ワープロで書いて、ネットには載せていなかった私の昔の文章(40歳かそこらだったと思う。)を発掘したので、(近いうちにネットから退場する可能性もあるので)面倒くさいが再度パソコンで打ち直してここに載せておく。
「経済システムとしての社会主義と資本主義」*基本的に「徽宗補注」のみ現在の書き込み。
猪木武徳、高橋進の「世界の歴史29 冷戦と経済繁栄」によれば、ソビエト連邦崩壊に見られる社会主義経済システムの破綻には、次のような原因がある。(ただし、以下に述べる文章は、著者たちの説を筆者がかなりアレンジしたものである。)
第一に、生産システムにおいては、競争をベースにした労働への報酬制度と勤労意欲の関係(すなわち、労働の原動力となるもの、誘因、インセンティブ)が、きわめて重要であり、その前提が私的所有である。私的所有の存在しない社会、あるいは私的所有が極度に限定された社会では、労働へのインセンティブが無いため、生産システムは衰退し、破綻する。
第二に、生産財、つまり生産に要する機械や資源などの私的所有が認められない所では、生産財の社会的価値、すなわち適正な市場価格を知ることができない。ということは、価値に対する経済的に合理的な判断が不可能になることである。簡単な例を挙げれば、百円で生産した物を五十円で売る、というような不合理な行動がまかり通るわけである。したがって、経済は破綻する。
そのほかに、ソ連邦の場合は、変化への対応能力に欠ける膨大な官僚群を生み出し、また、その特権を利用した不正や腐敗などが多くあったことなども崩壊の原因ではあるが、経済システムの面からは、上記の二点が根本原因だろう。
定義上は、個人的財産の私的所有まで認めないシステムを共産主義、個人的財産は認めるが、生産財の私的所有を認めず、社会の公共財とするものを社会主義と言うわけだから、前記の第一点は共産主義の、第二点は社会主義の成り立たない理由ということになる。
ただし、社会主義の定義をもっと広く取って、たとえば政府が国民の財産や所得を吸収して再配分する(徽宗補注:米国ではそれすら否定する、「小さな政府」論者が特に多く、国民医療保険制度の構築も社会主義的だとして否定される。)システムだとするなら、あらゆる国家は社会主義国家であり、特に一時期の日本などは、「世界でもっとも成功した社会主義国である」と批評する識者も多かった。(徽宗補注:もちろん、ほとんどは冗談半分の揶揄だが、実は真実だった。)(福祉政策や、所得税の累進課税などは、社会主義的政策であり、福祉など、個人生活への政府の関与を減らし、個人の財産所有を最大限にまで認めようとする政策は、資本主義的政策だと言える。アメリカでなら、民主党が社会主義的政党であり、共和党が資本主義的政党だと言っていいが、最近は互いに政策の盗み合いをしていて、この両者の政策上の区別は不明瞭である。日本では、もちろん共産党は一応は共産主義の政党であり、民社党は一応社会主義の政党ということになる。その他はすべて資本主義の政党であり、これは与党野党の区別とは関係がない。)
資本主義とは、簡単に言えば、経済活動の自由を最大限に認める思想である。したがって、「自由主義」とも言われるが、「自由」の語感とはうらはらに、貧富の差に多くの人々が苦しむ社会である場合も多い。したがって、そういう社会では、「プロレタリア革命」を叫ぶ人々が多くなるのも故無しとしない。旧植民地などでは、たいていの場合、一分の特権階級だけが贅沢三昧の暮らしをし、国民の大半は貧困にあえいでいた。だから、そうした国の独立は、軍事クーデターであると同時に、たいていは「プロレタリア革命」の一面を持っていて、独立後しばらくは社会主義的政策を取ることが多い。しかし、経済システムとして社会主義が成り立たないことは前に述べた通りであり、それらの国もやがては実質的には資本主義に移行していくことになる。これは、中国やベトナムの例を見ればよい。
もちろん、社会主義政策が常に駄目なわけではない。資本主義そのものが未発達の段階なら、資本主義よりも、国家による計画経済を行う社会主義国家のほうが、大きな経済発展を見せることもある。第二次世界大戦後から冷戦時代までの旧ソ連の発展がそれだったわけである。日本の明治維新後の「富国強兵」政策の成功も同じことである。しかし、ひとたび社会資本の整備が終わると、後は労働へのインセンティブの問題になる。なぜなら、資本主義は所有に対する個人的欲望という強力な動機が人を動かすのに対し、社会主義にはそのような強力な誘因が無いからである。もちろん、個人財産の所有を最大限に認めればいい、という考えもあるが、それでは社会主義のそもそもの理念の意味が無いだろう。社会主義の問題とは、簡単に言えば、人間性の問題であり、多く働いても少なく働いても給料は同じ、となったら、自分から多く働こうとする者はいない、ということである。
現在でも多く見られる共産主義や社会主義へのユートピア的幻想は、共産主義社会実現後の労働へのインセンティブの問題を見ていないか、あるいは人間性そのものが劇的に変化して、国民すべてが聖人君子になり、何のインセンティブが無くても自ら進んで労働するようになると思っていることから来るものだろう。
ただし、筆者は、資本主義を無条件に肯定する者ではない。資本主義の一番の問題点は、競争の僅かな結果の差が、極端な報酬の差になって現れることであり、このことが残酷なまでの競争への執着、結果主義となって人間性を極端にゆがんだものにしていくことである。そして、もちろん、資本主義とは、すべてを金の価値に換算して考える社会であり、金以外の精神的価値が失われていくことは、今の日本人を見れば分かるだろう。日本の拝金主義化は、すでに明治時代に夏目漱石が(資本主義という言葉ではなく、西洋文明、あるいは近代化の問題として述べているが)「吾輩は猫である」の中で、金満家金田氏への一見ヒステリックなまでの批判として述べていることだ。(徽宗補注:「三四郎」の中で、三四郎が「日本はこれからどうなるか」と聞くと、何とか先生が「滅びるね」と答えたのも、同じだろう。)
以上に見てきたように、経済システムとしては、社会的エネルギーの点で資本主義は社会主義に優っているが、ただしそれは極端に言えば、「金になることなら何でもやるし、やってよい」というシステムであり、人間を必ずしも幸福にするとは限らない。我々が進むべき道は、おそらくこの中間にあり、過度の欲望が、法的に禁止されるのではなく、社会のモラルとして軽蔑され、自ずと抑制されるような「道義的資本主義」にあるのではないかと思われる。そのモデルの一部は近代化以前の日本社会にあると思われるが、具体的には、稿を改めて考えたい。
「経済システムとしての社会主義と資本主義」*基本的に「徽宗補注」のみ現在の書き込み。
猪木武徳、高橋進の「世界の歴史29 冷戦と経済繁栄」によれば、ソビエト連邦崩壊に見られる社会主義経済システムの破綻には、次のような原因がある。(ただし、以下に述べる文章は、著者たちの説を筆者がかなりアレンジしたものである。)
第一に、生産システムにおいては、競争をベースにした労働への報酬制度と勤労意欲の関係(すなわち、労働の原動力となるもの、誘因、インセンティブ)が、きわめて重要であり、その前提が私的所有である。私的所有の存在しない社会、あるいは私的所有が極度に限定された社会では、労働へのインセンティブが無いため、生産システムは衰退し、破綻する。
第二に、生産財、つまり生産に要する機械や資源などの私的所有が認められない所では、生産財の社会的価値、すなわち適正な市場価格を知ることができない。ということは、価値に対する経済的に合理的な判断が不可能になることである。簡単な例を挙げれば、百円で生産した物を五十円で売る、というような不合理な行動がまかり通るわけである。したがって、経済は破綻する。
そのほかに、ソ連邦の場合は、変化への対応能力に欠ける膨大な官僚群を生み出し、また、その特権を利用した不正や腐敗などが多くあったことなども崩壊の原因ではあるが、経済システムの面からは、上記の二点が根本原因だろう。
定義上は、個人的財産の私的所有まで認めないシステムを共産主義、個人的財産は認めるが、生産財の私的所有を認めず、社会の公共財とするものを社会主義と言うわけだから、前記の第一点は共産主義の、第二点は社会主義の成り立たない理由ということになる。
ただし、社会主義の定義をもっと広く取って、たとえば政府が国民の財産や所得を吸収して再配分する(徽宗補注:米国ではそれすら否定する、「小さな政府」論者が特に多く、国民医療保険制度の構築も社会主義的だとして否定される。)システムだとするなら、あらゆる国家は社会主義国家であり、特に一時期の日本などは、「世界でもっとも成功した社会主義国である」と批評する識者も多かった。(徽宗補注:もちろん、ほとんどは冗談半分の揶揄だが、実は真実だった。)(福祉政策や、所得税の累進課税などは、社会主義的政策であり、福祉など、個人生活への政府の関与を減らし、個人の財産所有を最大限にまで認めようとする政策は、資本主義的政策だと言える。アメリカでなら、民主党が社会主義的政党であり、共和党が資本主義的政党だと言っていいが、最近は互いに政策の盗み合いをしていて、この両者の政策上の区別は不明瞭である。日本では、もちろん共産党は一応は共産主義の政党であり、民社党は一応社会主義の政党ということになる。その他はすべて資本主義の政党であり、これは与党野党の区別とは関係がない。)
資本主義とは、簡単に言えば、経済活動の自由を最大限に認める思想である。したがって、「自由主義」とも言われるが、「自由」の語感とはうらはらに、貧富の差に多くの人々が苦しむ社会である場合も多い。したがって、そういう社会では、「プロレタリア革命」を叫ぶ人々が多くなるのも故無しとしない。旧植民地などでは、たいていの場合、一分の特権階級だけが贅沢三昧の暮らしをし、国民の大半は貧困にあえいでいた。だから、そうした国の独立は、軍事クーデターであると同時に、たいていは「プロレタリア革命」の一面を持っていて、独立後しばらくは社会主義的政策を取ることが多い。しかし、経済システムとして社会主義が成り立たないことは前に述べた通りであり、それらの国もやがては実質的には資本主義に移行していくことになる。これは、中国やベトナムの例を見ればよい。
もちろん、社会主義政策が常に駄目なわけではない。資本主義そのものが未発達の段階なら、資本主義よりも、国家による計画経済を行う社会主義国家のほうが、大きな経済発展を見せることもある。第二次世界大戦後から冷戦時代までの旧ソ連の発展がそれだったわけである。日本の明治維新後の「富国強兵」政策の成功も同じことである。しかし、ひとたび社会資本の整備が終わると、後は労働へのインセンティブの問題になる。なぜなら、資本主義は所有に対する個人的欲望という強力な動機が人を動かすのに対し、社会主義にはそのような強力な誘因が無いからである。もちろん、個人財産の所有を最大限に認めればいい、という考えもあるが、それでは社会主義のそもそもの理念の意味が無いだろう。社会主義の問題とは、簡単に言えば、人間性の問題であり、多く働いても少なく働いても給料は同じ、となったら、自分から多く働こうとする者はいない、ということである。
現在でも多く見られる共産主義や社会主義へのユートピア的幻想は、共産主義社会実現後の労働へのインセンティブの問題を見ていないか、あるいは人間性そのものが劇的に変化して、国民すべてが聖人君子になり、何のインセンティブが無くても自ら進んで労働するようになると思っていることから来るものだろう。
ただし、筆者は、資本主義を無条件に肯定する者ではない。資本主義の一番の問題点は、競争の僅かな結果の差が、極端な報酬の差になって現れることであり、このことが残酷なまでの競争への執着、結果主義となって人間性を極端にゆがんだものにしていくことである。そして、もちろん、資本主義とは、すべてを金の価値に換算して考える社会であり、金以外の精神的価値が失われていくことは、今の日本人を見れば分かるだろう。日本の拝金主義化は、すでに明治時代に夏目漱石が(資本主義という言葉ではなく、西洋文明、あるいは近代化の問題として述べているが)「吾輩は猫である」の中で、金満家金田氏への一見ヒステリックなまでの批判として述べていることだ。(徽宗補注:「三四郎」の中で、三四郎が「日本はこれからどうなるか」と聞くと、何とか先生が「滅びるね」と答えたのも、同じだろう。)
以上に見てきたように、経済システムとしては、社会的エネルギーの点で資本主義は社会主義に優っているが、ただしそれは極端に言えば、「金になることなら何でもやるし、やってよい」というシステムであり、人間を必ずしも幸福にするとは限らない。我々が進むべき道は、おそらくこの中間にあり、過度の欲望が、法的に禁止されるのではなく、社会のモラルとして軽蔑され、自ずと抑制されるような「道義的資本主義」にあるのではないかと思われる。そのモデルの一部は近代化以前の日本社会にあると思われるが、具体的には、稿を改めて考えたい。
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