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徽宗皇帝のブログ

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「青春の場」としての学校と「軍隊的学校」
「混沌堂主人雑記(旧題)」から転載。前半は誰かの、或る本のレビューだが、粘着的な批判をネチネチとしているもので、文章も理解困難(私には)なので省略。しかし、後半は、混沌堂主人自身の「学校教育批判」が痛烈で興味深い。ただし、何でもかんでも「天皇のせい」にする結論は尊皇主義の私としては受け入れられないのでカットさせてもらう。せっかくの優れた論説がその無理な結論(まあ、無理な結論ではないと思うから書いているのだろうが)で台無しになるのではないか。
私自身は学校教育に批判的な部分(混沌堂主人と同じなのでここには書かない。)と、肯定的な部分がある。肯定的な部分とは、学校教育が無ければおそらく世間の大半の人は人生を生きる(人生を豊かにする)最低限の知識も得られぬまま社会に出ていくことになっただろうということ、そして、同じ年齢の人間(子供)が同じ空間の中で同じ時間を過ごすということはそれ自体貴重な経験なのではないか、ということだ。もちろん、そこに虐めや教師の理不尽な仕打ちなどが混入する可能性もあるし、実際それらは頻繁に起こっているが、学校教育のメリットはそのデメリット(改善可能だろう)より大きいと私は思っている。まあ、それも(必要知識教授の点では)中学までで十分だとは思うが、高校には高校生活の良さ、大学には大学生活の良さもあるのではないか。高校生活の意義、あるいは大学生活の意義は、そこでの授業内容が大半の人間の人生とは無関係で、実は無視してもいい、ということ、「遊ぶこと」「楽しむこと」がその意義だ、というのが今思いついた思想であるww
いい年をした大人が高校生活を舞台にした漫画やアニメを膨大に作り出していて、それが広く受容されているのは、そこに多くの人のノスタルジーがあるからだろう。「涼宮ハルヒシリーズ」は超常現象の話が無くてもその高校生活の描写だけでも面白いし、「ReLife」など、私は3回くらい見直すほど、私には「理想の高校生活」が描かれている。後者は、現実社会(社会人生活)との対比も描かれていてシリアスな部分もある。

(以下引用)

「退屈」を紛らわすために「いじめ」が発生している。って最近言われ出している。
おなじくレビューを一つ。
上記文抜粋
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学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか
読書
「学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか」を読みました。予想していた以上に、広い視点から学校教育について語られている本でした。タイトルに沿って、考えたことを2つ書きたいと思います。
●なぜ学校は退屈なのか?
個人的には、学校での手段が目的化しているのが最大の要因なのではないかと思いました。何のためのテストなのか?何のための学校行事なのか?何のための授業なのか?ギチギチに編成されたカリキュラムの中で、せっかく学校でしか学べないことばかりなのに、それらを詰め込むことが目的化している側面があります。教育の目的である「人格の完成」を今一度考えてみる必要がありそうです。
●なぜ学校は大切なのか?
仲の良し悪しに関わらず多様な人と協力しながら困難を乗り越えていく。これは学校教育ならではだと思います。社会に出てから色々な人と関わっていくことを考えると、これこそが大切なのだと思います。「地元つながり文化」というのも紹介されており、まさに西川先生の考える理想の社会に繋がります。
AIや世界の現状まで書かれており、筆者がそれらを踏まえてこれからの社会を作ってくれる子どもたちの育成を願っていることがものすごく伝わってきました。読書会に向けて、もうすこし自分の中で考えを整理してみたいと思います。
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抜粋終わり
アホだ。
そもそも「仲の良し悪しに関わらず多様な人と協力しながら困難を乗り越えていく。これは学校教育ならではだと思います」
そのための「いじめ」で生贄を作って、生き延びる。
それが人間の「サバイバルスキル」なのです。
第一「発達障害」等のモノの望んでも無くもった人らには、地獄ですは・・・それを長期に強要されるのは。
学校が退屈でも、ある意味構わんのです。
そうでなければ、「学べない事」がある。
だが、それのために命を落とす・自分の尊厳を損ねて人生を棄損する・精神が破壊される・逆にそれを他人に貸して犯罪者になる・てあまりに損な買い物である。
人生をよりよく過ごすために行く学校で、死ぬ・精神を破壊される・犯罪者になる・そのための
「長期に長時間、ソーシャルスキルの多寡がごっちゃ混ぜの子供たちを押し込んで、ストレスフルな人生を送らせる」
のは、バカでなければ、是とは言えない。
私は「学校が偉すぎるのが最大の問題」と思っている。
>「勉強できないからといって一人前の大人になれないわけではない。不登校でもきっかけをつかめば社会で自立してやっている」
なら「学校に来なくてはいけない」みたいなことをいうのか?
そもそも「学校」のような「長期に大人数を詰め込んで長時間同居を強要する」のは、人類発生以降、「軍隊」と「僧院」くらいしかなかった。
それも軍隊も僧院もいじめや虐待の「多発生地域」であり、軍隊などは、それを防止するために死刑をもって統制していたのである。
そのような「軍隊」ってモノのありようを、最初期の軍事理論の孫子から「非常の法」「巧みに長い戦いなど聞いたことない」といっているのだし。
2000年前ら、近現代日本人は、人文社会学をやり直した方が良いに決まっている。
でも、本当に「学校の勉強は退屈」なだけなのか?
少なくとも「即使える知識」なり「知見」を、ある程度教えるのは、ランチェスター二次法則からみたら、「3{使える知識・おもろい学習}対7{学校のつまらんけど大事な学習}」でやるのが、ベターで効率的に学習や学級運営ができるし、それですでにやっていてもおかしくないのにね。
少なくとも「いじめ」「体罰死」とかで、教師が煩わされることもないだろうし。
>励ましているつもりなのでしょうか。 学校生活の一時期でも心の傷は長く癒えることはなく、楽観的になれないからイジメは根深いのです。 くだらないヤツにいじめられるから落ち込むんです。 続く文章、「仲間集団内での自律的な交流が必要だから’イジメのような現象’も生じてしまい悩ましい」など、なんと楽観的な表現でしょう。 イジメは現象などではなく「意識的な行為」です。 いじめられている子どもたちをさらに傷つけるような言葉は慎んでほしい。
これはその通りです。
だから「学校は処刑場兼肉ロボット製造工場」なのです。
これも「長時間拘束」を長期に繰り返す「軍隊か刑務所」のような「学校」という処刑場の在り様は問題なのですは。
ならいっそ「いじめ死」など聞いたことが無い「寺子屋」を復興させたら、いいは。
少なくとも日本で「いじめも無い先進的教育」といわれた北欧やキューバは、「寺子屋の近代西欧的焼直し」ですからな。
内藤朝雄さんのこの指摘が大事だよね。
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さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。
学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。
この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない。
しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。
市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。
たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。
逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。
正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。
こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。
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抜粋終わり
教室は未来の社会・・・て西欧の教育学者がいってたとか。
今の日本にもそれは当てはまる。
・いじめ自殺~過労死自殺
・教師の「教育的措置」による無法化~統一教会政権
・ブラック部活~ブラック労働
・いじめの黙認やその環境の放置~ヘイトや、移民の勧誘と、逆に難民への虐待
内藤さんも同じように
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学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。
こういったことは、学校以外の集団でも起こる。
たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。
また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年あさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。
そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」、「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。
学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」、「宗教」、「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている2。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる。
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抜粋終わり
そもそも「退屈な学校」に耐えれるのは、ほぼごく一部の人間なのですは・・・それで選ばれた人間・・て思いこむアホによって今の「格差社会」が作られているのです。
「能力主義」はなぜしんどい? マイケル・サンデル教授と平野啓一郎さんが語る日本社会の問題(対談全文)
以前から時々載せている裨ジン とか、こういう人らを使えないというか殺してきたのが現状の「学校」だからね・・・
死んだら、精神を壊したら、学校など意味ない。
学校行って犯罪者になるのが、日本での成功の秘訣。
  
一つ言えるのは、教師もそうだが、より以上に日本の指導者・指導層が傲慢でアホになっている。

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