私の「社会主義」はビスマルクの「国家社会主義」に近いかもしれない。その恩恵を現代のすべての労働者や各国国民は受けているのである。
(一部引用)
ビスマルクは1881年に書いた手紙のなかで、自らの政策を「国家社会主義」 (ドイツ語: Staatssozialismus) と呼んだ[16]。政治学者のバートランド・ラッセルはビスマルクの国家社会主義について「現実には、彼の政策には社会主義よりも国家の方がはるかに多く、国家社会主義という名は大きな誤解を招きやすいのである。」と述べた[17]。ビスマルクの創設した災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度は労働者階級の福祉向上に大きく貢献し、その後のドイツの社会政策の基礎となり、欧米や日本など世界各国で導入された[18]。
(以下引用)
語源と用語、および定義[編集]
アナキズム(英: Anarchism)の語源は、「支配者」を意味する αρχή(archi)に「〜が無い」を意味する接頭辞の ἀν-(an-)が付いた「支配者がいない」ことを意味する古代ギリシア語の ἀναρχία(anarkhia)である[4][5][6][7]。接尾辞の -ισμός(-ism)は思想・イデオロギーであることを意味している。英語では、 anarchism という言葉は1642年から anarchisme として現れ[8]、anarchy は1539年から現れた[9]。フランス革命における様々な派閥は、敵対者に対して anarchists という烙印を押したが、そのような非難を受けた者の中に後のアナキストと同様の見解を持つ者はほとんどいなかった。ウィリアム・ゴドウィン(1756〜1836)やヴィルヘルム・ヴァイトリング(1808〜1871)などの19世紀の多くの革命家は、次の世代のアナキズムの原則に貢献することになったが、彼らは自分自身や自分の信念を表現する際にアナキストやアナキズムといった語を使わなかった[10]。
自らアナキストを名乗った最初の政治哲学者は、「無政府主義の父」と言われている19世紀フランスのピエール・ジョゼフ・プルードン(1809〜1865)である。1890年代以降、フランスを始めとしてリバタリアニズムはアナキズムの同義語として用いられることが多く[11][12]、アメリカ以外の国では現在でも同義語として使われるのが一般的であるが[13]、他方では個人主義的な自由市場哲学のみを指す言葉としてリバタリアニズムを用いる人もいており、自由市場無政府主義をリバタリアン・アナキズムと呼んでいる[14]。
国家への反対はアナキズム思想の中心だが、様々な潮流がアナキズムを微妙に異なって捉えているため、アナキズムを定義することは容易ではなく、学者やアナキストの間で多くの議論がなされている[15]。そのため、アナキズムとは、あらゆる人間関係の営みにおける権威や階層的組織(国家、資本主義、ナショナリズム、および関連するすべての制度)に反対し、自発的な結社と自由、および分権化に基づく社会を支持する政治哲学の集合体であると言えるかもしれない。しかし、この定義は語源に基づく定義(単なる支配者の否定)や、反国家主義に基づく定義(アナキズムはそれ以上のものである)、あるいは反権威主義に基づく定義(これは結果論である)と同じ欠点を持っている[16]。とはいえ、アナキズムの定義の主要な要素には以下のものが挙げられる[17]。
- 非強制的な社会への意志。
- 国家組織の棄却。
- 人間本性が、そのような非強制的社会の中に人間が存在すること、あるいはそれに向かって進歩することを可能にしているという信念。
- アナキズムの理想を追求するための具体的行動の提案。
近代[編集]
フランス革命の際、アンラジェとサン・キュロットのパルチザングループは、反国家主義と連邦主義の騒乱の中に転機を見た[24]。最初のアナキズムの流れは18世紀を通して発展した。ウィリアム・ゴドウィンはイギリスで哲学的無政府主義を支持し、国家は不当なものであるとの道徳的な判断を下した。マックス・シュティルナーの思想は個人主義への道を開き、ピエール・ジョセフ・プルードンの相互主義理論はフランスの肥沃な地に根を下ろした[25]。このアナキズムの古典時代は、1939年にスペイン内戦が終わるまで続き、後にアナキズムの黄金時代だったと考えられるようになった[25]。
ミハイル・バクーニンは、相互主義に基づいて集産主義的無政府主義を確立し、国際労働者協会に加入した。国際労働者協会は、後に第一インターナショナルとして知られるようになった結社であり、多様な革命的潮流を統合するために1864年に発足した。インターナショナルは重要な政治勢力となり、その重要人物であるカール・マルクスは総評議会のメンバーであった。バクーニンの派閥であるジュラ連合と、相互主義者であるプルードンの支持者は、マルクスの国家社会主義に反対し、政治的自制主義と小規模な私有財産制を主張した[26]。苦い論争の後、バクーニン主義者は1872年のハーグ大会でマルクス主義者によってインターナショナルから追放された[27]。バクーニンは、「革命家がマルクス主義の条件下で権力を得た場合、労働者の新たな専制君主に終わることになるだろう」という有名な予測を残した。追放された後、アナキストはサン=ティミエ・アナキスト・インターナショナルを形成した。ロシアの哲学者・科学者であるピョートル・クロポトキンの影響の下、無政府共産主義は集産主義と重なり合うようになった[28]。1871年のパリ・コミューンに触発された無政府共産主義者は、自由な連邦と必要に応じた物資の分配を提唱した[29]。
世紀の変わり目には、アナキズムは世界中に広がっていた[30]。中国では、少数の学生グループが無政府共産主義の人文主義的なプロサイエンス版を輸入した[31]。東京は、極東の国々から勉強のために殺到した反抗的な若者たちのホットスポットだった[32]。ラテンアメリカでは、アルゼンチンがアナルコ・サンディカリスムの牙城になり、最も顕著な左翼イデオロギーとなった[33]。この間、少数のアナキストが戦術として革命的な政治暴力を採用した。この戦略は、後に「行為によるプロパガンダ」として知られるようになった[34]。個人主義的な政治的表現と行動を好んだパリ・コミューンの弾圧に続いて、フランスの社会主義運動は多くのグループに分断され、多くのコミュナード(英語版)が処刑および流刑された[35]。多くのアナキストがこれらのテロ行為から距離を置いていたにも関わらず、運動には悪評が付いた。イリーガリズム(英語版)は、同年に一部のアナキストが採用した別の戦略である[36]。
議論[編集]
哲学講師のAndrew G. Fialaは、アナキズムに反対する5つの主な論拠を挙げている。第一に、アナキズムは実利的世界(つまり抗議活動の場)だけではなく、倫理の世界でも暴力や破壊と関係していることを指摘している。第二に、犯罪から市民を守るために行動する国家、あるいは国家に類似した何かがなければ、社会が機能することは不可能であるというものである。Fialaは、トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」やロバート・ノージックの「夜警国家」を例に挙げている。第三に、アナキズムは現実的に国家を打倒することができないため、実現不可能であるか、あるいはユートピア的であるとの評価である。この種の主張は、制度を改革するために制度内での政治的行動を求めることが多い。第四に、「archiei」には誰もいないと主張しているが、多くの人々に受け入れられれば、アナキズムは支配的な政治理論に変わるため、自己矛盾しているということである。この種の批判も、集団行動を求めるアナキストの呼びかけは個人の自律性の支持と競合しており、それゆえ集団行動をとることができないという自己矛盾から来ている。最後に、Fialaは哲学的無政府主義への批判として、その議論と思考はすべて無力なものであり、そうこうしている間にも資本主義とブルジョワ階級は依然として強く残っているということに言及している[143]。
哲学的無政府主義は、A. John Simmonsの『Moral Principles and Political Obligations』(1979年、未邦訳)のような親アナキズム的書籍が出版された後、アカデミアの人々から批判を受けた[144]。法学教授のWilliam A. Edmundsonは、哲学的無政府主義の誤った三大原則に反駁するエッセイを執筆した。Edmundsonは、通常の国家に従う義務は確かにないが、だからといってアナキズムが必然的な結論になるということはありえず、国家が道徳的に正当なものであることに変わりはないと主張している[145]。
唐鳳(オードリー・タン)は自らを「保守的なアナキスト」と呼ぶ。氏の考えるアナキズムとは「強制のない世界」で、権力に縛られず、暴力で威圧されず、変革に取り組むが、進歩のために伝統を切り捨てたりはしない。肝心なのは強制のなさであり、日本語訳の「無政府主義」はアナキズムの意味を狭めると批判する[146]。
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