朝鮮紀行
『朝鮮紀行』 (ちょうせんきこう) Korea and Her Neighbours | ||
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著者 | イザベラ・バード | |
訳者 | 朴尚得、時岡敬子、工藤重雄 | |
発行日 | 1898年、1905年 | |
発行元 | 1925年(抄訳)、1993年、1994年、1998年、2008年、2009年 | |
ジャンル | 旅行記 | |
国 | イギリス | |
言語 | 英語 | |
コード | ISBN 4-582-80572-8 ISBN 4-582-80573-6 ISBN 4-8099-0724-4 ISBN 4-06-159340-4 ISBN 978-4-8447-0011-1 ISBN 978-4-256-80572-5 ISBN 978-4-256-80573-2 | |
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『朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バードが1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮(朝鮮王朝)を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。
概要[編集]
釜山の印象[編集]
日本探索を終えてから、日本経由で釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に日本の豊臣秀吉軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している(「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」[1])。
狭くて汚い通りを形づくっていて、骨組みに土を塗って建てた低い上に窓がなく、屋根はわらぶきで軒が深く、どの壁にも地面から2フィートのところに黒い排煙用の穴があるあばら家の外側にはたいがい不規則な形の溝が掘ってあり、固体および液体のごみがたまっているために釜山は朝鮮の中でもみすぼらしいところなのだろうと思ったが、それらは朝鮮の街で一般的であることを後の体験で知ったと述べている[2]。
朝鮮の町並みとソウルの悪臭[編集]
バードは本書の中で、ソウル、条約港、幹線道路の周辺のはげ山は非常に目につき、儒教の影響で国内で見下されている手工業は不振で美術工芸は何もなく、国土の有様に関しても不幸な未来を抱かせると述べている。朝鮮半島南部の大部分は、墓地理由を除き皆無であったと記している。1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している[3]。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道といっても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」、小川というか下水というか水路について、「蓋のない広い水路を暗くよどんだ水が、かつては砂利だった川底に堆積した排泄物やごみの間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく」と記している[4]。1660年~1864年の間に死亡者が多数発生した疫病は79回あるとして、このうち一回で10万人以上が死亡した場合は6回もあったと不衛生さを述べている。また、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない、と驚いた。孔子廟と碑を除くと公認の寺院がひとつもなく、城内に僧侶が入ると死刑に処せられかねないため、清や日本ならどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている[5]。他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している[6][7]。
貨幣・通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している[8]。
日清戦争後のソウル環境改善の印象[編集]
バードによると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年から税関長マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている!(講談社学術文庫版p545)」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きまわりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている(同頁)」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記している。その結果、ソウルの街並み環境は著しく改善し、バードは、1894年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ろうとしたが、「そんな場所はどこにも見つからなかった」と記載する程の改善を見せた(同p546)。
乙未事変[編集]
1895年10月、乙未事変の一報に接すると、閔妃に愛情を抱いていたバードは、日本の当局の妨害をものともせず、漢城に向かう。これが3度目の朝鮮訪問となった。約2か月漢城に滞在し、閔氏殺害について子細に記録した。事件について「野蛮な殺害」、「乱暴な暗殺」、「悪魔的な殺害」と表現し、この流血の所業がソウル駐在日本公使館の手になる野蛮なクーデターであることを認めている。「キツネ狩り」という符牒のもとに実行された蛮行を現場で目撃した最初の西洋人は独立門を設計したロシア人建築家のアレクセイ・セレディン=サバチン(Алексей Середин-Cабатин)だった。その回想によれば「乾清宮の床は20~25人の日本刀を手にした和服姿の日本人で占拠された。彼らは部屋の内外を飛び跳ねながら、女の髪をつかんでは地べたに放り投げ足蹴にしている」。彼らは閔妃を探すため、多くの宮女を殺害し、何人かの宮女が一人の貴婦人を取り囲んでいるのを見るや、それが閔妃だと決めつけ刀で斬殺した。ある者たちは閔妃の死体を凌辱し、あげくは石油で燃やしてしまった。高宗と皇太子もやはり脅迫を受けた。皇太子妃も例外ではなかった。血まみれになって引きずられた。その時のショックで得た病で数年後、夭逝する。バードは首謀者の三浦梧楼と配下の蛮行を非難したものの、日本政府への抗議はしなかった。その後は惨劇の起きたソウルを離れ、京畿道と黄海道を経て、平壌に至る地方旅行を開始した。
同族統治と他族統治下での朝鮮人の違い[編集]
また、ロシア国境部の沿海州ではロシアの影響により近代化が進んでおり、水路が整備され、衛生にも配慮され、そこに住む朝鮮人の家屋は朝鮮半島のものより立派、彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だっだと記述した上で、「朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた」と朝鮮半島での朝鮮人たちと違う沿海州の朝鮮人でその考えを大いに修正しなければならなくなったことを明かした。朝鮮中の誰もが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食を賄う以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのだと分析している。沿海州の朝鮮人の裕福さや品行のよさから「朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる」と朝鮮半島が他国の統治を受ければ半島の人々も沿海州の朝鮮人になることが可能であることとしている[9]。
イザベルは国王が事実上朝鮮政府そのものになっていて、憲法がなく議会も存在しないのである以上、国王の公布した勅令以外に法律はないことにある。朝鮮半島の朝鮮人が豊かになるためには2つの条件が不可欠であるとして 、「朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない」、「(王制を残すなら)国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」と結論づけている[10]。残虐だった刑罰について、日本の影響下に入った後は拷問は廃止されたし、切断された首や胴体をさらしたり、笞打ちや身体のそぎ切りで死にいたらしめるような刑罰も禁止された[11]。
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