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徽宗皇帝のブログ

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キャンセルカルチャーと「表現の自由」
某ブログ(Noteか?)に引用されていた文章だが、非常に重要な内容で、これはジャーナリストやクリエイターだけでなく、SNSでの有名無名有象無象の発信者も関係する問題だろう。つまり、あなたも私も関係する問題だ。
キャンセルカルチャーとは要するにネットやマスコミを使ったリンチ(私的制裁)であるが、この風潮は急進的フェミニズム界隈やLGBT権利拡張論者界隈を中心に(と書いただけでリンチの対象になるだろうww まあ、無名の匿名ブログだろうが、いつ彼らの獲物になるか分かったものではない。)どんどん広がっている。「ポリコレ」もこれと似ている。つまり、一部の人間が誰かを批判する行為が、無条件に「正義」とされて社会をどんどん侵食していく。つまり、そういう連中の声だけが生存権を認められ、批判される者の声は無条件に封殺される。そうすると、「表現の自由」も、あるいは将来的には「思想・信条の自由」などの基本的人権も蚕食されていく可能性は高い。キャンセルカルチャーの獲物になって、職を失った文化人もいる。
なお、私はお役所がエロ漫画みたいなキャラクターをポスターに使うことに不快感を持つ人間だが、それを禁止しろ、とは言わない。単に「あの馬鹿ども」と思うだけである。

(以下引用)

 情報と価値観をもってして、一切の制約なく討論できることは、自由社会の生命線だが、これが日々狭められている。もう過激な保守派の常套手段となりつつあるが、検閲的風潮はもっと広範に我々の文化を蝕みつつある。例えば相反する価値観への不寛容、中傷誹謗の横行、そして複雑な政治的問題を一刀両断に倫理で決めつける傾向などがそうだ。

 我々はこれよりもっと懐の大きい、全方面からの議論を尊重したい。だが今日では、一見まちがっているとされる発言や考えに、予断を許さず容赦ない鉄槌が下されることが少なくない。さらに問題なのは、組織のリーダーが失態を慌てて取り繕おうと、組織改革の前に急いで火急な処罰を決断してしまうことだ。

 例えば、真実味が足りないとされた本が出版されなくなる、異論の多い投稿を掲載したとして編集者が首になる、ジャーナリストが書くことを禁じられたトピックがある、古典作品を引用しただけで調査の対象となる教授がいる、査読済みの研究を配布した研究者が解雇される。そして、中には不注意な間違いが元で組織を追われる所長がいる。

 個々の件についてどんな議論があろうとも、結果は同じ、報復やバッシングを恐れてどんどん発言の場が狭められてしまうのだ。既に作家、アーティスト、ジャーナリストの中には、生活の糧を奪われることを恐れ、コンセンサスとはかけ離れていたり、多数の賛同を得られないことを避ける傾向が強まっている。

 息の詰まるようなこの空気は、しまいには今の時代に一番必要なものを奪っていくだろう。抑圧的な政府であれ、不寛容な社会であれ、ディベートを制限することは、権力を持たぬ者を傷めつけ、誰もが積極的に民主主義に参加しにくくする。よろしくない考えを打ち負かすには、それを陽のもとに晒して議論し、説得を試みることであって、黙らせたり、なかった事にすることによってではない。我々は、正義か自由か、という欺瞞にあふれた二択に与する者ではない。

 書き手としての我々は、そこに実験の余地があり、リスクをとり、時には間違いを犯してもいい文化を必要としている。キャリアを潰されることなく、相容れない考えでも真っ当な議論の結果として受け入れられる可能性を残さねばならない。我々自身がものを書く礎となっているそのものを守らずして、どうして読み手や国がそれを守ってくれると信じえようか。

HON.jp News Blog, 大原ケイ『キャンセル・カルチャーは言論の自由を損なう脅威か、過剰なポリティカル・コレクトネスか:2020/8/5』(visited 2022/1/22)より、 “A Letter on Justice and Open Debate” – Harper’s Magazine / July 7, 2020"の訳を引用した。
※強調は引用者による。

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