山崎行太郎の「毒蛇山荘日記」の一部を下に引用する。というよりも、その中に引用された吉本隆明の分析を引用する。つまりは孫引きになるが、日本における左翼の弱さと右翼の強さを「転向」の面から論じている。吉本隆明は文章が面倒臭いのでほとんど読んだことはないが、「目のつけどころの良さ」という点では優れている批評家のようだ。(思想家だとは思わない。)
この文章では、要するに日本における左翼の強さと右翼の弱さの原因を民衆との紐帯の有無の点に見ているわけだが、ではなぜ民衆は右翼を支持し左翼を支持しないのか。それは簡単な話であり、右翼とは保守思想、つまり現状を維持しようという思想だからである。「保守とは所有に伴う必然的傾向である」(ミヘルス)わけだから、この社会で生活している人間で多少の所有(財産・所得)を持つ人間なら保守主義にならないわけにはいかない。つまり、「失うものは鎖しかない」奴隷的境遇の最下層労働者以外にはこの社会を革命的に変革したいと願う人間はいないのである。それがこれまで日本が保守天国だった理由である。そして高度経済成長のおこぼれが累進課税や社会保障の形で庶民にも配分されていた時代なら、それで良かったのだ。いわば日本がよく言われるように「世界で唯一成功した社会主義国」だったというのは、まったくの事実なのである。ところがおかしなことに、日本国民自体がそれを知らず、左翼を毛嫌いし、右翼を心情的に応援してきたというのが過去の歴史であった。
その後、アメリカ、イギリスが福祉予算をどんどん削減し、金持ち優遇政策を取るようになり、(おそらくアメリカの指示で)日本も同様の政策を取り、「格差社会」が生まれたのはご存じのとおりだ。それは日本社会全体の貧困化でもあった。
今、勤労者の3分の1が非正規労働者であるという状況では、そして正規労働者も雇用を楯にとって労働強化を強いられており、いつ非正規労働者に転落するかわからない社会状況では、ほとんどの庶民は失うものは鎖しかないのではないだろうか。それが昨年の衆議院選挙での自公政権の敗北という事件の意味であり、あれは選挙による「無血革命」だったのである。
日本国民はこれからまだ米国に国民資産と収益の大半を収奪されることになる。もちろん、国民から日本政府が税金や年金の形で金を巻き上げて、それを米国に上納するのである。その状況でもまだこの状態を変えたくないという「保守主義」を国民は支持するのだろうか。
もちろん、「マルクス主義」や共産主義が破綻した思想であることは言うまでもない。その意味での左翼には存在意義はない。だが、「社会全体の幸福を実現するために財産と所得の格差をなくしていく」という意味での「社会主義」は、たとえば「フエビアン主義」のような漸進的社会主義は、今の世にこそ必要なのではないだろうか。
(以下引用)
。吉本隆明は『転向論』でこう書いている。
日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜のはずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれていた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。(吉本隆明『転向論』講談社文藝文庫p291)
大衆との連帯感と大衆からの孤立。吉本隆明は、転向は権力の弾圧や強制によるものではなく、むしろ本人の思想的な内発的意思によると言う。
この文章では、要するに日本における左翼の強さと右翼の弱さの原因を民衆との紐帯の有無の点に見ているわけだが、ではなぜ民衆は右翼を支持し左翼を支持しないのか。それは簡単な話であり、右翼とは保守思想、つまり現状を維持しようという思想だからである。「保守とは所有に伴う必然的傾向である」(ミヘルス)わけだから、この社会で生活している人間で多少の所有(財産・所得)を持つ人間なら保守主義にならないわけにはいかない。つまり、「失うものは鎖しかない」奴隷的境遇の最下層労働者以外にはこの社会を革命的に変革したいと願う人間はいないのである。それがこれまで日本が保守天国だった理由である。そして高度経済成長のおこぼれが累進課税や社会保障の形で庶民にも配分されていた時代なら、それで良かったのだ。いわば日本がよく言われるように「世界で唯一成功した社会主義国」だったというのは、まったくの事実なのである。ところがおかしなことに、日本国民自体がそれを知らず、左翼を毛嫌いし、右翼を心情的に応援してきたというのが過去の歴史であった。
その後、アメリカ、イギリスが福祉予算をどんどん削減し、金持ち優遇政策を取るようになり、(おそらくアメリカの指示で)日本も同様の政策を取り、「格差社会」が生まれたのはご存じのとおりだ。それは日本社会全体の貧困化でもあった。
今、勤労者の3分の1が非正規労働者であるという状況では、そして正規労働者も雇用を楯にとって労働強化を強いられており、いつ非正規労働者に転落するかわからない社会状況では、ほとんどの庶民は失うものは鎖しかないのではないだろうか。それが昨年の衆議院選挙での自公政権の敗北という事件の意味であり、あれは選挙による「無血革命」だったのである。
日本国民はこれからまだ米国に国民資産と収益の大半を収奪されることになる。もちろん、国民から日本政府が税金や年金の形で金を巻き上げて、それを米国に上納するのである。その状況でもまだこの状態を変えたくないという「保守主義」を国民は支持するのだろうか。
もちろん、「マルクス主義」や共産主義が破綻した思想であることは言うまでもない。その意味での左翼には存在意義はない。だが、「社会全体の幸福を実現するために財産と所得の格差をなくしていく」という意味での「社会主義」は、たとえば「フエビアン主義」のような漸進的社会主義は、今の世にこそ必要なのではないだろうか。
(以下引用)
。吉本隆明は『転向論』でこう書いている。
日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜のはずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれていた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。(吉本隆明『転向論』講談社文藝文庫p291)
大衆との連帯感と大衆からの孤立。吉本隆明は、転向は権力の弾圧や強制によるものではなく、むしろ本人の思想的な内発的意思によると言う。
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