でもあり,⇒「敵国の破壊・敵国の軍隊を破る」こと,⇒「敵国の兵員を殺し,兵器を破砕し,国家そのものも損壊させる」ことである。そうやってから,相手国=敵国を屈服させることにもなる。
その事態は1945年8月(9月)に日本も体験した。軍人だけが戦争の犠牲者ではなかった。空襲もあり原爆あり,であった。つまり,政治のなかにはその延長線上において,戦争=人を殺す行為も予定されている。これは想像の話ではなく,現実に歴史のなかで反復されてきた事実に関する説明である。
b) たとえば,アメリカによる湾岸戦争(1990年8月),イラク戦争(2003年3月開始)を思いだしてみればよい,すぐに理解できるはずである。ただし,アメリカがもくろんだどおりに,政治の領域における目的を達成できたかといえば,必ずしもそのとおりにはいかなかった要素が数多く残されている。ISは,その後遺症的な悪影響から生まれたテロ・ゲリラ国である。テロの問題は最後に触れる。
2) 「戦争論」は現代に応用できるのか?
クラウゼヴィッツの理論は,現代にも応用できるのかという議論は,学者の間でも意見が分かれるところである。たとえば,クラウゼヴィッツは「攻撃に対する防御の優位性」を説いている。だが,核兵器の出現で,攻撃側の破壊力を防御することができなくなった(この関連には北朝鮮の問題もあり,あとで言及する)。
冷戦中の核兵器軍拡競争でできあがった相互確証破壊(MAD),最近まで続いていたABM条約は,核兵器からおたがいを防御しないことで平和を保とうとするような,クラウゼヴィッツの時代には考えられない安全保障のあり方を生みだした。
今後も軍事革命(RMA)によって,伝統的な戦争とはまったく違ったタイプの戦争が生まれる(たとえば人間自身は戦わない,マシンのみによる戦争など)ことも考えられる。また,現代のように,NGO・宗教・テロリストなど,非国家主体が国際社会において重要な行動主体となることは,クラウゼヴィッツの想像だにしなかったところである。
一方で,戦争の形態がどんなに変わっても,クラウゼヴィッツが分析したとおり,戦争にかかわって起こる現象の数々はかわらない,ともいえる。たとえば,どんなに高度な技術を開発しても,予期しない出来事「摩擦」を防ぐことは大変困難なことであるし,さらには「政治の継続としての戦争」という基本命題は,いまでも多くの場合適用することができる。
註記)この 2) は,http://www.securitygirl.net/clausewitz.html 参照。
3) 日本国防衛省自衛隊3軍
防衛予算(軍事費:国防予算)で維持・運営されている防衛省自衛隊3軍が,いざ戦争になったとき,いまでは安保関連法が施行されてもいるのだから,アメリカ軍のうしろについてまわる軍隊となって,この日本の自衛隊もいよいよ,軍隊・軍人らしく「人を殺す」任務を回避できない軍事環境を,みずから整備した。
それは安倍晋三君の功績である(ただしマイナスのそれ)。だから,防衛予算を「人を殺す」ための予算といってなにもおかしいことはなく,ましてや間違いでもなんでもない。その本質面に控えている「実際的な事象」を,より正確に抽出し,ことばにして表現したに過ぎない。
ただし,その表現方法があまりにも直截的で聞きづらいのだという向きには(「人を殺す」というからといって……),こう考えてもらえばよい。警察組織に属する公的人間は,「正当防衛」的であれば「人を殺す」こともありうるということは,簡単に理解してもらえるはずである。刃向かってきた犯人の足を射撃したところ,この犯人が出血多量で死んだ事例は,すでに発生している。警察官も「人を殺す」ための武器(小火器中でも一番小さい拳銃だが)をいつも携行して仕事をしている。心臓を狙って撃てば相手は即死する。
註記)画像は日本の警察官などが携行しているニューナンブM60。1960年から生産をはじめ,1990年に製造中止になっているが,いまも多く使用されている(ウィキペディア参照)。
しかし,自衛隊は軍隊であるから,必要・場合に応じては「人を殺す」任務を果たさねばならない場面にも遭遇させられる。自衛隊員は「人を殺す」ことを完全に回避できる職種ではなく,真正面からそれも向き合う状況に立たされて,不思議ではない。当然である。はじめから「人を殺す」事態を想定しつつ,これを絶対に回避できない任務に従事している。それが「軍隊である自衛隊」の役目・仕事であり,ときに目前で果たすべき直接の,不可避の目的ともなる。
この基本的な関係に目をつむり,「人を殺す」ための予算が防衛費だといって,非難される筋合いはなにもない。おかしいことはない。おかしいというほうがおかしい。「人を殺さない」と戦争に勝てない。敵方が戦場において戦闘状態が不利になったときに降伏するのは,「殺されるのが怖い」し,なんといっても「殺されたくない」からである。殺しあいが戦争の本質から生まれている現象であり,その行為のために必要だとして調達されるのが防衛費(軍事費:国防予算)である。キレイごとで戦争経費の問題を語るわけにはいくまい。
こういうことである。戦闘機同士が格闘すると,どちらかが撃墜される。そのとき,乗員はうまく脱出しないと死ぬ,すなわち殺される(その前に機関砲やミサイルで直接殺されているかもしれない)。軍艦(日本なら海上自衛隊の護衛艦)が某国の艦艇からいきなり攻撃を受けたさいは,集団的自衛権行使以前の問題として,個別的自衛権の行使でもって反撃できる。そのさい,自衛隊の軍艦がさきに攻撃を受けたとして,艦橋に敵艦のミサイルが命中し,艦長以下,そこに居た全員が死んだとする。その事態は,敵の攻撃によって「わが国の海上自衛隊員が殺された」のであるから,相手:某国側の艦艇からすれば「人を殺した」ことになる。
こうして敵と味方が「殺し・殺される」事態は,戦争事態を常時想定して存在している軍隊組織にとってみれば,しごく当たりまえに覚悟を要する犠牲(意味関連)である。戦争事態になれば,その当事国である敵国同士はたがいの戦闘行為のなかで,とくに兵員が死亡する(殺される)現象は,当然のように事前に覚悟しておくべき戦力の消耗問題となる。敵をやっつけるためには,敵軍の兵器(戦闘機だ軍艦だ戦車だといったもの)と兵員(将校と下士官と兵卒)などを,ともかく先に効率的に撃滅しておく必要がある。
要は,どうみても〈殺し合い〉である。
つまり,相手国の兵器と兵員をなるべく多く破壊し,死滅させておかねば戦争には勝てない。日本国防衛省の自衛隊だけがそうした戦争の行為と無縁であるわけがない。いまでは,安保関連法が施行されているからには,これまでの自衛隊の戦闘のしかたとはちがった,戦争行為全般を「ふつうの国」ふうに実行できる国家体制になっている。
いいかえれば,「人を殺す」ことに関して以前のように,警察官の職務執行に似せたような武器の使用法にこだわっていた制限が,完全にとっぱらわれた軍隊に自衛隊は「なれた」といってよい。それでもまだ,安保関連法で許されるのは正当防衛論の範囲内だと詭弁する者もいる。だが,そこまでいうのであれば「攻撃は最大の防御」という理屈や,ともかく「国防軍が隣国を侵略してきた歴史」の事実を,もっと正視した議論が要求される。「自衛のための戦争」という理屈が正論あつかいもされてきたのである。
4) 核兵器
戦争が「政治の目的」のために「手段として使われる外交の方法」だとしても,結局は「人を殺す」戦争である事実を合理化できる政治の機能に仕えながらも,それじたいが目的であるかのようなところまでぎりぎりに,その目的性を有している。原水爆を想起してみればよいのである。戦争に勝つためにこの核兵器が最大限に生かされている。
北朝鮮が核兵器を手離さないのは,その典型的事例である。北朝鮮の政治目的のための核兵器やこれを運ぶためのミサイル開発に必死であるのは,換言すれば「人を殺す」ための兵器造りに熱心なのは,そうしなければ,北朝鮮というちっぽけな国家は,アメリカが本気で総攻撃したらひとたまりもないと事前に計算され,承知しているからである。
そこで,北朝鮮人民の大部分は飢えて困っても,そのような国情などさておいて,ともかく核兵器開発1点ばりである。核兵器は人殺しためであれば,最高の能率を誇れる兵器である。政治=軍事のためには,非常に有効性の高い兵器である。第2次大戦の末期にアメリカが核兵器を製造できたときの自信のほどを思いだしてみる余地がある。
むろん「政治⇒軍事」からだけで戦争の関連性しかみないとしたら,国際政治に対する短絡した観点になってしまう。外交としての国際政治の役割・余地が大いに存在しているからである。しかし,この外交のあり方そのものがくせものである。軍事問題といつも絡めて利用(悪用)されたり,あるいは外交の駆け引きそのものが軍事的な次元に引きずりこまれたりもする。
5) 戦争の意味そのものは「人を殺さねば」うまく発動できない
ヒトラーがオーストリアなどを併合したとき,外交交渉でそれを実現していたが,両国間にある圧倒的な軍事力の格差が背景にあった。いうことを聞かねば戦争が起こり,オマエの国の人間がたくさん死ぬぞと脅迫した。いいかえれば「戦争で貴国の多くの〈人を殺す〉ぞ」という脅しをもっての,戦争なしでの侵略行為であった。
軍隊の任務(仕事)は有事のさい効率的に敵軍を破砕し,敵国の兵器もできるだけ多く破壊することであるゆえ,そのさい,敵の軍人を殺すことは当たりまえも当たりまえであって,いかに多くの敵兵を死滅させ敗退させるかが重要となる。
防衛予算(軍事費:国防予算)を「人を殺す」ための予算だといっていけない理由はなにもない。直接的にそう正直にいったら問題であって,間接的にほかの表現でいえばいいというような「性質の論点」でもない。自衛隊員も常時,戦闘行為(殺人をいかに効率的に遂行するかという課題)のための訓練をしている。小銃を撃つとき「いったいなにを狙って撃鉄を打つ」のか? 敵兵である。チョウチョウや雀を撃つなら空気銃で十分であるし,場合によってはパチンコで足りる。
出所)右側顔図は古典的な武器であるパチンコ,https://gascar-shunt.tumblr.com/post/56108992109/武具-パチンコ/
北朝鮮がデポドンなどを日本を横断する経路で発射させようとするとき,日本側は自衛隊に迎撃用の地対空ミサイルを運用させているが,これはいったいなんのためにおこなっているのか? 日本国民を「殺させない」ためである。もちろん,その前に国家の枢要施設が破壊されるような事態を事前に回避するためである。具体的にいま,日本の自衛隊が北朝鮮からのミサイルを迎撃できるのは,以下の兵器であるが,しかし,その軍事的な有効性に関しては疑問が大きい。
◆-1「実際に配備されている」のが,つぎの兵器。
海上自衛隊のイージス艦からの「SM-3」での迎撃
航空自衛隊のペトリオットから発射する「PAC-3」での迎撃
◆-2「日本にはまだ配備されていない」のが,つぎの兵器である。アメリカにはPAC-3より高高度で迎撃できる「THAAD」も配備されているが,日本には導入されていない。
6) 特攻隊(特攻攻撃)
特攻隊とは,「人を殺す」ための軍隊が,自軍の兵員を兵器と一緒に殺してしまう方法で,敵国の兵器を破壊し,兵員を殺すための戦法である。だが,自国兵員はなるべく「戦争で殺さない」ようにし,「敵国兵員をできるかぎり多く殺す」という戦争の基本原則からは,大きく外れる戦法がこの特攻隊の特攻攻撃〔とこれに充てられる兵器の使用法〕である。
そもそも,負け戦である結果が判明していたからこそ,その特攻隊は案出された戦法であったが,ここまでに戦争が至ると,クラウゼヴィッツの戦争論の範囲からは,予知不能の戦争事態が生まれていたことになる。
7) テロという戦争形態
本日〔2016年6月29日日本時間〕になると,またもやトルコで自爆テロが発生したというニュースが報道されていた。
③ 軍隊組織の本質をなにも判らぬ安倍晋三君が自衛隊の任務・仕事を語るなかれ
はじめの話題に戻る。本日の記述の主題は,「防衛費(軍事費:国防予算)が「人を殺す予算」でないと理屈で説明できる者はどこにもいない-奇妙奇天烈なやりとりがなされる日本の政界の奇怪さ-」と名づけていた。その理屈にもならないような〈いいぶん〉は,「防衛費は『人を殺す』ための予算」ではないという1点を,まっとうに説明できているのか?
「軍事費・防衛予算」は,戦争行為(国際法上規定されている)「殺人行為・破壊行為」を合法的におこなうために必要な人員や物的な装備を調達するための財政問題である。戦争において「人を殺す」ことは犯罪ではない。そのための防衛費でもある。軍隊としては,「人を殺す」ことを回避できないのが,当然の任務・仕事である。
このことに関して,日本の自衛隊3軍を,他国の軍隊とを比較してみるに,いまでは基本的になんら変わる点のない軍隊に変身した。この自衛隊の変身を強いたのは,ほかならぬ安倍晋三首相である。この点を自己認識できていないこの人であるゆえ,後段のようなヘンテコな自衛隊に関する感情論を吐いている。
いざとなれば「人を殺す」のが自衛隊の本務である。このあまりにも当然である軍事問題を,奇妙にもこねくりまわして問題にするこの国の,それも政治家たちがいる。この人たちは,政治も戦争もなにも,その初歩から判っていないということになる。新聞報道も,優秀な記者たちを大勢かかえていながら,以上に述べたような論点に言及していないようである。
さて,安倍晋三首相は〔早速,6月〕26日午後,長野県茅野市のJR茅野駅前で演説し,共産党の藤野保史政策委員長が同日のNHK番組で防衛費に関して「人を殺すための予算」と発言したことについて,「とんでもない侮辱ではないか」と強く非難した(http://www.sankei.com/politics/news/160626/plt1606260030-n1.html)と報じられていたが,これこそ,とんでもなくも〈無理解の発言〉である。
国家予算の問題と自衛隊の任務・仕事の問題とは別個に配慮すべき問題である。自衛隊員がたとえば,戦闘行為の現場で相手を攻撃し,殺したら,そして,この事実〔戦場で敵を射殺した・人を殺したこと〕を他者が指摘したら「侮辱したことになるのか」。自衛隊員としての仕事・任務を遂行したに過ぎない。
出所)右側画像は,迷彩服を着て10式戦車-陸上自衛隊の4代目となる最新国産主力戦車-に乗った自衛隊の最高指揮官,安倍晋三首相(千葉市美浜区の幕張メッセで2013年4月27日午後4時過ぎ),『毎日新聞 ウェブ版』2013年4月27日 22時12分。
この人(首相)は,いったいどういう脳内細胞の機能発揮による議論(にもならない発言)をしているのか? 自衛隊員は軍人であるかぎり,安倍晋三君が施行してくれた安保関連法のせいで,場合によっては本格的な戦闘がおこなわれている戦場に送りこまれる可能性が出てきた。
安保関連法のなかには「抗命罪」も設けられた。上官に反抗する,つまり命令に従わない隊員は罪に問われる法律が正式に用意された。なぜ,こういう法律が置かれるようになったかといえば,戦場・戦闘という〈実際的な想定〉を踏まえての,自軍において「人を殺す」という行為・場面に対して「規律・統制の強化」が必要になったからである。
共産党の藤野保史(やすふみ)政策委員長(46歳)は6月28日,防衛予算について「人を殺すための予算」と発言した責任を取り,政策委員長を辞任した。藤野氏は会見で「党の方針と異なる誤った発言で,結果として自衛隊のみなさんを傷つけたことを深く反省し,国民のみなさんに心からおわび申し上げる」と述べた。同委員長は当面,小池晃書記局長が兼任する。
藤野氏は6月26日のNHKの討論番組で,防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘したさい,「人を殺すための予算ではなく,人を支え,育てる予算を優先していく」と発言。同日夕には党広報部を通じて「不適切でありとり消す」との文書を出し,発言を撤回したが,自民,公明両党の批判の的となった。安倍晋三首相は26日,甲府市での演説で「自衛隊に対する最大の侮辱だ」と指摘した。
補注)この発言は「★軍事費」と「☆そのほかの予算」の項目を並べて表現しただけのものであり,なんら問題はない。「殺す」ということばを使ったからいけないというのは,単なる感情論である。つぎの画像を参照しても考えてみたいところである。これは2015年度予算案であり,5兆円に達していないとき。
出所)http://free-autotrade.blog.so-net.ne.jp/2015-01-15
藤野氏は衆院当選1回。今〔2016〕年4月,政策委員長に抜擢(ばってき)されたばかりだった。
② 防衛費(軍事費:国防予算)は「人を殺すための予算」であるといって間違いはない
① の報道記事(2つ)に接して仰天した。以前,民主党の幹部議員が軍隊(自衛隊)は「暴力装置」だといったときも,たいそうな非難(批判)が巻き起こり,社会的にも関心を惹いていた。そんなふうな,世間を騒がす事態になっていた。しかし,軍隊(自衛隊)が暴力装置であることは,事実として自明過ぎるほどに自明である。
暴力装置性を欠いたら軍隊になりえず,武器や兵器,そして訓練された兵士もいてこその軍隊である。軍隊は戦争に従事する国家組織であるから,暴力装置なしに成立しえない。しかも,暴力装置というのはたしかに,もっぱら「人を殺す」ため道具や手段を意味している。憲法第9条などの問題をいかに議論するかといった論点とはまた別に,ひとまず無関係にいえる真実である。
1)カール・フォン・クラウゼヴィッツに聞くまでもないが……
クラウゼヴィッツの『戦争論』(原著1832年。日本語訳は,徳間書店,1965年。岩波書店,1979年。芙蓉書房出版,2001年。PHP研究所,2011年)は,「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と定義,説明した。
出所)これは馬込健之輔訳で,岩波書店 1933年の訳本,
http://chirindote.exblog.jp/21545360/
a) つまり,政治は,⇒戦争でもあり,⇒「敵国の破壊・敵国の軍隊を破る」こと,⇒「敵国の兵員を殺し,兵器を破砕し,国家そのものも損壊させる」ことである。そうやってから,相手国=敵国を屈服させることにもなる。
その事態は1945年8月(9月)に日本も体験した。軍人だけが戦争の犠牲者ではなかった。空襲もあり原爆あり,であった。つまり,政治のなかにはその延長線上において,戦争=人を殺す行為も予定されている。これは想像の話ではなく,現実に歴史のなかで反復されてきた事実に関する説明である。
b) たとえば,アメリカによる湾岸戦争(1990年8月),イラク戦争(2003年3月開始)を思いだしてみればよい,すぐに理解できるはずである。ただし,アメリカがもくろんだどおりに,政治の領域における目的を達成できたかといえば,必ずしもそのとおりにはいかなかった要素が数多く残されている。ISは,その後遺症的な悪影響から生まれたテロ・ゲリラ国である。テロの問題は最後に触れる。
2) 「戦争論」は現代に応用できるのか?
クラウゼヴィッツの理論は,現代にも応用できるのかという議論は,学者の間でも意見が分かれるところである。たとえば,クラウゼヴィッツは「攻撃に対する防御の優位性」を説いている。だが,核兵器の出現で,攻撃側の破壊力を防御することができなくなった(この関連には北朝鮮の問題もあり,あとで言及する)。
冷戦中の核兵器軍拡競争でできあがった相互確証破壊(MAD),最近まで続いていたABM条約は,核兵器からおたがいを防御しないことで平和を保とうとするような,クラウゼヴィッツの時代には考えられない安全保障のあり方を生みだした。
今後も軍事革命(RMA)によって,伝統的な戦争とはまったく違ったタイプの戦争が生まれる(たとえば人間自身は戦わない,マシンのみによる戦争など)ことも考えられる。また,現代のように,NGO・宗教・テロリストなど,非国家主体が国際社会において重要な行動主体となることは,クラウゼヴィッツの想像だにしなかったところである。
一方で,戦争の形態がどんなに変わっても,クラウゼヴィッツが分析したとおり,戦争にかかわって起こる現象の数々はかわらない,ともいえる。たとえば,どんなに高度な技術を開発しても,予期しない出来事「摩擦」を防ぐことは大変困難なことであるし,さらには「政治の継続としての戦争」という基本命題は,いまでも多くの場合適用することができる。
註記)この 2) は,http://www.securitygirl.net/clausewitz.html 参照。
3) 日本国防衛省自衛隊3軍
防衛予算(軍事費:国防予算)で維持・運営されている防衛省自衛隊3軍が,いざ戦争になったとき,いまでは安保関連法が施行されてもいるのだから,アメリカ軍のうしろについてまわる軍隊となって,この日本の自衛隊もいよいよ,軍隊・軍人らしく「人を殺す」任務を回避できない軍事環境を,みずから整備した。
それは安倍晋三君の功績である(ただしマイナスのそれ)。だから,防衛予算を「人を殺す」ための予算といってなにもおかしいことはなく,ましてや間違いでもなんでもない。その本質面に控えている「実際的な事象」を,より正確に抽出し,ことばにして表現したに過ぎない。
ただし,その表現方法があまりにも直截的で聞きづらいのだという向きには(「人を殺す」というからといって……),こう考えてもらえばよい。警察組織に属する公的人間は,「正当防衛」的であれば「人を殺す」こともありうるということは,簡単に理解してもらえるはずである。刃向かってきた犯人の足を射撃したところ,この犯人が出血多量で死んだ事例は,すでに発生している。警察官も「人を殺す」ための武器(小火器中でも一番小さい拳銃だが)をいつも携行して仕事をしている。心臓を狙って撃てば相手は即死する。
註記)画像は日本の警察官などが携行しているニューナンブM60。1960年から生産をはじめ,1990年に製造中止になっているが,いまも多く使用されている(ウィキペディア参照)。
しかし,自衛隊は軍隊であるから,必要・場合に応じては「人を殺す」任務を果たさねばならない場面にも遭遇させられる。自衛隊員は「人を殺す」ことを完全に回避できる職種ではなく,真正面からそれも向き合う状況に立たされて,不思議ではない。当然である。はじめから「人を殺す」事態を想定しつつ,これを絶対に回避できない任務に従事している。それが「軍隊である自衛隊」の役目・仕事であり,ときに目前で果たすべき直接の,不可避の目的ともなる。
この基本的な関係に目をつむり,「人を殺す」ための予算が防衛費だといって,非難される筋合いはなにもない。おかしいことはない。おかしいというほうがおかしい。「人を殺さない」と戦争に勝てない。敵方が戦場において戦闘状態が不利になったときに降伏するのは,「殺されるのが怖い」し,なんといっても「殺されたくない」からである。殺しあいが戦争の本質から生まれている現象であり,その行為のために必要だとして調達されるのが防衛費(軍事費:国防予算)である。キレイごとで戦争経費の問題を語るわけにはいくまい。
こういうことである。戦闘機同士が格闘すると,どちらかが撃墜される。そのとき,乗員はうまく脱出しないと死ぬ,すなわち殺される(その前に機関砲やミサイルで直接殺されているかもしれない)。軍艦(日本なら海上自衛隊の護衛艦)が某国の艦艇からいきなり攻撃を受けたさいは,集団的自衛権行使以前の問題として,個別的自衛権の行使でもって反撃できる。そのさい,自衛隊の軍艦がさきに攻撃を受けたとして,艦橋に敵艦のミサイルが命中し,艦長以下,そこに居た全員が死んだとする。その事態は,敵の攻撃によって「わが国の海上自衛隊員が殺された」のであるから,相手:某国側の艦艇からすれば「人を殺した」ことになる。
こうして敵と味方が「殺し・殺される」事態は,戦争事態を常時想定して存在している軍隊組織にとってみれば,しごく当たりまえに覚悟を要する犠牲(意味関連)である。戦争事態になれば,その当事国である敵国同士はたがいの戦闘行為のなかで,とくに兵員が死亡する(殺される)現象は,当然のように事前に覚悟しておくべき戦力の消耗問題となる。敵をやっつけるためには,敵軍の兵器(戦闘機だ軍艦だ戦車だといったもの)と兵員(将校と下士官と兵卒)などを,ともかく先に効率的に撃滅しておく必要がある。
要は,どうみても〈殺し合い〉である。
つまり,相手国の兵器と兵員をなるべく多く破壊し,死滅させておかねば戦争には勝てない。日本国防衛省の自衛隊だけがそうした戦争の行為と無縁であるわけがない。いまでは,安保関連法が施行されているからには,これまでの自衛隊の戦闘のしかたとはちがった,戦争行為全般を「ふつうの国」ふうに実行できる国家体制になっている。
いいかえれば,「人を殺す」ことに関して以前のように,警察官の職務執行に似せたような武器の使用法にこだわっていた制限が,完全にとっぱらわれた軍隊に自衛隊は「なれた」といってよい。それでもまだ,安保関連法で許されるのは正当防衛論の範囲内だと詭弁する者もいる。だが,そこまでいうのであれば「攻撃は最大の防御」という理屈や,ともかく「国防軍が隣国を侵略してきた歴史」の事実を,もっと正視した議論が要求される。「自衛のための戦争」という理屈が正論あつかいもされてきたのである。
4) 核兵器
戦争が「政治の目的」のために「手段として使われる外交の方法」だとしても,結局は「人を殺す」戦争である事実を合理化できる政治の機能に仕えながらも,それじたいが目的であるかのようなところまでぎりぎりに,その目的性を有している。原水爆を想起してみればよいのである。戦争に勝つためにこの核兵器が最大限に生かされている。
北朝鮮が核兵器を手離さないのは,その典型的事例である。北朝鮮の政治目的のための核兵器やこれを運ぶためのミサイル開発に必死であるのは,換言すれば「人を殺す」ための兵器造りに熱心なのは,そうしなければ,北朝鮮というちっぽけな国家は,アメリカが本気で総攻撃したらひとたまりもないと事前に計算され,承知しているからである。
そこで,北朝鮮人民の大部分は飢えて困っても,そのような国情などさておいて,ともかく核兵器開発1点ばりである。核兵器は人殺しためであれば,最高の能率を誇れる兵器である。政治=軍事のためには,非常に有効性の高い兵器である。第2次大戦の末期にアメリカが核兵器を製造できたときの自信のほどを思いだしてみる余地がある。
むろん「政治⇒軍事」からだけで戦争の関連性しかみないとしたら,国際政治に対する短絡した観点になってしまう。外交としての国際政治の役割・余地が大いに存在しているからである。しかし,この外交のあり方そのものがくせものである。軍事問題といつも絡めて利用(悪用)されたり,あるいは外交の駆け引きそのものが軍事的な次元に引きずりこまれたりもする。
5) 戦争の意味そのものは「人を殺さねば」うまく発動できない
ヒトラーがオーストリアなどを併合したとき,外交交渉でそれを実現していたが,両国間にある圧倒的な軍事力の格差が背景にあった。いうことを聞かねば戦争が起こり,オマエの国の人間がたくさん死ぬぞと脅迫した。いいかえれば「戦争で貴国の多くの〈人を殺す〉ぞ」という脅しをもっての,戦争なしでの侵略行為であった。
軍隊の任務(仕事)は有事のさい効率的に敵軍を破砕し,敵国の兵器もできるだけ多く破壊することであるゆえ,そのさい,敵の軍人を殺すことは当たりまえも当たりまえであって,いかに多くの敵兵を死滅させ敗退させるかが重要となる。
防衛予算(軍事費:国防予算)を「人を殺す」ための予算だといっていけない理由はなにもない。直接的にそう正直にいったら問題であって,間接的にほかの表現でいえばいいというような「性質の論点」でもない。自衛隊員も常時,戦闘行為(殺人をいかに効率的に遂行するかという課題)のための訓練をしている。小銃を撃つとき「いったいなにを狙って撃鉄を打つ」のか? 敵兵である。チョウチョウや雀を撃つなら空気銃で十分であるし,場合によってはパチンコで足りる。
出所)右側顔図は古典的な武器であるパチンコ,https://gascar-shunt.tumblr.com/post/56108992109/武具-パチンコ/
北朝鮮がデポドンなどを日本を横断する経路で発射させようとするとき,日本側は自衛隊に迎撃用の地対空ミサイルを運用させているが,これはいったいなんのためにおこなっているのか? 日本国民を「殺させない」ためである。もちろん,その前に国家の枢要施設が破壊されるような事態を事前に回避するためである。具体的にいま,日本の自衛隊が北朝鮮からのミサイルを迎撃できるのは,以下の兵器であるが,しかし,その軍事的な有効性に関しては疑問が大きい。
◆-1「実際に配備されている」のが,つぎの兵器。
海上自衛隊のイージス艦からの「SM-3」での迎撃
航空自衛隊のペトリオットから発射する「PAC-3」での迎撃
◆-2「日本にはまだ配備されていない」のが,つぎの兵器である。アメリカにはPAC-3より高高度で迎撃できる「THAAD」も配備されているが,日本には導入されていない。
出所)画像は,http://matsuuracity.com/?p=1917
(画面 クリックで 拡大・可)
以上のうち◆-1は実際に発射されたことはない,◆-2はミサイルに対してはたして,有効性ある迎撃をできるかどうか疑問が大きい。北朝鮮がミサイルを発射することが事前が分かったときは,必らずこのペトリオットが引き出されてあちこちに配置されているが,何カ所かに置いたところでほとんど意味のない兵器である。(画面 クリックで 拡大・可)
6) 特攻隊(特攻攻撃)
特攻隊とは,「人を殺す」ための軍隊が,自軍の兵員を兵器と一緒に殺してしまう方法で,敵国の兵器を破壊し,兵員を殺すための戦法である。だが,自国兵員はなるべく「戦争で殺さない」ようにし,「敵国兵員をできるかぎり多く殺す」という戦争の基本原則からは,大きく外れる戦法がこの特攻隊の特攻攻撃〔とこれに充てられる兵器の使用法〕である。
そもそも,負け戦である結果が判明していたからこそ,その特攻隊は案出された戦法であったが,ここまでに戦争が至ると,クラウゼヴィッツの戦争論の範囲からは,予知不能の戦争事態が生まれていたことになる。
7) テロという戦争形態
本日〔2016年6月29日日本時間〕になると,またもやトルコで自爆テロが発生したというニュースが報道されていた。
自爆テロは,日本帝国が編み出した戦術である特攻隊の現代版(発展形態)であるが,「人を殺す」ためであれば「自分も平気に死ぬ覚悟(殺されるつもり)」でのテロ敢行である。もちろんのこと,テロ自爆行為に走る人びとも政治目的を抱いている。そのためにテロをおこなっている。政治が人を殺すことと無関係どころかが,まったくイコールに近いところに位置している。☆ トルコ主要空港の自爆攻撃で36人死亡,首相「IS関与か」☆
=[イスタンブール 6月28日 ロイター]=
トルコのアタテュルク国際空港で6月28日に起きた自爆攻撃について,ユルドゥルム首相は,現場の状況などから過激派組織「イスラム国(IS)」の犯行である可能性があると述べた。
首相は現場で記者団に対し「これまでに36人が死亡し,負傷者は多数出ている」と説明。重傷者もいると明らかにした。当局によると,負傷者は150人近くに上っている。
ある当局者は死亡者について。大半がトルコ人だが外国人も含まれていると述べた。ただ,死傷者の国籍など詳しいことは分かっていない,としている。NTVは,当局は3回の爆発があったとしており,3人が自爆したとみていると伝えた。
註記)http://jp.reuters.com/article/turkey-blast-idJPKCN0ZE2SJ
③ 軍隊組織の本質をなにも判らぬ安倍晋三君が自衛隊の任務・仕事を語るなかれ
はじめの話題に戻る。本日の記述の主題は,「防衛費(軍事費:国防予算)が「人を殺す予算」でないと理屈で説明できる者はどこにもいない-奇妙奇天烈なやりとりがなされる日本の政界の奇怪さ-」と名づけていた。その理屈にもならないような〈いいぶん〉は,「防衛費は『人を殺す』ための予算」ではないという1点を,まっとうに説明できているのか?
「軍事費・防衛予算」は,戦争行為(国際法上規定されている)「殺人行為・破壊行為」を合法的におこなうために必要な人員や物的な装備を調達するための財政問題である。戦争において「人を殺す」ことは犯罪ではない。そのための防衛費でもある。軍隊としては,「人を殺す」ことを回避できないのが,当然の任務・仕事である。
このことに関して,日本の自衛隊3軍を,他国の軍隊とを比較してみるに,いまでは基本的になんら変わる点のない軍隊に変身した。この自衛隊の変身を強いたのは,ほかならぬ安倍晋三首相である。この点を自己認識できていないこの人であるゆえ,後段のようなヘンテコな自衛隊に関する感情論を吐いている。
いざとなれば「人を殺す」のが自衛隊の本務である。このあまりにも当然である軍事問題を,奇妙にもこねくりまわして問題にするこの国の,それも政治家たちがいる。この人たちは,政治も戦争もなにも,その初歩から判っていないということになる。新聞報道も,優秀な記者たちを大勢かかえていながら,以上に述べたような論点に言及していないようである。
さて,安倍晋三首相は〔早速,6月〕26日午後,長野県茅野市のJR茅野駅前で演説し,共産党の藤野保史政策委員長が同日のNHK番組で防衛費に関して「人を殺すための予算」と発言したことについて,「とんでもない侮辱ではないか」と強く非難した(http://www.sankei.com/politics/news/160626/plt1606260030-n1.html)と報じられていたが,これこそ,とんでもなくも〈無理解の発言〉である。
国家予算の問題と自衛隊の任務・仕事の問題とは別個に配慮すべき問題である。自衛隊員がたとえば,戦闘行為の現場で相手を攻撃し,殺したら,そして,この事実〔戦場で敵を射殺した・人を殺したこと〕を他者が指摘したら「侮辱したことになるのか」。自衛隊員としての仕事・任務を遂行したに過ぎない。
出所)右側画像は,迷彩服を着て10式戦車-陸上自衛隊の4代目となる最新国産主力戦車-に乗った自衛隊の最高指揮官,安倍晋三首相(千葉市美浜区の幕張メッセで2013年4月27日午後4時過ぎ),『毎日新聞 ウェブ版』2013年4月27日 22時12分。
この人(首相)は,いったいどういう脳内細胞の機能発揮による議論(にもならない発言)をしているのか? 自衛隊員は軍人であるかぎり,安倍晋三君が施行してくれた安保関連法のせいで,場合によっては本格的な戦闘がおこなわれている戦場に送りこまれる可能性が出てきた。
安保関連法のなかには「抗命罪」も設けられた。上官に反抗する,つまり命令に従わない隊員は罪に問われる法律が正式に用意された。なぜ,こういう法律が置かれるようになったかといえば,戦場・戦闘という〈実際的な想定〉を踏まえての,自軍において「人を殺す」という行為・場面に対して「規律・統制の強化」が必要になったからである。
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