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徽宗皇帝のブログ

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イスラエルの労働者問題
web春秋というネットマガジン所載の記事で、これほど綿密にイスラエルとパレスチナの関係の複雑さを書いた文章は稀だろう。実は、あまりに長いので、最後の3分の1くらいは未読で、後で読むための保存でもある。

(以下引用)1回では載らない場合、分割する。

希望のディアスポラ――移民・難民をめぐる政治史 早尾貴紀

労働経済から見たイスラエルとパレスチナ――労働機会を求める人、労働力を求める社会


はじめに 


 パレスチナ/イスラエル問題は、どうしても一般的には、「宗教対立を背景にした民族紛争」というイメージを持たれがちである。聖地エルサレムを最大の争点として、ユダヤ教徒のイスラエル人とムスリムのパレスチナ人が、聖地に対する正統性をめぐって相争っている、と。もちろん、そういった対立構図は、政治的煽動とマスコミによる短絡によって生み出された虚偽である。宗教・民族的な背景については、第7回と第8回で述べたこととも重なるので、ここではそれ以上詳しく論じない。


 宗教対立ではない、民族対立ではない、と繰り返すだけでは、しかしパレスチナ/イスラエル問題のイメージを修正するのは難しいだろう。今回はそこで「労働経済」という視角を導入して、問題の構図を描き直してみたい。というのも、イスラエル建国前から現在にいたるまで、国家(建国運動)を支えるのは「労働力」なのであって、その労働者を集めることにおいては、ユダヤ人もアラブ人も利用されたからである。その出発点として、まずイスラエルにはいま現在も、ヨルダン川西岸地区とガザ地区から、すなわちイスラエルが軍事占領をして原則的には封鎖しているパレスチナ自治区から、たくさんのパレスチナ人が労働者として毎日イスラエル領内に出稼ぎに来ているという事実を挙げておきたい。


 もちろんこれは、平和共存や相互理解や相互利益がある、ということを言いたいわけではない。パレスチナ人労働者に対する差別や搾取の構造は深刻だ。単純に紛争か共存かという二択ではないのだ。イスラエルが西岸地区とガザ地区を徹底的に破壊しパレスチナ人を抹消しようとしているというだけであれば、イスラエル経済のパレスチナ人への労働力依存は説明しようがない。生かすのか殺すのかではない。生かさず殺さずというのが現実に近い。単純化に陥らないように、丁寧に話を追っていきたい。


 1 被占領地のパレスチナ人がイスラエルで労働をする現状


 「イスラエル・パレスチナ問題」と呼ばれるものは、いったいどのようなイメージを持たれているだろうか? 第一には、双方の対立図式だろう。


・イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人とはお互いに憎悪している。


・ユダヤ人とパレスチナ人とはエルサレムを中心とする一つの聖地の奪い合いをしている。


 第二には、パレスチナ=テロリスト図式だろう。


・イスラエルの市民を、パレスチナ人のテロリストが不当に脅かしている。


・イスラエルは民主国家で、パレスチナ人は野蛮で狂信的なイスラーム教原理主義者の集まりである。


 第三には、完全な隔離と封鎖のイメージだ。


・イスラエルは、ヨルダン川西岸地区とガザ地区を隔離壁で囲い込み完全に封鎖している。


・ユダヤ人はイスラエル領にいて、封鎖下のパレスチナ人と接触することがない。


 この代表的な三つのイメージはすべて誤りである。まず端的な事実として、イスラエルが西岸地区とガザ地区を軍事占領下に置いた、1967年の第三次中東戦争以来、半世紀以上にわたって万単位のパレスチナ人がイスラエル領へと労働者として「通勤」し、イスラエルのユダヤ人の雇用主のもとで労働している。これらのパレスチナ人労働者たちの多くは、イスラエル社会へ入って、程度の差はあれヘブライ語を操りながら働き、賃金を得て、そして西岸地区・ガザ地区の家へと帰っていく。すなわち、イスラエルのユダヤ人と被占領下のパレスチナ人とは日常的に接触があり、経済活動をある面ではいっしょにしているのだ。全員が全員そうではないにせよ、しかしそう珍しいことでもない。


 もちろんこれは、対等な関係などではない。ユダヤ人の側が常に雇用主であり、パレスチナ人の側は労働者であり、しかもいつでも使い捨てられる不安定雇用の安価な労働力にすぎない。雇用される職種も、建築現場の作業員や、清掃業や、農作物の収穫など、低賃金の肉体労働におよそ限定されている。その歴史的構造については後述していくが、その過程で、上記の三つの紛争イメージのどこがどう誤りであるのかもさらに具体的に明らかになっていくだろう。


 ユダヤ人とパレスチナ人のあいだになんらかの軋轢があるのは、一般化すれば事実である。だが、同等な立場で反目しあっているのではなく、軍事力や経済力ではゾウとアリほどもの圧倒的格差のなかで、しかも格差があるというにとどまらず、イスラエル国家がパレスチナ占領地を一方的に支配・弾圧しているという構図のなかで、軋轢が生じている。その意味では、上記の紛争イメージの一つ目も二つ目も誤りなのは明白なのだが、しかし、それでもなお、パレスチナ人がイスラエル社会へ労働しに行くことによって、パレスチナ人とユダヤ人は接点を持っている。すなわち、紛争の第三のイメージもまた誤りなのだ。


 どんな社会も経済活動なしには成り立ちえず、どんな経済活動にも労働力が必要であり、その労働力は労働者が提供するほかない。そして、労働生産性のことを考えれば、どうしても低賃金労働が求められる現実がある。世界中の労働力需要は、そうした背景からその歴史上つねに越境的な移住労働者を生み出し、呼び寄せつづけている。そのことは、本連載の第5回で詳述したように、日本社会にも当然あてはまることであり、感覚的にも理解できよう。「単一民族社会」と謳い、日本人至上主義的な排他的政策を実施しようと、外国人労働者は日本へと来るし、労働現場では安価で使いやすく捨てやすい労働力を求めている。政権も経済界のニーズに応えて外国人労働者政策を妥協しながら導入する。


 イスラエルにとって西岸地区とガザ地区とは、1967年の軍事占領以降、そうした安価で便利な労働力の供給源となってきたのであった。その詳細は時系列に沿って後述しよう。


2 労働シオニストの入植村「キブツ」の理念と現実


 イスラエルというユダヤ人国家は、19世紀末からのシオニズム運動を経て、おもにヨーロッパおよびロシアからパレスチナへの集団的なユダヤ人移民によって、1948年に建国された。その過程では、ヨーロッパのなかでの反ユダヤ主義、ユダヤ人排斥運動を第一の背景とし、また前回第8回で見てきたように、第一次世界大戦によるオスマン帝国の敗退と崩壊によって、オスマン領だったパレスチナ地域が戦勝国のイギリス帝国領となったことを第二の背景として、パレスチナへのユダヤ人移民運動とユダヤ人国家建設運動が進められていった。


 このシオニズム運動を中心的に担ったのが、労働シオニストと言われる党派であり、それはとくに20世紀初頭の東欧からロシアにかけて広がった社会主義的な労働者運動と民族自治との融合をはかった潮流のなかにあった。すなわちそれは、ユダヤ人労働者運動として、階級問題と民族問題の調停をパレスチナにおいて実現しようとしたのだ。


 その歴史のなかで重要な役割を果たしたのが、ユダヤ人の集団的農業入植村「キブツ」であり、キブツは自給自足的なユダヤ人のコミューンとしてユダヤ人国家の象徴的意味合いをもつとともに、「理想的コミューン」の実践例として世界中に知られることとなる。そのため、イスラエル建国後もキブツにはコミューン体験を求めて世界中から若者らが集まっており、日本のパレスチナ報道で著名なジャーナリストである広河隆一や土井敏邦などもキブツ滞在をきっかけにイスラエル・パレスチナ問題に関心を向けるようになったのであった。


 だが大岩川和正の先駆的な研究によると、キブツ的なものは、ユダヤ人の入植村のごく一部に過ぎないうえに、キブツも含めた入植村は実際のところ、ユダヤ人の自給自足的コミューンではありえなかった。


 ユダヤ人のヨーロッパやロシアからパレスチナへの集団移民・入植活動は、19世紀末から始まる。彼らはヨーロッパ人・ロシア人のユダヤ教徒、いわゆるアシュケナジームである。他方で、パレスチナの地では先住のアラブ人たちが都市および農村で暮らしていた(多くがムスリムではあったが、少数ながらキリスト教徒とユダヤ教徒もいた。このユダヤ教徒はアラブ人である)。そのアラブ人世界にヨーロッパやロシアからユダヤ人移民は少しずつ入植していく。


 だが、このユダヤ人入植者らは、実際には「経営者」となり、先住アラブ人を大量に雇用することで、農産業を営んでいた。というのも、ヨーロッパのユダヤ人たちは、もともと農村から排除されていたために商人や技術者や研究者となっていたのであり、農業の知識や経験がなかった。また、入植初期においては、人口比は圧倒的に先住アラブ人のほうが多く(ユダヤ人口比率は1900年頃で数%、1920年頃にようやく10%を越えた程度であった)、アラブ人を抜きにしたユダヤ人だけの「自立(完結)」した経済構造を想定すること自体に無理があった。さらに、彼らの入植村の経営は、ユダヤ民族基金が取得した土地を借り受け、世界シオニスト機構から資本金を借り入れることで成り立っていた。この両組織は、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを目的とした海外のユダヤ人による国際的な組織であるが、すなわち、土地にせよ資本にせよ、完全に外部の組織に依存していたのだ。それは経済的合理性によるものではなく、ユダヤ人国家という至上命題のための民族的かつ政治的な動機によるものであった。そしてその入植村の労働力は、経営基盤の弱さゆえに、地元のアラブ人の低賃金労働に依存していた。


 総じてイスラエル建国以前のパレスチナにおいては、ユダヤ人の労働者階級を増強させることを通じて、ユダヤ人の自己完結的な経済社会の確立を目標としていたという点で社会主義的な理念が保たれつつも、現実的には海外からの絶えざる資本注入とアラブ人(低賃金労働者)の雇用によって経営していたという点でひじょうに資本主義的であり、しかも国際的な資本投入と民族的マイノリティの労働搾取という典型的な資本主義の側面を有していた。


 この構図は結局のところ、イスラエル建国まで変わることはなかった。というのも、ユダヤ民族基金がどれだけ強引に土地取得を進めても、またナチスの台頭という背景によってヨーロッパからのユダヤ人移民がどれだけ急激に増えても、イスラエル建国直前の1947年の時点で、パレスチナの地(現在のイスラエル国家と西岸地区とガザ地区を合わせた地域)におけるユダヤ人による土地所有率は10%にすぎず、パレスチナの総人口におけるユダヤ人の人口比は30%にすぎなかったからだ。この土地と人口の比率でもって、パレスチナに「ユダヤ人国家」を建設することは現実的ではなかったし、半世紀にわたる入植活動の成果がこの程度では、土地と人口で過半を得るには(しかもユダヤ人を迫害するナチスはすでに敗北していた)、さらに半世紀を要しても覚束ないものと思われた。


 この問題を一挙にクリアしようとしたのが、国連を舞台としたパレスチナ分割の画策であり、そしてそれを根拠とした第一次中東戦争であった。すなわち、国連の力で一挙に土地の半分を割譲させることで独立国家を得て、さらに圧倒的な武力でもってさらに広大な土地を取得しつつ、そこに暮らしてきた先住パレスチナ人を虐殺・追放してユダヤ人口比の優位を獲得しようとしたのであった。ユダヤ人国家の根源にある暴力性である。


3 1948年建国後イスラエルと中東・ロシア・エチオピアからのユダヤ人移民


 1947年11月の国連パレスチナ分割決議でパレスチナの50%強の土地がユダヤ人国家の側に認められ、そしてそれを不当とするアラブ人側と、エルサレムを含むさらに広大な土地を求めるユダヤ人の側とのあいだで戦争が勃発。その戦闘の最中の48年5月にユダヤ人国家としてイスラエルの建国が宣言され、翌49年にパレスチナの77%の土地をイスラエルが手中に収めたところで休戦協定が結ばれた。残りの23%がヨルダン川西岸地区とガザ地区ということになる。この時点から両地区がイスラエルに軍事占領される1967年の第三次中東戦争まで、西岸地区はヨルダン領に、ガザ地区はエジプト支配にあった。


 イスラエル領となった地域からは80万~100万人ほどのパレスチナ難民が発生し、西岸地区、ガザ地区、ヨルダン、シリア、レバノン、エジプトへと逃げ込んだ。彼らは国連によって帰還権を認められながらも、それがかなわぬまま難民キャンプでの生活を長く強いられることになる。


 他方イスラエルでは、ユダヤ人国家の建国によってようやく念願だった「ユダヤ人による完結した経済社会」が成立しうる機会が訪れたように見えた。だが、「ユダヤ人国家」あるいや「ユダヤ人の完結した経済社会」とは何を意味するのだろうか。全国民がユダヤ教徒だけで構成されればそれが実現したと言いうるのだろうか。しかしそれは二重の意味で不可能なことであった。一方でイスラエル国内にはなお総人口の20%ほどのアラブ人が残り、「イスラエル国民」となった。先住民でありながらマイノリティとなり、しかもユダヤ教を国是とする宗教政策と民族主義によって、パレスチナ人アイデンティティを否定され、不可視の二級市民とされていったのだが、しかし、マジョリティのユダヤ人の側からすれば20%のアラブ人の存在は潜在的な脅威でありつづけた。


 他方で、建国直後のイスラエルは期待したほどのユダヤ人移民を世界中から集めることができないでいた。その理由は、ナチスがドイツおよび広大な占領地のユダヤ人を「追放」する政策(パレスチナへの移民につながる)から「虐殺」する政策へと転換したために、潜在的な移民人口を失ってしまったことが一つ。もう一つは、欧米のユダヤ人たちが、気候風土も異なり経済的にも未発達でかつ政情的に不安定な新生イスラエルに移民することを好まず、戦火の止んだ欧米にそのまま残ることを選んだことであった。


 それゆえにイスラエルは、建国直後から現在にいたるまで、ありとあらゆる策を講じてユダヤ人移民を非欧米圏から探すこととなるが、そこで必要となるのは、元の社会の政治経済的な不安定要因だ。高邁なユダヤ・ナショナリズムによって、つまり繁栄した私生活を犠牲にして、ユダヤ人はイスラエルに移民するのではない。元の社会に比して優位かつ安定した政治経済的条件によって移民するのである。最初に目をつけたのは、東はイラクから西はモロッコにいたる中東アラブ世界の反イスラエル感情である。イスラエルが建国され周辺アラブ諸国を巻き込む戦争となり、すべてのアラブ諸国がイスラエルを承認しない政策をとった。イスラエルはこの反発を逆手にとって、こうしたアラブ諸国に古代から暮らしてきたユダヤ人コミュニティに対して、むしろ反ユダヤ主義を煽り立て、そしてイスラエルへの移民を徹底して促した。古いユダヤ人コミュニティに対する攻撃(反ユダヤ主義を煽るビラや実際の銃撃・爆弾まで)を自作自演してまで、アラブ諸国のユダヤ人コミュニティの不安を掻き立て、移民を強引に進めたのであった。


 この結果として、建国後から1960年代までにほとんどの中東アラブ諸国ユダヤ教徒コミュニティが一掃され、イスラエルにおけるユダヤ人口の半分をアラブ系ユダヤ人(ユダヤ教徒のアラブ人)が占めるに至った。すなわち、シオニズム運動・イスラエル建国を実現したヨーロッパのユダヤ人たちが社会の上流支配層を占めている一方で、アラブ系のユダヤ人たちは、先住アラブ人マイノリティとの狭間に置かれ、そのアラブ人としての出自を自己否定して強固な「ユダヤ人」アイデンティティを自ら演出しつつ、しかしヨーロッパ系ユダヤ人からは差別される社会の底辺層をなしていったのである。こうしてイスラエルは、ヨーロッパ系ユダヤ人(アシュケナジーム)、中東系ユダヤ人(ミズラヒーム)、アラブ人(ムスリム・キリスト教徒)という三層構造となった。


 さらにそれに輪をかけて階層構造を複雑化させたのは、1980年代以降の、ソ連邦およびエチオピアの政治経済的不安定を背景にしたユダヤ教徒のイスラエルへの大規模移民であった。どれだけ大規模にユダヤ人移民政策を進めようと、アラブ人の出生率の高さゆえに、アラブ人が人口比の20%を占める構造(ユダヤ教徒のアラブ人つまりミズラヒームは含まないでこの数字だ)を根本的に変えることができないイスラエルは、次々とユダヤ人移民を促進する政策を打ち出さなければならない。詳細は省くが(早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ』参照)、ユダヤ教徒という規定さえ危うい自称ユダヤ人たちが自国の政情不安と経済不況から脱出する口実としてイスラエルへの移民という手段を取ることを、ユダヤ人口増加政策に利用したのだった。主に経済動機に基づくソ連邦とエチオピアからの移民は、新しいエスニック・コミュニティを生み出し(ロシア系120万人とエチオピア系15万人)、新たな低賃金労働者層と失業者層を生み出すと同時に、国民的統合と差別の問題を生み出した。新移民自身もユダヤ人アイデンティティを持たずユダヤ・ナショナリズムにも乗らず、もっぱら経済動機に基づいて移民をしているのが実情だからだ。


4 1967年第三次中東戦争による西岸・ガザ地区の占領


 さて、冒頭に触れたヨルダン川西岸地区とガザ地区からのパレスチナ人労働者の話に入ろう。


 1967年にイスラエルと周辺アラブ諸国とのあいだで第三次中東戦争が起こり、短期間のうちにイスラエルが圧勝、ヨルダン川西岸地区とガザ地区を含む広大な土地をイスラエルは軍事占領下に収めた。以来現在にいたるまで半世紀以上にわたって、西岸地区とガザ地区とはイスラエルが全面的に支配している。


 ここで注目すべきは、占領と同時に、被占領下のパレスチナ人のイスラエル領内での出稼ぎ労働が始まっていることである。パレスチナ人からすれば、貴重な現金収入を得る(しかも比較的割のいい)機会であり、イスラエル側からすれば被占領下のパレスチナ人は都合のいい安価な労働力であるからだ。このことの背景については説明が要るだろう。「軍事占領」という状態は、実際にその地を歩いたことでもないと、なかなかイメージしにくいだろうからだ。


 軍事占領下に置くということは、占領地の社会生活のすべてを支配するということを意味する。すなわち、人の出入り、物の出入り、政治活動、経済活動、文化活動のすべてだ。被占領下では徹底して、自立的な活動が制限され、一挙手一頭足が占領者による許可制となり、占領者にすべてが依存させられるようになる。そしてパレスチナの場合はそこに輪をかけて、1948年前後のイスラエル建国時に大規模な難民が、すなわち無資産者(剥奪された者)が居る。自給的農村の条件が最初から破壊されているに等しい。そこへ軍事占領が重なったのである。物資の搬入も建設も開発もすべて規制され、農地さえも奪われる。経済発展は遅れるのではなく、意図的に阻害されるのである。これを、ガザ地区研究の第一人者であるサラ・ロイは、「低開発(under-development)」ではなく「反開発de-development」であると呼んだ。社会発展のありとあらゆる条件を剥奪されるのだ。


 他方で、イスラエルは西岸地区とガザ地区を「裏庭」のように弄んでいる。完全に自国領として併合するのではなく、都合よく利用しかつ都合よく使い捨てられる場所として。1967年から、いつまでというのはその時期や段階で異なるのだが、ある意味では現在にいたるまで、この構造のなかで、持たざる(奪われた)パレスチナ人たちは、イスラエル領で労働せざるをえなく仕向けられたのである。


 とくに1987年に最初の集団的な抵抗運動「インティファーダ」が起こるまでの20年間は、西岸地区とイスラエル領とのあいだの休戦ラインはまるで存在しないかのように、パレスチナ人たちはイスラエル領に出入りしていた。主要道路の検問所には軍用ジープが1台あるのみで、イスラエル兵はほとんど通行を止めることなくパレスチナ人の労働者をイスラエル側に通過させていた。労働許可証も数万人単位で簡単に発給されていたが、許可のない不法労働も万単位で黙認状態であった。合計すれば10万人を超えるパレスチナ人労働者が被占領地からイスラエル領へと出稼ぎ労働をしていた。それを「蜜月」と称する向きもある。あの時代は平和で、お互いにうまくやっていた、と。もちろんそれが一方的な支配と搾取によるものであることはすでに明らかだろう。そのように占領者が思い込んでいたにすぎない。


 1990年代でもなお、分離壁は存在せず、イスラエルと西岸地区を分ける検問所は、やはりジープや装甲車を置くだけのもので、身分証や許可証の検査も緩いものであった。この頃から筆者はパレスチナ/イスラエルへ足を運ぶようになったのだが、90年代にヨルダン川西岸地区とイスラエル領とのあいだを行き来するバスや乗り合いタクシーでは、ほとんどつねに、許可証を持たずにイスラエルに出入りするパレスチナ人が乗っていて、検問所が近づくとその手前で降ろしてもらい、徒歩で検問所を迂回し、検問所の先で再び同じバスやタクシーに拾ってもらうということを常としていた。運転手も心得たもので、阿吽の呼吸で無許可者を乗降させていたし、おそらくこの検問抜けをイスラエル兵も黙認していただろう。検問所近辺の草むらを走り抜ける若者たちの姿は、バスの中からも容易に視認できていた。


 ところで、被占領下のパレスチナ人たちの労働先はイスラエル領には限らない。1967年の軍事占領以降、西岸地区とガザ地区にはイスラエルの入植地が大規模に建設され、もちろんパレスチナ人の土地が収奪され、そこに住宅地が建設されたのみならず、工場地帯や農業プランテーションが建設され、大規模な雇用が生み出されたのであった(ガザ地区に限れば2005年に入植地は撤収されたが)。パレスチナ人たちは、このイスラエルのユダヤ人たちが所有し経営する被占領地内部の入植地の工場や農場でも現金収入のために労働してきたのである。


 こうした被占領下のパレスチナ人労働者たちの存在は、政治的に従順であるかぎりにおいて、イスラエル経済にとってはひじょうに好都合な存在であった。彼らは、西岸地区やガザ地区に家があり、外国人労働者のようにイスラエルに不法滞在することなく、また、稼いだお金もイスラエルが握る物流のなかで消費し、イスラエルにお金を還元する。この点でも故国への海外送金を目的とする外国人労働者とは異なるのだ。これらの点で、被占領下のパレスチナ人たちの労働は重宝されたのであった。


 加えて、被占領下のパレスチナ人たちは、主に原油マネーと金融で潤うペルシャ湾岸諸国へと出稼ぎに行っていたことも付記しておく。西岸・ガザ地区だけでなく周辺諸国のパレスチナ難民も含めると、その数は最大時で80万人にも達するとされる。


5 1987年インティファーダの勃発と1993年オスロ和平合意


 この「蜜月」に最初の終わりが告げられたのは、1987年から始まり数年間つづいた第一次インティファーダであった。組織的かつ継続的な抵抗運動である。非人間的なパレスチナ人の扱いに対して鬱積した不満が爆発したのであった。それを「従順な飼い犬に手を噛まれた」としか認識しないイスラエルは、労働許可を制限するという「懲罰」でもってパレスチナ人に臨んだ。ときあたかも東西冷戦が終焉し、アメリカ合衆国主導でのグローバリゼーションとネオリベラリズムが進み、労働移民の世界規模での流動化が生じていた。イスラエルは、従順でなくなったパレスチナ人に代わる、使い捨ての安価な労働力を確保する道をすでに見つけていた。


 逆にパレスチナ人の側は、勝算などないまま(そんな力量などあろうはずもない)、抵抗運動を継続させ、武力攻撃と封鎖と制裁とによって疲弊していった。不運にして、そこにイラクによる湾岸危機・湾岸戦争(1990-91年)が重なり、イラクを支持したパレスチナ人たちは湾岸諸国から追放されてしまった。イスラエルと湾岸という二大出稼ぎ地帯を同時に失ってしまい、被占領下パレスチナは行き詰まった。さらに言えば、パレスチナの主要政治組織であるパレスチナ解放機構もイラク支持のために、パトロンだったその他の湾岸諸国から見棄てられ資金源を失った(クウェート侵攻をしたイラクが、クウェート撤退の条件として、イスラエルのパレスチナ占領地からの撤退を挙げたことが、パレスチナ人をイラク支持に向かわせた)。


 1993年の歴史的和解と言われる「オスロ和平合意」というのは、実は、経済的に完全に窮した(出稼ぎ労働と国際支援と両方を失った)パレスチナの側が、イスラエルの言いなりに無条件降伏したに等しいものであった。和平合意の内実は、「パレスチナに自治」を与えると言いつつ(「パレスチナ暫定自治政府」の発足)、実際には「自治」の名目で貧困に陥ったパレスチナを国際援助(とくに合衆国とEUと日本)に負担させるという枠組みをつくったというもので、1993年以降もパレスチナの被占領地へのユダヤ人入植地建設さえ抑制することもなければ、国連も認めたパレスチナ難民の帰還権にも触れないような、パレスチナにとって内実ゼロの「合意」であったのだ。


 イスラエル側から見れば、政治的に従順であるかぎりにおいて経済的には、つまり労働力としては利用してきたパレスチナ人が、政治的に反抗する主体になるようなら切り捨てる、という姿勢だ。そもそも情勢次第で労働許可の数を絞ったり検問所での通過を拒否したりすることで、自在に出入りをコントロールできる状況に置かれてきたパレスチナ人の労働者である。ちょうど世界規模で労働力の流動化が進み、代替労働力がいくらでも見つかる状況が、イスラエルの強気の姿勢を後押しした。


6 外国人労働者の急増と多文化主義への反発


 こうして1990年代から、いわゆる外国人労働者がイスラエルでも急増した。日本でも1990年に入管法改定で日系人移民労働者を大規模に導入したのと同じタイミングである。とくに、中国、フィリピン、タイなどのアジア諸国と、そしてルーマニアなど東欧諸国からの出稼ぎ労働者が多い。建設業、農業、清掃業、家事介護労働などの現場にとくに外国人労働者が多い。彼らは、パレスチナ人のように集団的に政治的反抗をするリスクがない。たしかに国内市場にお金を落とすことなく故郷へと海外送金してしまうという経済的デメリットはあるが、政治的には無関心で従順である。


 この1990年代から、先述のイスラエルはロシア系やエチオピア系移民の急増と、外国人労働者の急増が重なり、多文化・多言語的な状況が発生した。テルアビブやエルサレムやハイファなどの大都会には、ロシア語の新聞が街頭に置かれ、ロシア語のメニューしか置かないカフェができた。彼らはシオニスト的情熱で移民をしてきたわけでなく、しかも短期間で100万人以上ものロシア系移民が流入してきたため、ヘブライ語の習熟に熱意がなく、ロシア語コミュニティをつくりがちなのだ。実際テルアヴィヴのロシア系のカフェに入ったときに、英語かヘブライ語のメニューがないかと尋ねたところ、店員から即座に「ノー・イングリッシュ、ロー・イブリット」と拒否されてしまったことがある。「ロー」はヘブライ語で「ノー」、「イブリット」はヘブライ語のことだ。


 他方で、肌の色に基づく差別がイスラエル社会で横行し、エチオピア移民たちが抗議デモをしている様子が連日のようにニュースになった。「ユダヤ教徒」というタテマエがあるものの、ヨーロッパ系のユダヤ人階層は、中東アラブ系ユダヤ人のさらに下にエチオピア系を置いて見下しているからだ。


 さらにそうした大都市の街中では、ユダヤ教のコシェルという食事規定で禁止されている豚肉を堂々と看板に掲げて販売する食材屋が増えていった。しかもその看板には、ヘブライ語だけでなく、英語(「Pork」)や中国語(「猪肉」)やロシア語まで並んでいる。


 また、筆者がイスラエルに行くようになった1990年代の頃は街中で知らない市民から「ヤパニット?」(日本人か?)と声をかけられていたが、それからわずか数年のうちには、明らかに「シニット?」(中国人か?)と声をかけられることが多くなった。彼らが日常で接する外国人がこの時期に変わってきたことを示している。


 加えて、こうした多文化化していく街中では、着実に「移民二世」が増えていった。これもまた日本の経験に照らして理解できることだが、労働政策上はたんなる出稼ぎ「労働力」としか見ておらず、単身でやってきて一定期間稼いだ後には速やかに帰国するものと想定していたが、実際には「生身の人間」が移住してくるのであり、年月を重ねるとその社会に定着し、結婚・出産によって家族を形成することもある。


 イスラエルは「ユダヤ人国家」を自称している。しかも、可能なかぎりユダヤ人だけの純粋な民族国家を目指して、アラブ・パレスチナ人を弾圧してきたはずだ。しかし、この反アラブ・パレスチナ政策は、予期せぬ移民社会による多文化・多民族化を招き寄せてしまった。純ユダヤ人国家を目指すうえでは、これもまた歓迎せざる事態である。イスラエルが低賃金労働を完全に海外からの移民に切り替えられない理由もそこにある。イスラエルの排外主義者・人種差別主義者のなかには、まったくの疎遠な土地から来る異教・異言語の民よりも、同じ土地の出身で、同じ一神教を信じ、同じセム系言語を話すアラブ人のほうをマシと見る傾向もまた存在するのだ(ユダヤ教もイスラームもキリスト教も共通の神と啓典をもつ一神教であり、ヘブライ語とアラビア語とは同じ系統の言語である)。


おわりに


 こうしてシオニズムの100年強の歴史を、労働経済という観点から振り返り整理すると、ユダヤ人とアラブ人の相互の憎悪とか、ユダヤ教とイスラームとの宗教紛争とか、一つの聖地をめぐる奪い合いといった見方が、まったく的を射ない捏造された対立構図であることが明らかだろう。移民をする側の動機にも、移民を受け入れる側の動機にも、人が生きていく以上は、本質的に経済活動に関わるものがある。そして経済活動には、労働が不可欠なのである。その観点を抜きにした移民論や文化論(単一文化論であれ多文化論であれ)は、空疎に響くかあるいは過度に敵対的で排外的なものになりかねない。それは、イスラエル・パレスチナ紛争についての一般的な語られ方が示すとおりだ。


 これは、移住労働を排出する側としてであれ、移住労働を受け入れる側としてであれ、やはり100年以上の近現代史を積み重ねてきた日本社会にも当然にしてあてはまることだ。他人事ではないし、むしろあまりに多くの問題を私たちは共有している。私たちはそうした移住労働の観点を抜きにしてイスラエル・パレスチナ問題を見るわけにはいかないし、逆に、移住労働問題としてイスラエル・パレスチナを見る観点から世界と日本を見直すべきなのだろう。


 


【参考文献】


臼杵陽『見えざるユダヤ人――イスラエルの〈東洋〉』(平凡社、1998年)


臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書、2013年)


大岩川和正『現代イスラエルの社会経済構造――パレスチナにおけるユダヤ人入植村の研究』(東京大学出版会、1983年)


ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』(黒田寿郎、奴田原睦明訳、河出文庫、2017年)


イラン・パペ『パレスチナの民族浄化――イスラエル建国の暴力』(田浪亜央江、早尾貴紀訳、法政大学出版局、2017年)


早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)


森まり子『社会主義シオニズムとアラブ問題――ベングリオンの軌跡1905〜1939』(岩波書店、2002年)


サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ――パレスチナの政治経済学』(岡真理、小田切拓、早尾貴紀編訳、青土社、2009年)


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