悪の世界では、この南アフリカのような逃避先は有名なのではないか。経済界のタックスヘブンのようなものだ。
(以下引用)
恐るべき支配力
私たちは、各協議の合間、日本国大使館員や国家警察の案内で、松井らが生活していた居住区や事務所を視察した。彼らは、逃亡犯ながら、街並みが整った高級住宅街で生活していた。そして、この地から、日本の反社会的勢力の仲間たちに指示を出して、犯罪収益をあげようと画策していたのである。恐るべき支配力である。
入国管理局との打合せは、スケジュールの都合上かなわなかったものの、身柄引渡しの根幹となる政府機関とはじっくり協議して、一定の成果を得て帰国の途についた。
12月15日朝、プレトリアのホテルをチェックアウトして、ヨハネスブルグに移動した。“次に、この地に来るときは、松井と紙谷と一緒に日本に帰ることになる”。そう考えながら、空港に向かう車中で期待に胸を膨らませていた。それと同時に、南アフリカ当局から出された宿題を反芻していた。
私たちは、その日の昼の便で香港に向かった。
身柄護送の際、中継地となる香港でシミュレーションしておく必要があったからだ。
16日朝、私たちは香港に到着して早々、在香港日本国総領事館職員や空港関係者と落ち合い、護送時の待機場所や護送経路、報道対策、不測の事態が発生した場合の対処要領について打ち合わせた。来春にはきっと実現するだろう身柄の護送について、細部の打合せを滞りなく済ませ、香港を発った。成田に着いたときには夜も遅くなっていた。
翌日から他事件の捜査の進捗状況を見ながら、南アフリカの宿題に取りかかり、翌週からは、東京地検や警察庁と今後の方向性について協議していた。担当している捜査は、この事件だけでなく、多くの重要事件の捜査が同時並行で進んでいた。12月30日には、「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」も発生から12年目を迎えようとしていた。
様々な事件に忙殺されている中、平成23年大晦日、オウム真理教の特別手配犯「平田信」が丸の内警察署に出頭する事態が起きた。続いて1月10日には、平田を匿っていた女性も弁護士に付き添われて大崎警察署に出頭した。この機に乗じ、警察庁は、各都道府県警察に対し、残りの特別手配犯「菊地直子」と「高橋克也」の追跡捜査の強化を指示した。
こうした警察内の激流に揉まれながらも、私は、1月中には、南アフリカ共和国の当局に対する「松井と紙谷の仮拘禁・身柄引渡し要請」に関わるドラフトを作成して警察庁に提出し、警察庁の担当部署ではこれに修正を加えて、2月初旬、正式要請として南アフリカへ送付した。それに続き、警察庁では、法務省や外務省と今後の見通しについて協議していた。
すると、南アフリカから回答が届いた。
“ずいぶん素早い反応だ”と喜んだのも束の間、その回答は、とんでもないものだった。
「裁判官に、『死刑判決は出さない』という誓約書を作成させ添付しろ」というのである。
なんということだ。到底呑める要求ではない。
南アフリカの協議では、「死刑は“求刑しない”という“検察官”の誓約で十分だ」と言っていたのに、いったいどういうことなのか。
今になって無理難題を突き付ける南アフリカ当局の真意が、私たちには読めなかった。裁判官から「死刑判決は出さない」という誓約書など取れるはずがない。仮にそうした誓約書が存在して提出したとしても、南アフリカは更なる難題を突き付けてくるだろう。その思惑が、それまでのやり取りを考えると、透けて見えた気がした。
まさかとは思うが、
「松井と紙谷の身柄が欲しければ、それ相当の“誠意”を見せろ」
とでも言いたいのか。
でも、政府機関が反社会的勢力のような戯れ言を発したりはしないはずだ、と信じたかった。
この南アフリカからの要求について、警視庁、警察庁の内部はもちろんのこと、関係省庁とも議論したものの打開策はなかった。
結局、仮拘禁と身柄引渡しの要請は頓挫することになり、あと一歩の所で私たちのオペレーションは潰えてしまった。
なぜ、南アフリカ当局は、逃亡犯罪者の逮捕に一生懸命にならないのだろう。
南アフリカで協議中、「日本で犯罪を起こし、不法滞在している日本人を国外退去させて欲しい」と依頼したとき、その第一声が、「不法滞在者なんか、この国にはたくさんいるよ。そんな事件に一々手を付けていられない」だった。
日本の捜査機関と全く違った考え方を目の当たりにした、その言葉が思い出された。
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