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徽宗皇帝のブログ

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「日中戦争開戦史」
「カマヤンの燻る日記」から転載。
長いので、補足資料(南京大虐殺が事実であったことを示す資料など)は別記する。
日中戦争が軍人たちの暴走から起こった出来事であることが明確だと分かる文章である。そしていったん始まった戦争はどんどん拡大するのがその性質であることも分かる。

(以下引用)



2007-03-03

日中戦争開戦史


日中戦争は戦後日本の建国神話に属する。日中戦争はしないで済んだ戦争だ。なんども終結の機会はあった。無能で欲どおしい人々によりムダに拡大し止らなくなった。日中戦争の開戦史を以下に見る。以下は http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1052070202/ から。某教授より聴いた授業の講義録の再掲である。

第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件 1937-1938

Ⅰ;「盧溝橋事件」の発生

 盧溝橋は、「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。「盧溝橋事件」は、ごくごく小さな事件だった。現地ではいったん事件は解決した。それを、政府が拡大した。

1 事件の概要
1-1;「盧溝橋事件」の発端

 起きた時は、1937年7月7日 午後10時40分頃だ。起きた場所は、北平〔ペイピン。現在の北京〕西南郊外、「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)北側の永定河〔えんていが・川の名前〕左岸。〔川の右左は、「上流から見て」右か左か決まる。〕 ここに、日本軍演習地があった。「盧溝橋事件」の発端は、日本兵1名の行方不明事件だった。
 日本軍が北京に駐兵していたのは、以下の理由による。1900年に「義和団事件」があり、1901年に「北京議定書」(列強に清朝が詫びをいれた文書)が成立した。 「北京議定書」により、列強は清朝に駐兵権を得、日本も清朝に駐兵していた。


1-2;現地軍の対処

 大隊長(一木清直少佐)は、連隊長に一応、攻撃していいかどうかを上申した。連隊長(牟田口廉也大佐)は、「中国軍に侮られてはいけない」という判断から、攻撃を許可した。


1-3;現地停戦協定の成立   「支那駐屯軍」の措置

 駐屯軍参謀長橋本群少将、北平特務機関長松井太久郎大佐らは、「事件」収拾に動いた。松井と中国軍第38師長・天津市長張自忠との間で、7月11日午後8時に、停戦協定が成立した。
ここで一旦「事件」は終結したはずだったが…


2;「盧溝橋事件(1937年 7月)」の経過を、もう少し詳しく見る。

 日本軍は当時、夜襲の訓練をよくしていた。ソ連より火力が弱いから、夜襲を重視していた。 「盧溝橋事件」は、夜襲訓練で起きた。
■7月 7日 午後10時40分頃
 北平(北京)西南郊外、盧溝橋北側の永定河左岸(日本軍演習地)において、 「支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊」(中隊長・清水節郎大尉以下135名)が夜間演習中、 数発の実弾射撃を受けた。
 演習は、空砲を使う。実弾は、空気を裂くので、音で判る。この実弾を撃ったのは誰なのかは、いまだに判らない。中隊長は演習をやめ、集合した。2等兵1名が行方不明だった。これが問題となった。
 清水中隊長は、豊台の大隊長一木清直少佐に連絡した。大隊長一木清直少佐は、連隊長牟田口廉也大佐〔後にインパール作戦を指揮〕に連絡した。兵が行方不明になったことを重大視して、大隊を出動させた。
■同日 午後11時頃
 「行方不明」の志村菊次郎 2等兵は、午後11時頃、無事に中隊へ帰隊した。「行方不明」の志村2等兵は迷子になって集合に20分ほど遅れただけだった。つまり「行方不明事件」は起きていなかった。志村2等兵は、インパール作戦で戦死したので、戦後彼から証言を得ることができず、真相は判らない。
■7月 8日 午前 2時過ぎ
 清水中隊長から連絡を受けた一木大隊が、午前2時過ぎに盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)に到着した。だがもう「行方不明事件」は終わっていた。
■同日 午前 3時25分頃 
 再度の銃声が、午前3時25分頃、大隊の周辺から聞こえた。
 一木大隊を取り囲むように中国軍がいた。「どうやら、周りの中国軍にからかわれているらしい」と、大隊長一木少佐は考えた。大隊長一木少佐は、「要するに日本軍の面目さへ立てばよいので…断然攻撃をしたい」と、 連隊長牟田口廉也大佐に電話で要請した。 「バカを言うな」と、一木少佐は止めてもらうつもりだったようだ。
 連隊長牟田口廉也大佐は、「重大な挑戦である」「やって宜しい」と、攻撃を許可した。まさか許可が下りてしまうとは思っていなかった一木少佐は、牟田口廉也大佐の気が変わるかもしれない、と、慎重に、朝まで実行を待った。が、中止の命令はこなかった。夜明けになって、一木大隊は、攻撃を開始した。
■7月10日 
 「蒋介石軍が北上」の情報が走った。これにより、日本軍部内の「拡大論」が「不拡大論」を圧倒した。陸軍中央〔参謀本部〕が、「関東軍2個旅団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団」の華北派遣(兵力約10万人)を決定した。元々、華北に駐兵していた日本軍は5000人程度だった。これを20倍に増強する命令だった。
■7月11日 
 近衛文麿内閣が、華北への派兵を承認した。各界に「挙国一致」を要請した。日本政府は「重大決意」声明 を出した。これで話がややこしくなった。【資料5-1】
■同日 午後 8時  
 マルコ・ポーロ橋現地では、日本軍と蒋介石軍の停戦協定が成立していた。現地では事態は収束した。「停戦協定」の内容は、下記の通り。


 中国第29軍代表が遺憾の意を表明する。中国軍は責任者を処分する。盧溝橋城(宛平県城)・竜王廟から、中国軍が撤退する。抗日各種団体を取り締まる。


■7月17日 
 日本政府は図に乗って「停戦協定」に対し、中国軍幹部の陳謝と更迭を、追加要求した。蒋介石は「最後の関頭」声明(廬山談話)を出した。
 日本政府は「上げた拳の下ろし先」を探していた。日本政府と蒋介石との間で、「強気」の応酬がされ、感情的にエスカレートした。
■7月19日  中国政府は、日中両軍の同時撤退などを提起した。
■7月25日  日中両軍が衝突(郎坊事件)
■7月26日  日中両軍が、再び衝突(広安門事件)
■7月27日  日本政府は、内地3個師団の派遣を最終的に承認する。
■7月28日  午前 8時  日本軍は、蒋介石軍に対し、総攻撃に出る。


【資料5-1】政府「重大決意」声明(1937年7月11日)
 今次事変は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。思ふに、北支治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊急なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。然れども……政府は今後共局面不拡大の為平和折衝の望を捨てず、支那側の速かなる反省によりて事態の円満なる解決を希望す
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)365-366頁。


〔解説〕 
 「仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し」という言葉が問題となり、話をややこしくした。「重大決意」とは何を意味するのか? 日本政府は「派兵する」という意味として書いたようだ。中国政府は「宣戦布告」だと解釈した。日本・中国両国間で感情のエスカレートが、これによって起きた。


Ⅱ;「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」

1 事件第一報と陸軍内の反応
1-1「拡大派」

 陸軍省では、軍事課(編成・動員担当、課長・田中新一大佐)。参謀本部では、第一部作戦課と、第二部(情報部)とりわけ支那課。「このさい、これ(盧溝橋事件)を利用して、〈華北(北京周辺)〉を蒋介石から切り取ろう」、という論を張った。「華北分離論」。
 「支那課」は、1937年7月10日に「蒋介石北上」の情報を流した。何に基いた情報だったのかは判らない。


1-2「不拡大派」

 陸軍省では、軍務課(軍事政策担当)。参謀本部では、第一部長石原莞爾少将と、戦争指導課(課長・河辺虎四郎大佐)。石原莞爾は「満州事変」で出世していた。


    【参考図5-1】盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳
陸軍大臣  ─── 陸軍次官 ──┬─ 軍務局長 ┬ 軍事課長 田中新一大佐
杉山元大将    梅津美治郎中将  │ 後宮淳少将 └ 軍務課長 柴山兼四郎大佐
                        │
                        └─ 兵務局長 飯田祥二郎少将

参謀総長 ─── 参謀次長 ──┬─ 総務部長 中島鉄蔵少将
閑院宮戴仁元帥   今井清中将 [1] │
            多田駿中将[2] ├─ 第1(作戦)部長 ─┬ 作戦指導課 河辺虎四郎大佐[4]
                       │  石原莞爾少将〔3〕  .└ 作戦課 武藤章大佐[5]
                       │
                       ├─ 第2(情報)部長 ─┬ ロシア課 笠原幸雄大佐
                       │   渡久雄少将      ├ 欧米課 丸山政男大佐
                       │                   └ 支那課 永津佐比重大佐
                       ├─ 第3(運輸・通信)部長
                       │  塚田攻少将
                       │                     
                       └─ 第4(戦史)部長 下村定少将
教育総監 ──── 本部長
寺内寿一大将    香月清司中将
出典:秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年)より作成。

〔解説〕  〔1〕参謀次長今井清中将は、当時重病だった。  〔2〕参謀次長多田駿中将は、石原莞爾を支持していた。  〔3〕作戦部長石原莞爾少将は、参謀本部の事実上のリーダーだった。  〔4〕河辺虎四郎大佐は、不拡大論者だった。  〔5〕武藤章大佐は、拡大論者だった。


2 「拡大派」の論理

 中国の抗日意識や中国軍の抗戦力を軽視した、楽観論を「拡大派」は展開した。「一撃論」。ガツンと一撃ショックを中国に与えれば、中国はすぐに折れる、という意見だ。華北を「第二の満州国」にし、あわよくば蒋介石政権を倒す、という「華北分離論」を展開した。


3 「拡大派」と「不拡大派」の対立

 「不拡大派」の論理  対ソ戦準備と「国防国家」建設こそが軍部の最優先課題であ、り中国との戦争に、戦力・国力を消耗すべきでない、と、「不拡大派」は考えた。
 議論は、「拡大論」が押し切った。「蒋介石軍が北上」の情報に、「拡大論(一撃論)」が「不拡大論(慎重論)」を圧倒した。7月10日に、陸軍中央は、内地3個師団等の華北派遣を決定した。11日に、閣議承認した。8月13日には、戦火は上海に飛び火した。15日からは海軍も加わり、「海軍航空隊」が、南京を九州から渡洋し、爆撃する。
 「拡大派」は、「不拡大派」を排除した。石原莞爾部長を9月28日転出させた。石原莞爾は「関東軍参謀副長」に左遷された。関東軍参謀長は東条英機だった。 東条と石原莞爾は犬猿の仲だった。石原莞爾は東条の下にはいられず、帰国した。 これは命令違反であり、石原莞爾はそれにより失脚した。 〔ここで失脚したために、戦後、東京裁判では石原莞爾は戦犯にならず、破格の待遇を得た〕
 「不拡大」を執拗にとなえる「戦争指導課」は、「作戦課戦争指導班」に格下げされた。(10月26日) 〔「作戦指導課」は石原イズムに染まっていた。〕


Ⅲ 戦線の拡大と初期講和工作

1 宣戦布告問題と、「大本営」の設置
1−1

 「北支事変」(7月11日)から「支那事変」(9月2日)へ、呼称が変更になる。


1−2

 「宣戦布告」なき戦争  陸海軍省はそろって、アメリカが「中立法」を適用するのを恐れ、中国への「宣戦布告」に反対した。「中立法」とは、戦争している当事国にもの(武器や弾薬)を売らない、というアメリカの国内法だ。


1−3

 「大本営」の設置(11月20日)  日露戦争以来32年ぶりに、陸海軍の最高統帥機関=「大本営」を、皇居内に設置した。陸海軍の強い要求で、「大本営」構成員から、首相・外相らの文官は、すべて排除した。
 「大本営」は、臨時統括司令部だ。 陸軍と海軍は完全に分かれ、陸軍参謀本部には、小船一隻動かす権限がない。 それを統括するのが「大本営」だ。「大本営」は、明治時代には、条文上は軍人のみで構成されていたが、元老文官が参加していた。


2−1

 石原莞爾作戦部長は、転出直前に、ドイツ駐華大使トラウトマンを介して、国民政府と和平交渉をはかろうとした。これが「トラウトマン工作」の発端だ。9月に、接触に成功した。
 1936年日独防共協定で、日本とドイツは提携関係にあった。ドイツは蒋介石軍に武器を売っていた。ドイツは蒋介石軍の軍事顧問もしていた。ドイツは日本と蒋介石軍の仲介役に適任だった。


2−2

 「不拡大派」の巻き返し  「トラウトマン工作」を成功させ、御前会議で「不拡大」を天皇に言わせる戦略を、石原莞爾は練った。


2−3

 昭和天皇にとって初めての「御前会議」が、1938年1月11日に行われた。「御前会議」の開催は、これまでの慣例を破るものだった。発言すべきか否か、昭和天皇は迷った。結局、昭和天皇は発言しなかった。元老西園寺公望が、「君権に瑕〔キズ〕」がつくのを畏れ、昭和天皇に、御前会議で喋るなと、強く要求していたためだ。
 元老西園寺公望は「御前会議」自体に強く反対していた。昭和天皇は御前会議を開きたがったが、西園寺公望がそれをずっと止めていた。


2−4

 1937年12月13日に、南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を賠償を含む厳しいものにかえた。
 近衛首相・杉山陸相・広田外相・木戸文相は、工作打ち切り論を述べた。日本政府は、「トラウトマン工作」を打ち切った。
 南京陥落前に、「トラウトマン工作」は、かなり進んでいた。首都が陥落したら勝ちだ、と、日本は考えた。 このとき戦争を終わらせる手続きをしっかりとしておかなかったのが、後々尾を引いた。


Ⅳ 近衛声明と戦争の泥沼化

1 南京大虐殺(1937年12月〜38年2月):20万人前後の戦闘員・捕虜・一般市民を殺害 【補足資料5-3】

 日本軍は上陸作戦以来、中国各地で、虐殺・略奪・放火・強姦を繰り返した。日本軍は投降中国兵を「捕虜」とみなさなかった。激戦による報復意識があった。「現地調達」という考え方が、略奪を許すこととなった。
 日本軍による虐殺と略奪は、中国人の抗日意識の高揚と日本軍への非協力を招いた。その結果また日本軍が虐殺と略奪を行なう、という悪循環が起きた。虐殺と略奪には性暴力も必ず伴なう。南京攻略以降、「慰安所」(従軍慰安婦)が、激増する強姦対策として設置された。


2 「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年 1月16日) 【資料5-2】

 近衛文麿は自ら外交交渉の相手を否定しまい、戦争終結の手段を失った。日中戦争は泥沼化した。「トラウトマン工作」打ち切りと、「対手とせず」声明で、中国国内は、抗日の一点で強固に結束した。国共内戦から国共合作へ。
 現地軍はさらに大作戦を続行した。1938年4〜6月には徐州作戦、 6〜11月には武漢作戦。その後も続々と大兵力を投入した。


【資料5-2】「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)
 帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふる為め今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し内民人塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、仍つて帝国政府は爾後国民政府を対手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及主権並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫も変る所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民が此の重大なる任務遂行の為め一層の発奮を冀望して止まず
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)386頁。


 以下カマヤンによる余談だけど、近衛文麿の声は子供のように甲高い〔記録媒体の音が割れてそう聞こえるだけなのかもしれないけど〕。近衛文麿のルックスは裕仁に似て、裕仁を端正にしたような感じだ。近衛文麿の声は裕仁がつっかえずに喋っているような声質だ。


4 日中戦争拡大の要因

 「一撃論」の失敗。軍事力への過信と、中国への過小評価、中国への蔑視。中国侵略(華北分離)を狙う勢力(軍部)の国内政治における発言力が強大化した。満洲事変から連続する華北分離工作。【補足資料5-4】
 中国の抗戦意識の高揚(中国軍の積極的作戦、民衆の抗日意識)。日本外交の拙劣(あいまいな戦争目的、戦勝に幻惑された強気の交渉)。



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