「志村建世のブログ」から転載。
年を取ることのメリットは、簡単には絶望しなくなることだ。言い換えれば、何度も何度も現実に幻滅する経験を重ね、「希望は実現しなくて当たり前。でも、実現することもある」という心境に達するわけである。
「電脳マヴォ」というサイトにある電子版マンガの「同人王」の最新号に、「度を過ぎた向上心」が逆にマイナスに働くこともある、という話が載っている。この「向上心」とは「理想像」と言っても「夢」と言ってもいい。我々は、ある時点で、その理想や夢に到達するのは不可能だ、と感じ、すべてを投げ出すことがある。これが「度を過ぎた向上心」の反作用なのである。もちろん、私のように「努力アレルギー」という不治の難病に侵されている(笑)人間がこういうことを言っても説得力は無いが、「度を越した向上心」は「心が折れた」時には絶望になりがちであると一般的に言えるだろう。(ついでだが、この「努力アレルギー」も「電脳マヴォ」中のある漫画のセリフだ。)
私は「夢は必ずかなう」という言葉が大嫌いである。では、私の夢と他人の夢が対立するなら、どちらが叶うのだ。まあ、そうでも思わないと、今の世知辛い日本では生きていけないのかもしれないが、「夢ではなく、計画を持ちなさい」と若い人には言いたい。どんな馬鹿げて見える計画でも、実現する可能性はゼロではない。その計画がたとえ失敗しても、それは次の計画のための反省材料、勉強材料なのだから、本当は失敗ではない。
民主党による政権交代は失敗だっただろうか。
いや、それ自体は大成功だったのだ。それによっていろいろなものが変わった。
何よりも、国民の政治意識が変わった。今の民主党への不満も批判も、そういう政治意識によるものだ。そして、その批判や不満は現在の「民主党簒奪グループ」への批判であり、不満である。
鳩山・小沢がいたら、現在の惨状は無かっただろう。
だが、鳩山・小沢がそのままいたとしても、国民は批判し、不満を言っていたはずだ。これは賭けてもいい。(今さら賭けようもないが)
それが、「理想の自家中毒による幻想化」である。
なぜ世間の人間は他人に理想的であれと要求できるのだろう。私にはそれが不思議でならない。
民主党による政権交代は大成功だった。これをまず認識することである。それは、その前の自民党政治は大失敗であったということだ。小泉改革、およびその継承者たちは日本を完全に破壊し、今の格差社会、絶望社会を作った。
このことを確認した上で、今度の選挙を考えれば、日本国民の選ぶべき道は簡単である。もちろん、現民主党は偽民主党である。自民党、および、その同盟党の公明党も問題外だ。維新など論外の基地外だ。みんなの党も自民別動隊にすぎない。ならば、答えはおのずと決まっているはずである。幾つかの、真に国民の利益のために戦う政党がある。そこから選べばいい。
モンキーズの「DAY DREAM BELIEVER」は名曲だが、国民が政治的・社会的な白昼夢を信じている間は、この現実は何も変わらないだろう。
(以下引用)
2012.12.5
政治とは幻滅することに意味がある?
[ 政治・政党 ]
「花てぼ」さんのブログに「今なら日本の未来は天国のよう」と題して「どの政党の方も、心から国民のことを思い明るい日本の未来を声高々に約束なさっている。この日本の未来を考えるとわくわくする。」と書いてあった。もちろん一流の風刺だが、思わずにんまり笑ってしまった。
これまで選挙時の政治家を身近に見ていたことが何度かあるが、誰もが心を奮い立たせて有権者の前に立っていた。少なくとも発言している時点では、自分を暗示にかけてでも確信をもってしゃべっている。そうでなければ力のこもった演説などできるわけがない。その意味では、政治家は嘘つきだというのは当らないことになる。
だが問題は、たとえ当選しても、言ったことをすべて実行するのは難しいということだ。その典型が政権交代を果たした民主党だったのではないだろうか。期待をふくらませた有権者の幻滅は大きかったが、やれると思ったことができずに悔しい思いをし、幻滅を感じた議員もまた少なくはなかった。離党者が出たのも無理からぬところがある。
だが、政治改革に夢を抱いたことが罪ではない。たとえば普天間を「最低でも県外」と言ったのが果たせぬ願望に終ったとしても、政権交代がなければ、今ごろは辺野古の海岸の埋め立てが始まっていたのではないだろうか。基地問題を顕在化させ、沖縄県民に希望を抱かせ、米軍主導の再編計画の強行を大幅に遅らせる効果があったことは否定できないのではないか。
「消えた年金」の追及を旗印とし「役所文化を変える」と乗り込んだ長妻厚生労働大臣の奮闘は短期間で終ったが、公務員の評価基準を変え、「国民の苦情は宝の山」とする改革などは制度として埋め込まれた。医療崩壊と危惧されていた医師不足問題や子育て支援策でも、改善は確実に進んでいる。ここでも、少なくとも政権交代が失敗であったとする理由はない。
政治家に限ったことではないが、人は理想をもって事に当るとき、すべて思い通りになることは少ない。現実とぶつかり、妥協も後退もすることがある。しかしそれは無駄ではないのだ。ぶつかり合う抵抗の中から物事は少しずつ変って行く。その意味では、理想は高く、固いのがいい。
選挙では神様や超能力者を選ぶのではない。私たち人間の仲間から代表を選ぶだけの話である。選挙期間中だけは有権者は王様でいられるのだそうだから、この立場を大いに楽しむことにしよう。
(お知らせ・明日は予定通り、正午に地下鉄丸の内線「国会議事堂前」駅改札出口発、「国会一周アピールお散歩」に行きます。)
年を取ることのメリットは、簡単には絶望しなくなることだ。言い換えれば、何度も何度も現実に幻滅する経験を重ね、「希望は実現しなくて当たり前。でも、実現することもある」という心境に達するわけである。
「電脳マヴォ」というサイトにある電子版マンガの「同人王」の最新号に、「度を過ぎた向上心」が逆にマイナスに働くこともある、という話が載っている。この「向上心」とは「理想像」と言っても「夢」と言ってもいい。我々は、ある時点で、その理想や夢に到達するのは不可能だ、と感じ、すべてを投げ出すことがある。これが「度を過ぎた向上心」の反作用なのである。もちろん、私のように「努力アレルギー」という不治の難病に侵されている(笑)人間がこういうことを言っても説得力は無いが、「度を越した向上心」は「心が折れた」時には絶望になりがちであると一般的に言えるだろう。(ついでだが、この「努力アレルギー」も「電脳マヴォ」中のある漫画のセリフだ。)
私は「夢は必ずかなう」という言葉が大嫌いである。では、私の夢と他人の夢が対立するなら、どちらが叶うのだ。まあ、そうでも思わないと、今の世知辛い日本では生きていけないのかもしれないが、「夢ではなく、計画を持ちなさい」と若い人には言いたい。どんな馬鹿げて見える計画でも、実現する可能性はゼロではない。その計画がたとえ失敗しても、それは次の計画のための反省材料、勉強材料なのだから、本当は失敗ではない。
民主党による政権交代は失敗だっただろうか。
いや、それ自体は大成功だったのだ。それによっていろいろなものが変わった。
何よりも、国民の政治意識が変わった。今の民主党への不満も批判も、そういう政治意識によるものだ。そして、その批判や不満は現在の「民主党簒奪グループ」への批判であり、不満である。
鳩山・小沢がいたら、現在の惨状は無かっただろう。
だが、鳩山・小沢がそのままいたとしても、国民は批判し、不満を言っていたはずだ。これは賭けてもいい。(今さら賭けようもないが)
それが、「理想の自家中毒による幻想化」である。
なぜ世間の人間は他人に理想的であれと要求できるのだろう。私にはそれが不思議でならない。
民主党による政権交代は大成功だった。これをまず認識することである。それは、その前の自民党政治は大失敗であったということだ。小泉改革、およびその継承者たちは日本を完全に破壊し、今の格差社会、絶望社会を作った。
このことを確認した上で、今度の選挙を考えれば、日本国民の選ぶべき道は簡単である。もちろん、現民主党は偽民主党である。自民党、および、その同盟党の公明党も問題外だ。維新など論外の基地外だ。みんなの党も自民別動隊にすぎない。ならば、答えはおのずと決まっているはずである。幾つかの、真に国民の利益のために戦う政党がある。そこから選べばいい。
モンキーズの「DAY DREAM BELIEVER」は名曲だが、国民が政治的・社会的な白昼夢を信じている間は、この現実は何も変わらないだろう。
(以下引用)
2012.12.5
政治とは幻滅することに意味がある?
[ 政治・政党 ]
「花てぼ」さんのブログに「今なら日本の未来は天国のよう」と題して「どの政党の方も、心から国民のことを思い明るい日本の未来を声高々に約束なさっている。この日本の未来を考えるとわくわくする。」と書いてあった。もちろん一流の風刺だが、思わずにんまり笑ってしまった。
これまで選挙時の政治家を身近に見ていたことが何度かあるが、誰もが心を奮い立たせて有権者の前に立っていた。少なくとも発言している時点では、自分を暗示にかけてでも確信をもってしゃべっている。そうでなければ力のこもった演説などできるわけがない。その意味では、政治家は嘘つきだというのは当らないことになる。
だが問題は、たとえ当選しても、言ったことをすべて実行するのは難しいということだ。その典型が政権交代を果たした民主党だったのではないだろうか。期待をふくらませた有権者の幻滅は大きかったが、やれると思ったことができずに悔しい思いをし、幻滅を感じた議員もまた少なくはなかった。離党者が出たのも無理からぬところがある。
だが、政治改革に夢を抱いたことが罪ではない。たとえば普天間を「最低でも県外」と言ったのが果たせぬ願望に終ったとしても、政権交代がなければ、今ごろは辺野古の海岸の埋め立てが始まっていたのではないだろうか。基地問題を顕在化させ、沖縄県民に希望を抱かせ、米軍主導の再編計画の強行を大幅に遅らせる効果があったことは否定できないのではないか。
「消えた年金」の追及を旗印とし「役所文化を変える」と乗り込んだ長妻厚生労働大臣の奮闘は短期間で終ったが、公務員の評価基準を変え、「国民の苦情は宝の山」とする改革などは制度として埋め込まれた。医療崩壊と危惧されていた医師不足問題や子育て支援策でも、改善は確実に進んでいる。ここでも、少なくとも政権交代が失敗であったとする理由はない。
政治家に限ったことではないが、人は理想をもって事に当るとき、すべて思い通りになることは少ない。現実とぶつかり、妥協も後退もすることがある。しかしそれは無駄ではないのだ。ぶつかり合う抵抗の中から物事は少しずつ変って行く。その意味では、理想は高く、固いのがいい。
選挙では神様や超能力者を選ぶのではない。私たち人間の仲間から代表を選ぶだけの話である。選挙期間中だけは有権者は王様でいられるのだそうだから、この立場を大いに楽しむことにしよう。
(お知らせ・明日は予定通り、正午に地下鉄丸の内線「国会議事堂前」駅改札出口発、「国会一周アピールお散歩」に行きます。)
PR
コメント