下の文章は、その「神州の泉」の日本国憲法(特に9条)否定論だが、私は、保守論壇に一般的に見られるこの種の意見は耳タコではあるが、「神州の泉」氏も同じか、と少々がっかりした。私の憲法9条肯定論は論理的と言うよりは本能的、直感的なもので、あまり厳密に考えたことは無いし、私には論理的思考の能力や論理的文章を書く能力は欠如しているので、下の文章への緻密な反論は難しい。つまり、「お花畑のハイジ脳」であるのだが、多くの人がハイジのように素直に、本能のままに考え、行動すれば、世の中はもっとまともになるのではないか。
とりあえず、下の「神州の泉」氏の意見に対し、次のことだけを言っておく。
1)近代日本の軍隊が自国民を守った例はあるか。(沖縄を見よ)
2)近代日本が他国の軍隊から自国領土を侵略されたことはあるか。(植民地は別)
3)日本という、原発が50基以上もあちこちにある国で、防衛戦争が可能か。
4)日本という、長い海岸線を持った国で、防衛戦争は可能か。
5)自国防衛という名目で始まる侵略戦争が、歴史の常ではないのか。
6)戦争は、自国民を守るのではなく、一部の人間の利得のためであるのが現実ではないか。
7)戦争によらずとも、日本はすでに外国の所有物ではないか。(その所有者が米国から中国に変ろうと、何が違うのか。また、中国に日本侵略の意図があるとなぜ言えるのか。)
まだまだありそうだが、とりあえず、これくらいにしておく。戦争というものは、軍隊があろうが無かろうが(両側に軍隊が無ければ、最初から戦争など起こりようはないが、一方だけにあると、無い方は不安にかられ、疑心暗鬼になる。それが軍隊絶対必要論の起源だ。ちっぽけな国が身分不相応な軍隊を持てば笑われるだろうが、なぜ日本は絶対に持たねばならない、となるのか。たとえばバチカン市国が軍隊を持つことで、バチカン市国の安全は守られることになるのか。)、起こしたい人間がいれば起こるものであり、軍隊の存在によって国民(一般庶民)が守られることは無い、というのが私の考えである。むしろ、軍隊があるからこそ、(軍隊維持のために、あるいは金儲けのために)戦争を起こしたがる連中がいる、というのはアメリカを見ればよく分かるだろう。
(以下引用)
戦争と核武装を感情論だけで嫌う人たちの最大の矛盾が、戦後日本が戦争に突入しなかった理由を平和憲法のおかげだとする、恥ずべき自己欺瞞がある。民族というかたまりで見たとき、人類に戦争や核戦争を自己目的化している連中はいない。
そこへ引っ張って行くのは一部のレントシーカーたちである。戦前の軍部を階級闘争史観で悪者にする前に、東亜百年の状況や推移をまず考えるべきだ。話を戻すが戦後の日本人が戦争に突入しなかったのは、平和憲法は一切関係ない。
自ら戦争に突入しなかった、あるいは戦争に巻き込まれずに済んだのは、アメリカの駐留米軍の存在と、アメリカの核の傘下にあったからに他ならない。「寄らば米国核の影」なのだ。アメリカ軍の駐留地域は事実上、軍事的にはアメリカの領土に等しいから、周辺の敵対国家は日本に対して“寸止め”をやるのである。
つまり、アメリカへの隷属状態と米軍の恒久的な受け入れ状態が戦争に向き合わずに済んだことの最大の要因なのである。日本はそのために膨大な用心棒代を払わせ続けられ、小泉政権以降は、国民の生活維持と可処分所得に回る分までが用心棒代という貢物へ流れてしまっている。
負の要素はそれだけではない。他国に軍事占領されたまま憲法まで日本人の自発的なところとはかけ離れたものでできた占領憲法なのである。これでは日本人の誇りや品格が育たないではないか。
経済に目を移せば、日本人自身が汗と努力で生み出した世界的な一流企業や中堅企業までもが、グローバル企業や外資の占領下に落ちてしまっている。
ここへ来て国家戦略特区法や産業競争力強化法が最大稼働状態に入ったら、彼らに払い続ける用心棒代は天井知らずになり、遠からず国民は生活破綻と餓死に直面する。この侵略状況に立ち向かわずに平和憲法の甘い夢に逃避している連中は、度し難い自家撞着に陥っている。
この圧倒的な事実から目をそむけて、平和憲法は素晴らしい、この憲法のおかげで戦後69年も戦争を起こさずに歩んできた我々は、世界に誇る日本だと自己陶酔しているのである。
最初からアメリカ軍が関与せずに日本が丸腰状態にあったなら、間違いなく他国から瞬殺(しゅんさつ)されていただろう。他国に支配されるのも嫌だし、アメリカに法外な用心棒代を払い続けるのも生活ができなくなる。
この状況はABCD包囲網で兵糧攻めを受けた当時とそっくりで、にっちもさっちもいかない状況である。ただし、今の日本を包囲しているのは国ではなく、グローバル企業群(コーポラティズム)なのだ。
だったら日本が普通の国家として独立する以外にないだろう。独立するとは、軍事と経済に対する外側からの脅威に対しては、はっきりとした自前の防衛線を張ることに他ならない。
大国の核の傘下にありながら、平和を守る諸国民を信用しているなどと本気で思っている日本人は、お花畑のハイジ脳なのだ。戦争放棄を素晴らしいと思うのであれば、同時に安保を廃棄してアメリカ軍の駐留を放棄しなければ理屈に合わない。
アメリカの核と軍隊駐留から目をそらして9条万歳を叫ぶのは脳タリンの態度である。また、対米批判をやる連中には、中国マターへ言及することを意図的に避ける連中がいる。彼らは中国に気を遣わなければならない、何か特別な背景でもあるのか。
彼らはお花畑で甘美な夢を見る危ない人たちだ。
9条を堅持して米軍にも出て行ってもらったときには完全な無防備、まるごし状態となる。
ここにチベット人を虐殺した大国の軍隊が攻めてきたら誰が守ると言うのだろうか。日本人男性が虐殺され、日本人女性が凌辱の果てに殺される。子供たちは苛酷な使役に供される。
そういう状況になったとき、まだお花畑の平和憲法にのっとって話し合いを致しましょうとでも言うのか。日本各地では通州事件が同時多発的に進行している中で‥。
恐るべき無責任、卑怯の極地である。戦争は大嫌いだという情緒的な物言いだけで自国の防衛を放棄する連中は度し難い。
非常事態、有事になったときに交戦権を発動できない国はない。自国と自国民を守るための戦闘力発動は当たり前である。日本列島各地で通州事件が勃発しているときに「平和を愛する諸国民」は助けには入らない。
国連が平定に乗り出すときには、日本人の大半は回復不能な死傷を受けている。自分の妻や子供たちが殺された後で、お花畑の平和憲法はまちがいでしたと反省しても遅いのだ。
彼らは日本をきちんと守ろうと言っただけで拒否反応を起こし、日本の伝統文化を称揚するだけで、それはエスノセントリズムだとか、排外主義的なナショナリズムだとか言って悦に入っている大ばか者どもである。
簡単に自国中心主義とか言わない方がいい。日本の神話を無化するのなら、ユダヤ人のトーラ―もエスノセントリズムだと決めつけて無化するというのが論理の一貫性というものだ。
他国は別格なのか?日本の過去を無価値化することは生命体としての自国否定につながることに気づいていない。戦後は気付かずに反知性主義に拘泥している。
エスノセントリズムと排外主義的ナショナリズム。この二つの言葉は日本人にとって魔語なのである。
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