【補足資料5-3-1】南京攻略戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将の日記
(1937年12月13日)
一、本日正午高山剣士来着す。時恰も捕虜七名あり。直に試斬を為さしむ。
一、……到る処に捕虜を見、到底其始末に堪えざる程なり。
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたる〔れ〕共……中々実行は敏速には出来ず。……
一、……佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大〔太〕平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、其仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る。
一、此七、八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処に誘て処理する予定なり。
出典:「南京攻略戦『中島師団長日記』」『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』(1984年)261頁。
【補足資料5-3-2】第13師団歩兵第65聯隊・第4中隊・少尉『宮本省吾陣中日記』
〔1937年12月16日〕
警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎〔束〕の間で午食事中に俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮〔虜〕約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
〔1937年12月17日〕
本日は一部は南京入場式に参加、大部は、捕慮〔虜〕兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮〔荘〕厳なる史的光景を見〔目〕のあたり見る事が出来た。
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。
中隊死者一傷者二に達す。
〔1937年12月18日〕
昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付〔就〕く、起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の方〔片〕付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
〔1937年12月19日〕
昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かゝる。
夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油上〔揚〕迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。
【補足資料5-3-3】第13師団歩兵第65聯隊・第8中隊・少尉『遠藤高明陣中日記』(原文はカタカナ)〔1937年12月16日〕
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し・〔第一大隊〕に於て射殺す。
一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたりものゝ如し。
〔1937年12月17日〕
幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差出す、南京入城式参加の為十三D〔第13師団〕を代表してR〔聯隊=第65聯隊〕より兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官//学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書にて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場間で三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支より在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)219〜220頁所収。
【補足資料5-3-3】第13師団山砲兵第19聯隊・第8中隊・伍長『近藤栄四郎出征日記』
〔1937年12月16日〕
午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。//
午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お陰で随分酩酊した。
夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨〔いたま〕しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るゝ事の出来ざる光影〔景〕であつた。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)325〜326頁所収。//は改ページ個所。
【補足資料5-3-4】第13師団山砲兵第19聯隊・第・大隊大隊段列・上等兵『黒須忠信陣中日記』(原文はカタカナ)
〔1937年12月16日〕晴
午后一時我が段列より二十名は残兵掃〔湯〕蕩の目的にて馬風〔幕府〕山方面に向ふ、二三日前捕慮〔虜〕せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思ふ存分に突刺す、自分も此の時ばが〔か〕りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
山となつて居る死人の上をあがつて突刺す気持は鬼をも//ひゝ〔し〕がん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供を居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であつた、××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た、皆無事元気であつた、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)350〜351頁所収。//は改ページ個所。
【補足資料5-3-5】第16師団輜重兵第16聯隊・輜重兵特務兵『小原孝太郎日記』
〔1937年12月24日〕南京・下関
扨〔さて〕、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。何んと砂〔浜〕の真砂でないかとまがふ程の人間が、無数に横〔往〕生してゐるのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はこヽで最後の幕をとぢたに違ひない。決定的のシーンだ。数へ切れない屍体が横〔往〕生してゐる。敵はこヽまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って致命的な打ゲキをうけたわけなのだ。わが南京陥落はかくてなったわけわけママである。
出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。
【補足資料5-4】北支処理要綱(1936年1月13日 閣議決定)
北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ以テ其ノ安居楽業ヲ得セシメ且日満両国トノ関係ヲ調整シ相互ノ福祉ヲ増進セシムルニアリ之カ爲新政治機構ヲ支持シ之ヲ指導誘掖シテ其機能ノ強化拡充ヲ期ス
要綱
(一)自治ノ区域ハ北支五省〔河北・山西・山東・綏遠・チャハル〕ヲ目途トスルモ徒ニ地域ノ拡大ニ焦慮スルコトナク第二項以下ノ要領ニ則リ徐ニ先ツ冀察二省及平津二市ノ自治ノ完成ヲ期シ爾他三省ヲシテ自ラ進ンテ之ニ合流セシムル如クスルモノトス冀察政務委員会ニ対スル指導ハ当分宋哲元氏ヲ通シテ之ヲ行ヒ民衆ノ自治運動ニシテ公正妥当ナルモノハ之ヲ抱容セシメツツ逐次其ノ実質的自治ヲ具現セシメ北支五省ノ自治ノ基礎ヲ確立ス
冀東自治政府ニ対シテハ冀察政務委員会ノ自治機能未タ充分ナラサル間其ノ独立性ヲ支持シ翼察ノ自治概ネ信頼スルニ至ラバ成ルヘク速ニ之ニ合流セシメルモノトス〔中略〕
(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ直接冀察翼東両当局ヲ対象トシテ実施スルヲ本則トシ且飽ク迄内面的指導ヲ主旨トス又経済進出ニ対シテハ軍ハ主動ノ地位ニ立ツコトナク側面的ニ之ヲ指導スルモノトス但当分ノ間冀察政務委員会指導ノ爲一機關ヲ北平ニ置キ支那駐屯軍司令官ノ区処(自治機構ノ指導竝ニ顧問ノ統制等)ヲ受ケシム関東軍及北支各機開ハ右工作ニ協力スルモノトス、其ノ他在支各武官ハ右工作ニ策応シ特ニ大使館附武官及南京駐在武官ハ適時南京政権ニ対シ北支自治ノ必要性ヲ理解セシムルト共ニ自治権限六項目ノ承認ヲ強要シ、少クモ自治ヲ妨害スルカ如キ策動ヲ禁遏セシムルモノトストス
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)322〜323頁。
これは1936年1月13日の閣議決定だ。岡田内閣時、2.26事件以前の閣議決定だ。 「北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ」 は、満州国を作ったのと同じロジックだ。 「(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ」 とは、具体的なやり方は現地司令に任せる、という意味だ。
東京裁判では南京虐殺は30万人だと言われた。埋葬記録から追跡できるのは、10数万だ。
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