今の日本の姿を見ていて私の頭に思い浮かぶのは石川啄木の「時代閉塞の現状」という文章である。これは文学を論じた文章だが、その基盤として政治も論じられている。その、政治に関する部分だけ抜き出してみる。私には現在の日本がまさに「閉塞の時代」と思えるのである。
我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧 を感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有 なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約
三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税 の費途 なども目撃している。
というあたり、現代の日本と何が違うだろうか。(「租税」部分はふりがなのため赤字変換できなかった。)(戦争が起これば確実に「徴兵」も行われる。)
(以下「青空文庫」から抜粋転載)文中の「国家ちょう問題」は「国家てふ(といふ)問題」という文語文を口語表記にしたための不自然な表記。
(省略)
我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸 したことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正 を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。
今日我々のうち誰でもまず心を鎮 めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔 (不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委 ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷 として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜 によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡 に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。
二
むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生する
ものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧 を感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有 なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約
三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税 の費途 なども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由討究 を始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進
んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。
しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器
なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害 すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはご
めんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰 になっている。曰 く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなし
に一生懸命儲 けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
かの早くから我々の間に竄入 している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵と
しているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
四
かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い
間鬱積 してきたその自身の力を独りで持余 しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌 的、自滅的傾向は、この理想喪失 の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞 」の結果なのである。
見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値で
ある――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口 の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、
彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享 ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次 その数を増しつつある。今やどんな僻村 へ行っても三人か
五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
我々青年を囲繞 する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普 く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々 まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥 の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉 とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦 との急激なる増加は
何を語るか。はたまた今日我邦 において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁 する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかな
る方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪 えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく
盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買 、淫売買、ないし野合 、姦通 の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、
もしくはなかば公認されているところではないか。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧 がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇 した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾 なくその美しさを発揮しているかを。
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の
存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やない
しその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまず
この時代閉塞 の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の
回顧とを罷 めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注 しなければならぬのである。
(以下略)
我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な
三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の
というあたり、現代の日本と何が違うだろうか。(「租税」部分はふりがなのため赤字変換できなかった。)(戦争が起これば確実に「徴兵」も行われる。)
「国家という問題が我々の脳裏に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。」
(以下「青空文庫」から抜粋転載)文中の「国家ちょう問題」は「国家てふ(といふ)問題」という文語文を口語表記にしたための不自然な表記。
時代閉塞の現状
(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)
石川啄木
(省略)
我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも
今日我々のうち誰でもまず心を
二
むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生する
ものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な
三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の
んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。
しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器
なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを
めんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう
に一生懸命
かの早くから我々の間に
しているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
四
かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い
間
見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値で
ある――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から
彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を
五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
我々青年を
何を語るか。はたまた今日
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかな
る方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に
盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが
もしくはなかば公認されているところではないか。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の
存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やない
しその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまず
この時代
回顧とを
(以下略)
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