「紙屋研究所」から転載。
紙屋氏の記事にはだいたい賛同することが多いが、ここでの主張には、私はたぶん反対側に属すると思う。と言って、「蕎麦屋」氏の発言(ここで要約されている限りでのことだが)にも反対だ。
ただ、「認可かどうかはどうでもいい」という、アナーキーな意見には、体質的に共感する。「原資の調達先は保育園に入所している高額所得者に限定」という意見に、首をかしげてしまうのだ。受けるサービスが同じなら、同じ金額を料金として支払うべきであり、なぜ高額所得者が、保育所設立資金まで負担しなくてはならないのか。それならば、その分、つまり、入所者(厳密には入所者父母父兄)の負担可能分を超える分は自動的に税金からの支出でいい。ただし、それは補助金というような形でやるべきかどうかは議論すべきだろう。
ところで、私は保育園と託児所の違いすら分からずにこの議論をしている。まして、保育園と保育所に違いがある、というのは初めて知った。いろいろと難しい区分があるようだ。幼稚園と保育園も違うのだろうか。どこがどう違うのか。
もともと、私は幼稚園にすら通っていない。厳密には家庭の事情で中退している。大学も中退だから、学歴人生の最初も最後も中退だwww ただ、幼稚園に通っていたころ、「幼稚園ってのは実に幼稚だなあ」とうんざりしていた記憶だけが残っている。確か、通園拒否状態だったのではないか。中退の理由は別だが。みんなでそろってお遊戯、お歌というのが、実に不愉快だった。幼児を馬鹿にするな、それほど幼稚じゃない、という気分だったのだが、そういう幼児は案外多いのではないか。
話が逸れた。私の過去記事の中で、保育所と保育園と託児所を混同した記述があるかもしれないが、それらがなぜ「社会の迷惑」になり、またなぜ「社会に必要」なのか、を厳密に考えろ、と言いたい。
もともと、保育園だろうが、保育所だろうが、子供(ほとんど赤ん坊に近いのもいるだろう)にお遊戯やお歌の練習などさせるから近隣の迷惑になるのである。(要するに、騒音公害だ。)そんなもの、子供自身も望んでいないのではないか。
子供が騒いだら叱る、という方針の保育園(まるでロアルド・ダールの「マチルダ」に出てくる寄宿舎だが。)があってもいい、と言えば、また暴論となるかもしれないが、「公徳心」つまり、公の場でのふるまいの心得を幼児のころから植えつけるのは、悪いことばかりでもないだろう。ただし、赤ちゃんの泣き声までうるさい、というのは、それは心が狭すぎる話である。街中で大声で騒ぐ子供や若者など、託児所からやり直せ、と言いたいくらいだ。
(以下引用)
2016-04-05 保育の質をどこで線引きする気なのか
保育の質をどこで線引きする気なのか
これなんだけどね。
今の保育園の問題は、「日本の競争力強化の阻害要因」の問題であって「弱者救済の福祉の不備」の問題ではない。 - 蕎麦屋
このブロガー(「蕎麦屋」)の主張は、どこからか原資を調達してきて認可保育園でなくて、保育所をつくれということにつきる。
その主張の特異性がある。
(1)
認可園に落ちたかどうかが問題じゃないんだ、保育施設が(都内は)満杯なんだ、というのがまずこの「蕎麦屋」の主張としてあるけども、認可かどうか(保育の質)がどうでもいいなら、都の「認可外保育施設指導監督基準」を一気に緩和して、空き教室や都心の廃校や体育館で無資格者を使って数百人を託児すればいい。そこまでいかなくても、今の安倍政権が提案している「緊急の詰め込み」をすればいい(足りなければ足りるまで詰め込む)。
だがそうなっていないのは、親が保育の質を求めるからだ。今の日本ではその質があるかどうかの線引きは認可かどうかだ(東京都ならそこに認証=準認可かどうかという基準が加わる程度だろう)。保育需要に対して一定の質をもったサプライ(認可園)が足りないというのが起きている事態の本質だ。
結局保育の質を落としていいのか、落とすならどこまでいいのか、ということについて、この「蕎麦屋」は何も言っていない。そこが肝心なところなのに。都の「認可外保育施設指導監督基準」(つまり今ある東京都の認可外施設一般の基準)さえ満たせばいいのか、やっぱり認可・準認可くらいの基準はほしいねということなのか。それとも質なんかどうでもいい、とにかく需要さえ満たせばいいということなのか。
※補足
「保育園を考える親の会」は3月28日に安倍政権が出した待機児童緊急対策についての採点を行っている。その中ではいわゆる「詰め込み」対策にはマイナスの厳しい評価をつきつけている。条件緩和しただけの認可外の認可化などは園庭がなくなるなどの理由でこちらもマイナス。「認可外でまったくオッケー」というのは「保育園落ちた!」という叫びの中には含まれていないことがわかる。むしろ一定の質を求めているのだ。
出典: http://www.eqg.org/oyanokai/opinion_160406kinkyu_saitenhyo.pdf
基準を落として押し込めば原理的には簡単に解決する。このブロガーはそのことに何もこたえず、“認可がどうかは問題ではない”と決めつけているのは、問題をあいまいにしているだけでしかない。ブコメで「わかりやすい」「整理されている」などというのが並んでいるのにびっくりするわ。
ぼくは保育は託児ではないのだから、認可水準のものが必要だというのが意見である。そのために国と自治体が金をかけて必要な数の認可園をつくるべきであると考える。そもそも今の児童福祉法は「保育を必要とする場合において、…当該児童を保育所…において保育しなければならない」(24条)とあるからだ(ここでいう「保育所」とは認可保育園のことである)。
(2)
「蕎麦屋」の呼びかけている「解決策」というのは、保育園入所世帯のうち「高額所得者」から累進的な保育料をとって、それを原資にして保育所をつくれというものだ。もちろんすでに保育料は現在応能負担(ある程度累進性がある)になっている。つくられる保育施設の質の問題をおいておくとして、ふんだくる相手を「保育園に入所している高額所得者に限定」することは正しいのか。
戦後児童福祉法ができるとき、保育園はそれまで「救貧対策」としての生活困窮者だけの託児所・児童保護事業ではなくなった(厚生省児童家庭局編『児童福祉三十年の歩み」)。「保育に欠ける子ども」であれば所得に関係なく誰でも保育園に入れることになり、その構造は今でも変わっていない。
保育料が応能負担になっているのは、高所得者まで無料サービスにするのはおかしいので、という別の理由からである(一見ここでぼくの言っていることは「蕎麦屋」と同じことを言っているように見えるが、いったん低所得者対策であることを否定した上で高額所得者から負担金をとるという考えだから、違うのである)。
わかりやすく言い直そう。保育(しかもその保育というのは単なる託児ではなく一定の質をもった保育である)を受けられない子がでないようにするのは、金持ちだろうと貧乏人だろうと関係なく、それは市町村というか公が責任を持つことである。だけど少し負担してね。その際は、お金持ちは多めに出してね。こういうことだ。
このブロガーが「今の保育園の問題は、『日本の競争力強化の阻害要因』の問題であって『弱者救済の福祉の不備』の問題ではない。」と主張するなら、これは社会の経済的基盤を整備するという問題なのだから、全社会的な問題である。一部の利用者だけの問題ではない。となれば受益者負担金である保育料に保育施設(しかも民間の認可外施設)の整備費用の原資を求めるのは筋が通らず、一般の税金から出すべきである。そしてその税金のとり方が応能原則になっていればよい。もしくは法人税*1。
つまり、ぼくが言いたいことをまとめると、税金で認可園をもっとつくるべきだってこと。
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